第1話


 よく晴れた日だ。

 大阪で開催された日本初の国際博覧会が、三月十五日から九月十三日までの一八三日間を無事閉幕し、国民の熱気が大分落ち着きを見せ始めた十一月の半ば。快晴と呼ぶに相応しいこの日、人混みを少し歩くだけでもジワリと額に汗が滲んだ。やたらと陽射しの照りつける日中、これだったら羽織る厚手のコートはいらない。

 脱げば良いだけの話だが、どうしたわけか脱ぐタイミングとやらを逃し今に至る。誰かがどうにかする問題でもない。ただ単純に自分とのタイミングが上手いこと合わなかっただけ。よくあることだ。

 丸眼鏡も鼻から滲む汗でズレてしまう。

 脱ごうか、脱ぐまいか。脱いだら脱いだで手荷物が増える。それは面倒だ。

 林涼太は数ヶ月振りに、幼馴染みと会う約束をして新宿駅に来ていた。

 日頃から電話をしてはいるが、こちらが一方的に喋っているだけで幼馴染みは時折聞いているのかいないのか気の抜けた生返事のみ。しかも割と小さい返事だからこちらが聞き耳を立てていなければならない。話をしながらも聞き耳を立てるのは非常に億劫だ。何せ生返事ということは、自分が今話している内容は相手にとって全く興味が無いのだろう話。

『右から左へ』だ。

 ――いや、左から右かも知れない。

 などとくだらないことを考えては、くすりと笑ってみた。

 それに聞いている相手が『あの男』でなければ勿論早々に話を切り上げている。

『あの男』とは小学生になったと同時からの付き合いだ。クラスが離れようと進学して学校が分かれようと『幼馴染み』と言う肩書きは捨てなかった。捨てたくなかった。

 それはきっとここにはいない二人目の幼馴染みも同じ考えであろう。

 三人はいつも一緒だった。どうにも『あの男』とは離れ難い。

 なにがそうさせるのか問われれば涼太は直ぐ様こう答える。

『あの男は変人』だ。

 見た目は育ちの良さそうな清潔な空気を纏っている。前を横切れば、吹くは透明でさわやかな風。そこにニッコリと微笑もうものなら、女性陣が黙ってはいないだろう程の美形。それはもう、完膚なきまでの美丈夫。

 街を歩けば異性の目に留まり、男の行き先を追う追う。モデルや俳優ですら太刀打ち出来ない――涼太は常々そう思っているのだが、残念なことに先にも言ったが『あの男』は『変人』なのだ。

 黙っていればモテるものを異性に全く興味のない男は場の空気を一切汲み取らず、一度口を開けようものならご自慢の蘊蓄を鼻高々これでもかと披露し『奇行』を繰り返し、周りに群がって何かしらを期待していた女性たちを石化させるだけさせ、女性たちの方が謝りながら蟻の子さながら散り散りに去ってゆく。

 面白いくらいに。笑ってしまうくらいに。まるでコントを見ているようだ。

 涼太はだから女性陣に囲まれる『あの男』に嫉妬したことは一度もない。

 むしろ女性たちを哀れんだ。

 そして、心の奥底で謝罪した。

 ――こんなヤツで申し訳ない、と。

『変人』と幼少期から言われ続けた『あの男』は以前まではお喋りな人間だった。

 思春期ですらそんな状況なものだから、この男に恋愛感情はあるのだろうか、と心から心配になったこともある。

 そんな恋愛下手な男だったから、大学を中退した後の一世一代の大恋愛は深く濃く――あまりにも悲劇的だった。

 そして『変人』は二九歳になった。

 二九歳になった今は無口だ。

 電話しても殆ど喋らない。

 涼太が一方的に喋っている。

 学生時分と比べれば別人と疑ってもおかしくはないだろう。

 事実、当時のクラスメイトと会おうものならきっと気付かれない程に彼は変わってしまった。

 奇人変人であり天真爛漫の言葉がよく似合った学生時代の少年のその瞳は、誰が見ても輝いていたのだが、今の男はどうだろう? キラキラと輝いていた瞳は生気を無くし死んだ魚のよう。昔からの馴染みの人間からはそう見えているに違いないが、昔を知らない人間からはただ『難しそうな人間』に見えるだけで、その背景を知りはしないだろう。

 それで済んでいるのは彼が『小説家』という肩書きを持っているから。

 そう。

 彼は『小説家』なのだ。

 推理ものや読者を選ぶような薄気味悪い怪奇ものを書いているが、デビューから間もないのにすでに何作も作品を世に出して、一躍人気作家の仲間入りをしている。

 涼太は新作が本屋に並ぶ度に購入し、きちんと筆者である幼馴染みに電話で感想を伝えていた。受話器の先の彼は毎回生返事を返すだけで読者の感想にすら興味を示す気配はない。幼馴染だからかと当初思ったが、どうやら照れ隠しでもなく本気で他人の感想に興味がないのだ。

 曰く。

 本屋に並んだら筆者のものではなく、もう読者のもの。感想も読んだ人間の好きなように捉えてくれて構わない――のだそう。

 だからいくら涼太が毎回ご丁寧に感想を述べて褒め称えても当事者である彼は全く興味ないのだ。普通なら顰蹙を買う作者の行為でも、徹底したその姿勢が何故か好感を得ている。そして自身の見目の良さが血なまぐさい人死にの内容であっても幅広い年齢層の読者――とりわけ何故か若い女性の読者を多くを獲得し、日々絶えずファンレターが大量に出版社に届いていた。

「見た目も良いし頭も良い、だもんなぁ」

 雑踏の中から目的の人物を正面にし、うんうんと頷きながら一人言を呟いた。

「なんだ?」

 涼太の小学生からの幼馴染み、嵐橘和人あらしきつかずひとは自分を見てウンウン頷いている友人を眉根を寄せて訝しんだ。

「いや、こっちのことだよ。それにしても会うのは久しぶりだな、元気にしていたか?」

「電話を毎日架けてくるだろう」

 無表情であまりにも面倒そうな表情ではあるが、一応返事を返してくれるだけでも涼太は良い進歩だと思っている。

 ほんの少し前の和人はこちらの顔を見もせず、返事すらしなかった。

 長身で細身、鼻筋も通っていて少しばかり日本人離れの美青年と言われても何の文句はない。

 見た目だけ、見た目だけは。

 ヤレヤレと息を吐いて気を取り直し、涼太は幼馴染みに向き直った。

「それはそれ、だ。電話はあくまで生存確認だよ。呼び出して済まなかったね、ここまで出て来るの大変だったろ?」

 明るい声音で言えば、眼の前の男は長身の割に小さく首を横に振った。

「締め切りとか大丈夫だったか?」

「気を使わなくていい。用があって呼び出したんだろ?」

 人口密度の濃い新宿の駅前でも不思議とよく通る小さい声は、言葉に反して機嫌は悪くないようだ。

「いや何、毎日家に籠もって外にも出ずに仕事をしてるだろ? 締め切りが大丈夫なら少しくらい俺に付き合ってくれても問題ないんじゃないか? 和は締め切りを守る小説家だってファンの間でもっぱらの噂だ」

「そんなもの読者が言ってるだけで事実じゃない。私の仕事を気にするくらいなら先に電話で確認取ってくれ。もし締め切りがあったらどうするつもりだったんだ」

 心底呆れた様子の和人に涼太は悪戯好きの子供のように無邪気に満面の笑みと白い歯をニヤリと見せた。こんな顔を見せられては和人はこれ以上文句は言えない。昔から涼太のお得意の表情にこちらの毒気はすっかり抜かれてしまうのだ。

「そんなこと言うけど、俺が頼んだら出て来てくれるんでしょうよ」

 小学校の低学年の頃から和人と涼太、そしてここにはいない今は警視庁の刑事をしているもう一人の幼馴染み、橋田宗次郎と三人でいつもつるんで行動していた。同じ学校だったのは高校までではあったが、それぞれ別の大学に進学しても週末になれば三人のうちの誰かの家に遊びに行くか外で遊ぶか、出逢った頃とまるっきり変わらない付き合いをしている。

 和人が突然大学を中退して探偵になった時も、一年経たずに大怪我をして探偵業を辞めざるを得なかった時も、涼太と宗次郎は決して離れず落ち着くまで見守ったのだ。当時のことは言葉にはしないが和人は感謝している。だからこうして呼び出しがあれば文句を言いながらも幼馴染みに付き合うことにしていた。

 ニヤニヤ顔を崩さず気持ちをしっかり汲んでいる涼太は、仕事の関係上どうしても閉じ籠もりがちになってしまう幼馴染みを時折こうして外に連れ出すことにしている。

 それが心に傷を負った男に有効なのだと、五年以上かかって漸く最近分かってきた。

「この近くに珈琲の美味しい喫茶店が出来たんだ。きっと和も気に入るだろうと思ってね」

 無類の珈琲好きの和人がこれに釣られない筈がない。

 案の定、魂の抜けたような瞳に僅かながら輝きが見てとれた。

 煙草の煙が充満している新宿駅東口を出て、靖国通りを行く。

「今日歩行者天国なくて良かったな」

 歩行者天国は銀座・新宿・池袋・浅草の四地区で八月二日から実施され、銀座だけで一日二三万人、新宿では二七万人も訪れた。

 高度経済成長期の真っ只中、自動車の普及による交通渋滞や事故が急増、大気汚染の環境問題への配慮が高まり道路交通の車優先から歩行者中心への転換が求められた。

「美濃部知事もよく提唱したもんだよ。新宿なんか休日の二倍の人出だったそうじゃないか。新宿通りに軒を連ねてる店は大繁盛したろうよ」

 十分ほど歩くと左手に新しくできたばかりの五階建てのビルの地下、そこにお目当ての喫茶店があった。

 ビル自体が新しいのもあり、地下から最上階の五階まで入っている何十店舗もの店はどこもコンクリートやペンキの真新しい独特の臭いに包まれている。

 和人は一瞬薄っすらと眉間に皺を刻んだが、すぐに元の無表情の顔に戻った。

 この臭いばかりは仕方ないだろう―――と涼太は肩を竦めて見せると、和人は不快な顔をしてしまった所を見られたのが気不味かったのか、足早に地下へと続くゆるい螺旋階段を降りて行った。煙草の臭いは良くてもシンナー臭は駄目らしい。

「喫茶エラリー?」

「そう、和なら知っているだろ? ここのマスターの趣味はミステリ小説を読むことなんだ。珈琲も含めてマスターと絶対気が合うはずだよ」

 エラリーとはアメリカの従兄弟同士、フレデリック・ダネイとマンフレッド・ベニントン・リーとで組んだ、ペンネーム『エラリー・クイーン』という二人組の推理作家だ。デビュー作は一九二九年の『ローマ帽子の謎』。代表作は一九三二年の『Yの悲劇』。

 同じく推理作家のアガサ・クリスティほど広範な人気はないが、日本では第二次世界大戦前から一般読者からマニアまで広く支持を集め、二十世紀末以降の新本格派と呼ばれる作家群はエラリーの名を第一に挙げ、影響を公言する作家が存在する。

 かくいう和人もその一人だ。

 涼太は幼馴染みがエラリーに影響を受けているのを彼の数々の著書を読んで自ずと悟った。それは涼太でなくとも多くの推理小説を読破しているであろう読者たちであれば、プロットやトリックの傾向が似通っていると簡単に見抜けるはずだ。

 現に和人の新作が出版される度、読書家であろう本屋の店員が彼の著書の隣に必ずエラリーの作品が平積みしている。

 当の本人は自身の書籍が発行されても本屋には行かないから、そんな事態になっているとは露とも知らないでいた。 知ったら知ったで、並べるな、と善意であろう書店に文句を言いに殴り込んで来るのが容易に想像出来てしまう。

「まぁ、殴り込むことはないだろうけどね」

「何か言ったか?」

「いいや? なんでもないよ。それより早く入ろう。ここは軽食もなかなかに美味しいんだ」

 鈴の付いたドアの横にはガラスケースに入ったサンプル食品が見栄えよく並んでいる。

 サンドウィッチ、スパゲッティ、クリームソーダ、プリン・ア・ラ・モード――定番の物から喫茶店にしては珍しい豚の生姜焼き定食まであった。

 今日は何を食べようか――などと職場が近い涼太は開店して間もないのに、すでに常連になりつつある。

「まだ昼には早いしな。生姜焼き定食は明日にして、今日はホットケーキと珈琲だけにしようかな。和はどうする? 珈琲だけか? ここはホットケーキも美味しいぞ」

 サンプル食品のガラスケースにはしっかりホットケーキが大きく存在をアピールしていた。

 キツネ色に綺麗に焼けたホットケーキの上に四角く切られたバターが半分程溶けている。食品サンプルにしては良く作られていた。

 自慢のメニューなのだろう。

「ここでメニューを決めるつもりなのか? 中に入って席にすら着かない気か?」

 呆れた顔を隠しもせず和人は入口のドアノブを掴んだまま、子供のようにはしゃぐ男を半眼した。

「済まない済まない。さぁ入ろう。絶対に和が気に入るからな」

 ドアを開けた。

 カランカランとドアに付いたベルが軽快に鳴った。

 途端二人は予期せぬ怒号に体を硬直させた。

「何度言わせるんだ! 酒を出せって言ってんだよ!」

 しゃがれた醜い声。

 裏返らせながら怒鳴り散らす声。

 一人の人間の口から矢継ぎ早に繰り出す声。

「俺は客だぞ!」

「ここはお酒を飲む場所じゃありません。お酒を飲むなら別の店に行ってください」

 怒鳴り散らす男に対して、喫茶店のマスターであろう老齢の男が冷静に対応していた。

 怒鳴り散らして顔が赤いのか、はたまた、ここに来る前からすでに酒を浴びているのか――呂律も十分に回ってない。

 なんにしろ静かにジャズが流れている喫茶店にとって、いい迷惑なのは変わりない。

「お前が買ってくれば良いだけだろ! 客をなんだと思ってんだ!」

 年齢は三十代後半であろうか、身なりが貧相で冬も近いこの時期に薄汚れた半袖のポロシャツを着て、血管や骨がやたらと浮き出ている程痩せ、頬もこけ眼孔が大きく窪んでいる。あまり品のいい暮らしをしていないのだろう。顔に皺があまり見受けられないのは、もしかしたら思うより若いのかも知れない。

 店内には理不尽に喚き散らす男とマスター以外にも数人の客が各々の席に座って困惑しながら二人を見守っている。

 和人たちもドアの前に立ったままだ。

 店員は他におらず、どうやらマスター一人だけで切り盛りしている喫茶店らしい。

「あ」

 和人の背後で涼太が場違いな声を上げた。

「患者さんの旦那だ」

「――とりあえず外まで声が響いている。ドアを閉めろ」

 ああ――口を開け驚いた顔の涼太は和人に言われて我に返った。

「白石さん! 白石晃さんですよね?」

 マスターに掴みかかろうとした男を、涼太は後ろから羽交い締めにして止めた。

「なんだてめえは!」

 涼太の方が見るからに年下だが、学生時代はスポーツをしていただけに圧倒的に体力差があり、男は身動きが取れずに足だけを駄々をこねた子供のようにばたつかせた。

「白石さん、私ですよ。奥様の主治医の林です」

「――なんだと? 信子、の?」

「はい。何度もお会いしてますよね」

「ああ――先生……林先生……」

 さすが心身医学者だ。

 静かな声で白石晃をいとも簡単に落ち着かせてみせた。

「そうですそうです、信子さんの主治医の林です」

 大学を卒業した涼太は順調に心身医学者になった。

 子供の頃はそんなこと微塵も思わせず国家資格である医師免許を取得した涼太に、和人ももう一人の幼馴染みも驚いた。そもそも涼太は幼少期から勉強嫌いで飽きっぽい性格で、色々なスポーツを取っ替え引っ替え中途半端に手をつけては長続きしたことはなかったから、大変な心身医学者なんて務まらないだろう――と二人の幼馴染みは失礼ながらも思った。

 その二人の思い込みはものの見事に大外れに外れ、心身医学者となり最初は大学病院で勤務していたが、なんと数年後には独立したのだ。

 こんなに長く一つのことが続くのは涼太の人生の中で初めてだ。本人もニヤニヤとさせながら自慢気に語ったのは記憶に新しい。

「先生よぉ、あんたもここにいる奴らと同じで、俺のこと頭がおかしいとか思ってんのか?  勘弁してくれよ、もう限界なんだ。酒に逃げるしか俺にはないんだよ」

 先ほどまでの怒鳴り散らしていた男とは思えない、今度は涙を滲ませ震えた声で涼太に縋り付いた。

「おかしいなんてびた一文も思っていませんよ、白石さん」

 マスターを見やると、心底うっとおしそうな顔をされているかと思いきや、人情に篤い人物なのだろう――さっきまでさんざん口論をしていた客とは言えない男に対して一杯の水を差し出し、言葉少なく席に座るよう促してくれた。

「騒がせて申し訳ない、マスター」

 和人は涼太と男から離れて、他の客たちに頭を下げて回るマスターの後を追い、小声で声をかけた。

「ああ――こちらこそ、すぐに対応できなくて申し訳ありません。眼鏡の方のお連れ様で?」

「はい、そうです。彼からここの珈琲が絶品と聞きまして」

「さようでしたか。それでは、こちらのカウンターにお座りください。当店自慢の珈琲をお出し致しましょう」

 和人がカウンターに座るのを確認すると、マスターは真っ白なカップを三つ用意した。それは和人と涼太、もう一つは白石という男の分だろう。

   ――良い店だ。

 あまり笑顔を見せない和人は珍しくにっこりと微笑んだ。

 

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