【掌編集】灯の断片 − 光と呼ばれた沈黙 −

Spica|言葉を編む

第1話:名前のない夜 ─ ヘッドライトの先の光 ─

李 明り あきらは、今日も誰からも名前を呼ばれなかった。


午前の清掃現場。

無線の声も、名札の文字も、彼の存在を必要としない。

漂白剤と汗の匂いの交わる休憩室で、

名前のない紙コップにコーヒーを注ぐ。


誰も見ていない時間にだけ、

“名前のない自分”が存在していた。

目を閉じるたび、呼ばれる夢を見る。

それはいつも違う声だった。


午後、短い仮眠のあと、

軽自動車のエンジンをかける。

夜の仕事が始まる。


助手席には、川島陽菜。

「この前、娘が『名前の由来を調べてきて』って言われたんです」

信号待ちの窓越しに、彼女の声が流れる。

「私の名前も、娘の名前も……誰かが適当に決めたみたいで」


「名前って、大事だと思う?」

沈黙が、信号の青よりも長く続いた。


呼ばれない名前たちが、

街のどこかで光になっている気がした。


夜。

缶コーヒーを飲みながら、

彼は考える。


通名、仮名、記号。

どれも本当じゃない。

けれど、それでも。


ヘッドライトに照らされた道路は、

まっすぐに光っていた。


その光の先に、

少しだけ、自分がいた。

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