第7話 公平という名のナイフ
**1**
私の名は、袴田瑞穂。法学の徒、《リーガ》。
アカデメイア評議会において、風紀委員長を務めている。
私が守るべきものは、秩序と、その根底にある「公正」という理念だ。
『公平な関係は、最も美しい』
それは、人間社会が目指すべき、最も崇高な理想形だと信じている。
予算案を巡る一連の騒動は、「不完全な均衡点」という、一つの結論に達した。
桜井会長の安定性と、宇沢副会長の革新性。相反する二つの価値を、長谷川庶務の示した「一人ひとりの生徒」という視点で見つめ直し、生まれた妥協の産物。
それは、法的に見ても、多くの矛盾を孕んだ、完璧とは程遠いものだった。
だが、あの時の評議会室には、確かに一種の連帯感が生まれていた。異なる正義が、互いを認め合い、一つの未来を築こうとする、美しい瞬間。
私もまた、その場の空気に、少しだけ心を動かされていたのかもしれない。
だが、風紀委員長の仕事は、理想を語ることではない。
理想が現実と衝突した時に生まれる、醜い摩擦を、淡々と処理していくことだ。
「――というわけで、お願いします、袴田委員長!」
放課後の風紀委員会室。
私の目の前で、一人の生徒が、深々と頭を下げていた。
彼女は、中等部二年生。所属は、天文学部。小柄で、いつも少しおどおどしている、声の小さな生徒だ。
彼女が手にしているのは、一枚の申請書。
『特別観測機材使用許可申請』。
内容は、来月に迫った皆既月食の夜、学園が所有する最も高性能な電波望遠鏡を、一晩、独占的に使用させてほしい、というものだった。
「……読ませてもらいました」
私は、申請書に目を落としながら、冷静に事実を告げた。
「残念ですが、この申請は許可できません」
「そ、そんな……! なぜですか!?」
彼女は、悲痛な声を上げた。
「今回の皆既月食は、非常に珍しい『スーパー・ブラッド・ウルフムーン』なんです! この機会を逃したら、次は十年後になってしまう。私の卒業研究に、どうしても必要な観測なんです!」
「気持ちは分かります」
私は、同情を禁じ得なかった。彼女の瞳は、純粋な知的好奇心と、研究への情熱で、キラキラと輝いている。その輝きを、規則という名の分厚い壁で遮ってしまうのは、私としても心苦しい。
だが、それでも、だめなものはだめなのだ。
「学園の大型観測機材の使用規則、第七項を読んでください。『特定の個人・団体による、二十四時間を超える連続使用は、原則として認められない』。また、第十二項。『複数の使用希望があった場合、公平性を期すため、厳正なる抽選、あるいは共同使用の勧告を行う』。あなたは、この二つの条項に、明確に違反しています」
「で、でも、希望しているのは、今のところ、私だけです! それに、共同使用なんて……私の研究は、とてもデリケートな観測が必要で……」
「『今のところは』ですね」
私は、もう一枚の書類を、彼女の前に差し出した。
「これは、物理実験クラブからの、同じ日の、同じ望遠鏡の使用希望届です。彼らは、月食中の宇宙線の変動を観測したいそうだ。そして、おそらく、これから他にも、いくつかのクラブが名乗りを上げるでしょう。その時に、あなただけを『先着順』として優先することは、著しく公平性を欠く行為です」
私の言葉は、どこまでも正しく、論理的だ。
だが、その正しさが、目の前の少女の瞳から、みるみるうちに光を奪っていくのを、私はただ見ていることしかできなかった。
彼女の肩が、小さく震えている。
悔しさ、だろうか。あるいは、巨大なルールという壁の前の、絶望感か。
「……分かり、ました」
彼女は、か細い声でそれだけを言うと、力なく申請書を掴み、ふらふらと部屋を出て行った。
パタン、と閉まったドアの音が、やけに大きく部屋に響いた。
後に残されたのは、重い沈黙と、私自身の胸に突き刺さる、小さな痛みだけだった。
私は、正しいことをした。
公正さを、守った。
なのに、なぜ、こんなにも後味が悪いのだろう。
まるで、美しいはずの正義のナイフで、か弱い誰かの夢を、切り刻んでしまったかのような……。
**2**
その日の夜、私は寮の自室で、六法全書を広げていた。
集中できない。
インクの匂いと、整然と並んだ条文の文字が、いつもは私の心を落ち着かせてくれるはずなのに、今夜は、ただただ無機質で、冷たいものにしか感じられなかった。
(私の『公正』は、本当に正しいのだろうか?)
昼間の、あの中等部の生徒の、絶望に満ちた顔が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
ルールは、秩序を守るためにある。
そして、秩序は、そこにいる全員が、安心して暮らせるためにあるはずだ。
なのに、私の行使したルールは、一人の生徒から、夢と希望を奪った。
これは、本末転倒ではないのか。
コンコン。
不意に、部屋のドアがノックされた。
こんな時間に、誰だろう。
「……はい」
ドアを開けると、そこに立っていたのは、意外な人物だった。
「……宇沢、副会長」
「やあ、リーガ。ちょっと、いいかしら?」
宇沢蘭は、いつもの蠱惑的な笑みを浮かべ、ひらひらと手を振った。その手には、可愛らしいバスケットが提げられている。
「あなた、夕食、まだだったでしょう?」
彼女は、私の返事を待たずに部屋に入ってくると、テーブルの上に、バスケットの中身を広げ始めた。温かいスープと、焼きたてのパン、そして色とりどりのサラダ。食欲をそそる、いい匂いが部屋に満ちる。
「なぜ、私が夕食を食べていないと……」
「セクレよ」と、蘭はこともなげに言った。
「あなたが風紀委員会室にずっと籠って、難しい顔をしてるって、華奈が心配してたわよ。『袴田さん、きっとまた、一人で正義の重さに押しつぶされそうになっているんです』ってね」
長谷川さん……。
あの人は、本当に、どこまでもお見通しなのだ。
「さあ、冷めないうちに食べなさい」
蘭は、私に椅子を勧めると、自分も向かいの席に腰を下ろした。
「で? 今度は、どんなお堅い事件で、頭を悩ませてるのかしら?」
その、あまりにもあっけらかんとした口調に、私は少しだけ、毒気を抜かれた。
この人には、何を言っても無駄かもしれない。
そう思いつつも、私は、昼間の出来事を、ぽつりぽつりと話し始めていた。
天文学部の少女のこと。高性能な望遠鏡のこと。そして、ルールと、個人の情熱の間で、揺れ動いている、自分自身の心のことを。
**3**
私の話を、蘭は黙って聞いていた。
相槌を打つでもなく、茶化すでもなく、ただ、じっと。スープをスプーンですくいながら、その黒曜石のような瞳で、私を見つめている。
全てを話し終えた時、私は少しだけ、すっきりしたような気がした。誰かに話すだけで、心の重荷は軽くなるものらしい。
「……馬鹿な悩みだと、笑うでしょうね」
私は、自嘲するように言った。
「ルールはルールだ。例外を認めれば、秩序は崩壊する。そんなことは、法学を学ぶ者として、百も承知なのに」
「そうね」
蘭は、最後の一口を飲み干すと、スプーンを置いた。
「確かに、あなたの言う通りだわ。ルールは、大事よ。特に、あなたのような、真面目で、融通の利かない人間にとってはね」
その言葉は、少しだけ、棘を含んでいた。
だが、彼女は続けた。
「でも、あなたは、もっと大事なことを見落としているんじゃないかしら」
「大事なこと?」
「ええ。そのルールは、一体『何』を守るためにあるのかってことよ」
蘭は、窓の外に広がる、理学都市の夜景に目をやった。
無数の光が、星のように瞬いている。
「ルールっていうのは、道具(ツール)なのよ、リーガ。目的じゃない。あなたが守りたいのは、『規則の条文そのもの』なの? それとも、『生徒たちの知的好奇心や、未来の可能性』なの?」
「それは……もちろん、後者です」
「でしょうね」と、蘭は頷いた。
「だったら、方法はいくらでもあるじゃない。道具が目的に合わないなら、新しい道具を作るか、今の道具を使いやすく改造すればいいだけの話よ」
「新しい、道具……?」
「そうよ」
蘭は、楽しそうに、指を一本立てた。
「例えば、『特例措置法』なんてどうかしら? 『学術的に極めて高い価値が認められ、かつ、代替不可能な機会であると、アカデメイア評議会が判断した場合に限り、既存の規則の一部を、時限的に凍結することができる』、みたいな条文を、新しく学園の規則に追加するの」
それは、私には全くなかった、コロンブスの卵のような発想だった。
ルールに縛られるのではなく、ルールそのものを、変えてしまう。
「もちろん、乱用されないように、審査は厳格に行う必要があるわ。申請者には、その研究の価値を、私たち全員が納得できるレベルで、プレゼンさせる。物理実験クラブの子たちにも、共同研究の可能性を探らせたり、あるいは、観測時間を分割する、より効率的なスケジュールを組ませたり。そうやって、関係者全員が、自分の頭で考えて、交渉して、最適解を見つけ出すための『場』を作るのよ」
蘭の言葉は、まるで、固く閉ざされていた私の思考の扉を、いともたやすくこじ開けていくようだった。
「公正さっていうのはね、リーガ」
彼女は、私の目を、まっすぐに見て言った。
「全員に、同じものを、同じだけ配ることじゃないわ。それぞれが持っている、違う価値を、同じだけ『尊重』することよ。あの子の『十年の一度のチャンス』も、物理クラブの『地道な観測』も、どっちも同じくらい、尊くて、価値がある。だったら、両方が輝けるような、最高の舞台を用意してあげるのが、私たち生徒会の仕事じゃないかしら?」
彼女の言葉は、経済学の理論に基づいているのかもしれない。
インセンティブの設計。リソースの最適配分。
だが、その根底には、驚くほど、人間に対する深い洞察と、そして、温かい眼差しがあるように感じられた。
この人は、ただの快楽主義者でも、混沌の信奉者でもない。
彼女なりのやり方で、この学園にいる、全ての才能を愛しているのだ。
「……すごい」
私は、思わず、呟いていた。
「あなたという人は……本当に、すごい」
それは、紛れもない、私の本心からの言葉だった。
**4-**
「ふふん。まあね」
蘭は、得意げに胸を張ると、悪戯っぽく笑った。
「これで分かったでしょ? あなたのその四角い頭も、たまには、私みたいな『柔らかい』発想で、マッサージしてあげないと、錆びついちゃうわよ」
その時、私は、初めて心の底から、笑うことができた。
肩の力が、すっと抜けていくのを感じた。
私が、一人で抱え込んでいた、正義という名の重荷。
それを、この人は、いとも軽々と、私と一緒になって、背負ってくれたのだ。
「さあ、話は終わり! 残りのパンも、全部食べなさい。成長期の女子が、そんな青い顔をしてるんじゃないの」
蘭は、そう言うと、バスケットの後片付けを始めた。
その手際の良さは、まるで、慣れた母親のようだった。
私は、差し出されたパンを、夢中で頬張った。
少しだけ冷めていたけれど、それは、今まで食べたどんなご馳走よりも、温かく、そして美味しく感じられた。
公正という名のナイフ。
私は、それを、ただただ、振り下ろすことしか知らなかった。
でも、彼女は、教えてくれた。
そのナイフは、誰かを傷つけるためだけにあるのではない。
がんじがらめになったルールという名のロープを断ち切り、新しい未来への道を、切り拓くためにも、使えるのだと。
その夜、私は、久しぶりに、ぐっすりと眠ることができた。
夢の中で、私は、天文学部の少女と一緒に、満点の星空を、見上げていた。
その隣には、なぜか、宇沢蘭がいて、楽しそうに、星々の経済価値について、語っていた。
それは、とても奇妙で、だけど、不思議なほど、美しい光景だった。
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