カフェの建築士は今日も暮らしを描く
木工槍鉋
第1話 カフェと、設計事務所と
「カフェやりたいんだけど、設計してくれないかな」
笑美は唐突にそう言った。いつものファミレス、いつものように仕事の愚痴を言い合った後で。
僕は、フォークに刺したハンバーグを口に運ぶ手を止めた。
「は?」
「だから、カフェ。やりたいの」
笑美は穏やかな笑顔で繰り返した。冗談を言っているようには見えない。
「お前、まだSEやってるだろ」
「来月でやめるの」
コーヒーカップを両手でそっと包みながら、彼女は言った。ふわりとした仕草が、いかにも笑美らしい。
「マジか」
「マジ。もう限界。新くんは大丈夫なの?建築事務所」
「まあ、なんとか」
三十五歳。建築事務所で三年間実務経験を積んで、ようやく独立できる資格を手に入れた。でも、このままでいいのか。そろそろ独立しないと、このまま勤め人で終わってしまうんじゃないか。そんな焦りがあった。
「それで、カフェ?」
「うん。コーヒー好きだし、人と話すの好きだし。それに...」
笑美は少し照れくさそうに、柔らかく笑った。
「新くんが建築士になるって言ったとき、いいなって思ったの。形に残るもの、作れるのって」
僕は何も言えなかった。
あれから八年。二十七歳で職安で出会って、お互いに人生をやり直そうとして。僕はプログラマーを辞めて大学に入り直し、笑美はずっとSEを続けながら、貯金をしていたらしい。
「だから、その第一号。新くんに頼みたい」
笑美はいつもの優しい目で、僕を見た。
「一角を設計事務所にしてもいいよ。一緒に、やろう?」
――それから、五年が経った。
「新さん、コーヒーおかわりいかがですか?」
笑美が、カウンター越しに声をかけてきた。白いエプロン姿が、カフェの雰囲気によく馴染んでいる。
「ああ、もらおうかな」
僕はパソコンから目を離し、カップを差し出した。カフェの一角、大きな窓際のテーブルが僕の仕事場だ。看板には「生方設計事務所」とある。
開業して三年。四十歳になった。仕事は、まあ、ぼちぼちだ。
「今日は何の図面?」
笑美が柔らかく微笑みながら、コーヒーを注いでくれる。
「鈴木さんちの物置。増築したいって」
「また物置?」
笑美が困ったように笑う。責めるような口調ではない。いつも通りの、やわらかい声だ。
「需要があるんだよ、物置」
実際、僕の仕事の大半は小さな修繕やリフォームの相談だ。「建築士」というより「何でも屋」に近い。大学で四年間学んで、実務経験を積んで、ようやく手に入れた資格なのに、描くのは物置の図面。
それでも、不満はない。少なくとも、プログラマーとしてコードを書いていた頃よりは。
カランカラン。
入口のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
笑美の明るい声。僕は図面に目を戻す。
「あの、すみません」
聞き慣れない、年配の女性の声だった。少し遠慮がちな響きがある。
「はい、どうぞお好きな席へ」
笑美が優しく答える。
僕は作業を続けながら、なんとなく新しいお客さんの気配を感じていた。七十代くらいだろうか。小柄な女性が、窓際の席に座ったようだった。
「ご注文はお決まりですか?」
笑美が声をかける。
「あの、ブレンドコーヒーをお願いします」
「かしこまりました」
笑美がカウンターに戻り、コーヒーを淹れ始める。店内には豆を挽く音が響いた。
僕は物置の図面を仕上げながら、時々窓の外を眺めた。十月の午後、穏やかな日差しが差し込んでいる。
「お待たせしました」
笑美がコーヒーを運んでいく。
「ありがとうございます。素敵なカフェですね」
「ありがとうございます。ゆっくりしていってくださいね」
その女性は、一時間ほど静かにコーヒーを飲んで、本を読んでいた。帰り際、笑美に丁寧にお辞儀をして店を出ていった。
「新しいお客さん?」
僕が聞くと、笑美が頷いた。
「うん。感じのいい人だった」
それから数日後、その女性はまた来た。
「いらっしゃいませ」
笑美が声をかけると、女性は少し安心したように微笑んだ。
「また来てしまいました」
「ありがとうございます。今日もブレンドでよろしいですか?」
「ええ、お願いします」
女性は前と同じ窓際の席に座った。今日も本を持っている。
笑美がコーヒーを運ぶと、少し話し込んでいるようだった。笑美はこういう、お客さんとの何気ない会話が得意だ。優しく相手の話を聞いて、自然と心を開かせる。
それからその女性は、週に二、三回のペースでカフェに来るようになった。いつも同じ時間帯、同じ席。笑美とも少しずつ顔なじみになっていくのが、横で見ていても分かった。
「川島さんって言うんだって」
ある日の閉店後、笑美が教えてくれた。
「この近くに住んでるらしい。一人暮らしみたい」
「そうなんだ」
「なんか、少し寂しそうな感じがするんだよね」
笑美はそう言って、カウンターを拭いていた。
第一話 了
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