第5話 観測された変数
**1**
私の城は、静寂とデータで満たされている。
外部の世界の雑音(ノイズ)は、高性能な遮音壁と、私の構築したデジタルフィルターによって完全に遮断される。ここにあるのは、純粋な情報と、それを処理するための冷徹な論理だけ。
私は、甘利藍。計算科学の徒、《アルゴ》。
私の仕事は、観測し、分析し、予測すること。
今、私のモニタに映し出されているのは、混沌(カオス)そのものだった。
評議会室で行われている、予算案を巡る議論。
桜井理乃の『均衡』。宇沢蘭の『破壊』。新井結衣の『現実』。そして、袴田瑞穂の『公正』。
四つの強力なイデオロギーが衝突し、激しい火花を散らしている。
彼女たちの言葉は、データとして私のシステムにリアルタイムで入力されていく。発言内容、声のトーン、話す速度、表情筋の微細な動き……。その全てが、無数の変数として、私のモデルに組み込まれていく。
カタカタカタ……。
私の指は、人間が認識できないほどの速度でキーボード上を舞う。
それは、思考の具現化。
脳内で組み立てられたアルゴリズムが、指先を通して、瞬時にコードへと変換される。
今の評議会は、極めて危険な状態にあった。
袴田瑞穂(リーガ)の『公正』という一撃は、確かに宇沢蘭(エコン)の勢いを削いだが、決定打にはなっていない。むしろ、議論は財政、理念、法と、あまりに多くの論点に拡散し、収拾のつかない袋小路へと迷い込みつつあった。
『このまま議論を継続した場合、評議会が機能不全に陥る確率:89.1%』
私のシミュレーションが、冷酷な未来を弾き出す。
このままでは、埒が明かない。
誰かが、この混沌とした場に、新たな秩序の軸を提示しなければならない。
それは、感情論でも、理想論でもない。
誰もが認めざるを得ない、客観的で、絶対的な『事実』という名の軸を。
その役目を果たせるのは、この場では、私しかいない。
私は、タイピングの手を止めた。
そして、ゆっくりと息を吸い込む。
城の静寂から、戦場の喧騒へ。
観測者から、プレイヤーへ。
私が、このゲームに介入する時が来たのだ。
**2**
「……よろしいでしょうか」
私が発した声は、自分でも驚くほど、静かに、しかし明瞭に評議会室に響き渡った。
それまで白熱していた議論が、ぴたりと止まる。
まるで、高速で回転していたコマが、急に静止したかのように。
全員の視線が、それまで空気のように存在を消していた私、甘利藍に、一斉に注がれた。
「……アルゴ、どうかしたの?」
桜井会長が、少しだけ心配そうな、それでいて期待の滲んだ瞳で私を見る。
私は、誰の目も見ず、ただ手元のタブレットを操作した。
私の介入は、言葉ではない。データだ。
「これまでの議論は、全て観念的な水掛け論に過ぎません」
淡々とした、事実のみを告げる声。
「会長の『均衡』、副会長の『破壊』、会計の『現実』、風紀委員長の『公正』。それらは全て、主観的な信念に基づく仮説です。ですが、仮説はデータによって検証されなければ、何の意味も持ちません」
私がタブレットをスワイプすると、評議会室の壁面を覆う巨大ディスプレイの映像が、一瞬にして切り替わった。
そこに映し出されたのは、無数の点と線が複雑に絡み合った、美しい星雲のようなグラフィック。
学内ネットワークのログデータを基に、私が構築した『理学女子学園リアルタイム人間関係相関図』だ。
「これは……?」
庶務の長谷川華奈さんが、息を呑むのが分かった。
「学園に在籍する全生徒をノード(点)、メッセージのやり取りや共同研究といった関係性をエッジ(線)として可視化したものです」
私は、説明を続ける。
「そして、今、この相関図の中心で、何が起きているかをお見せします」
私は、ディスプレイに表示するデータの時間軸を、第一回評議会が始まる直前にセットした。
そこでは、桜井理乃という青く輝く大きなノードを中心に、多くのノードが穏やかに繋がり、安定した構造を形成していた。
「これが、会長の言う『均衡』状態に近い、平常時の学園の姿です。情報の流れは緩やかで、特定のクラスタに偏りがなく、全体として安定しています」
次に、私は時間軸を現在へと進めた。
その瞬間、評議会室に、小さな驚きの声が満ちた。
相関図の姿は、一変していた。
宇沢蘭という、赤く、禍々しいほどに輝くノードが、爆発的にその影響力を拡大させていたのだ。彼女を中心に、太く、熱を帯びたような赤いエッジが何本も伸び、学園全体の情報の流れを、独占するかのように自分へと引き寄せている。
一方で、理乃を中心とした青いネットワークは、明らかにその輝きを失い、細く、弱々しくなっていた。
「そして、これが現在。副会長のプランが提示されて以降の、学園の姿です。情報の流れは極端に偏り、一部のノードに過剰な負荷がかかっています。これは、系全体が極めて不安定な状態にあることを示唆しています。文字通り、内乱寸前と言ってもいい」
私の言葉に、誰も反論できなかった。
そこには、動かしようのない『事実』が、圧倒的な説得力を持って映し出されていたからだ。
**3**
「面白いわね。まるで、私たちの心を覗き見しているみたい」
沈黙を破ったのは、やはり宇沢蘭だった。彼女は、少しも動揺した様子を見せず、むしろ楽しむかのように、ディスプレイの相関図を眺めている。
「でも、アルゴ。これは、あなたの言う通りなら、私のプランが、いかに多くの生徒の心を掴んでいるかの証明じゃないかしら?」
「その解釈は、一面的です」
私は、即座に否定した。
「次に、この赤いエッジで交わされている情報の『中身』を分析します」
私は、さらにデータを深掘り(ドリルダウン)し、テキストマイニングの結果を円グラフで表示させた。
蘭の支持派の間で交わされている会話で、最も多く出現する単語(キーワード)。
それは、『投資』『リターン』『成功』『コンペ』といった、ポジティブで、希望に満ちた言葉たちだった。
「確かに、副会長のプランは、多くの生徒に『期待』を抱かせています。これが、赤いネットワークが急速に拡大した主な要因です」
「でしょう?」と、蘭は得意げに微笑む。
「ですが」と、私は続けた。
「同時に、これらの単語と、極めて強い相関関係を持って出現している、別のキーワード群があります」
ディスプレイの円グラフが、切り替わる。
そこに現れたのは、誰もが予想していなかった、黒く、不穏な言葉たちだった。
『不安』『競争』『排除』『失敗したら』『あいつだけは』……。
「……これは」
新井会計が、厳しい表情で呟いた。
「希望の光が強ければ、その分、影もまた濃くなる。副会長のプランは、一部の生徒に強い期待を抱かせると同時に、大多数の生徒に、競争から脱落することへの『不安』と、他者への『嫉妬』という、極めてネガティブな感情を植え付けている。これが、私の分析が導き出した、もう一つの『事実』です」
私は、最後の仕上げに、ディスプレイを三分割した。
左に、理乃の『均衡安定案』を実行した場合の、五年後の学園満足度予測シミュレーション。中央値は高いが、分散は小さい。安定しているが、大きな発展は見られない、退屈だが平和な未来。
右に、蘭の『創造的破壊プラン』を実行した場合の予測。グラフは激しく乱高下し、最悪のケースでは学園財政が破綻し、満足度は地に落ちる。最高のケースでは現在の三倍以上の予算規模に成長するが、その成功を享受できるのは、ほんの一握りの生徒だけ。格差が極限まで拡大した、華やかだが歪んだ未来。
そして、中央。
それは、この会議が始まってからの、私たち自身の発言データをリアルタイムで解析した感情分析グラフだった。
理乃:論理的、防衛的。蘭:扇動的、攻撃的。結衣:現実的、否定的。瑞穂:倫理的、硬直的……。
私たちの議論が、いかに感情的で、平行線を辿っているかを、データは無慈悲に暴き出していた。
「……これが、私たちがいる場所です」
私は、静かに告げた。
「このまま、どちらかの極端な案を選べば、この学園は、穏やかな停滞か、あるいは格差と憎悪に満ちた破滅の、どちらかの未来を迎えることになるでしょう。そして、私たち自身の議論もまた、客観性を失い、感情的な対立を深めるばかりで、何一つ生産的な結論を生み出せない」
**4-**
評議会室は、水を打ったように静まり返っていた。
私の提示したデータは、それまで誰もが見ようとしてこなかった、この問題の「全体像」を、白日の下に晒したのだ。
それは、誰かを断罪するものではない。
ただ、事実を、あるがままに映し出す、冷たい鏡のようなものだった。
「……じゃあ、どうしろって言うのよ」
最初に口を開いたのは、蘭だった。その声には、いつものような余裕はなく、ほんの少しの苛立ちが混じっている。
「結局、あなたのデータも、『どっちもダメだ』って言ってるだけじゃない。代案はあるの、アルゴ?」
「あります」
私は、間髪入れずに答えた。
「最適解は、まだ算出できません。ですが、最適解にたどり着くための『道筋』を提案することはできます」
私は、ディスプレイの中央に表示されていた、私たちの感情分析グラフを、大きく映し出した。
「問題の根源は、私たち自身にあります。それぞれの信条に固執し、相手の意見を否定することから議論を始めている。これでは、永遠に合意形成は不可能です。これは、ゲーム理論における『囚人のジレンマ』の亜種。各プレイヤーが自己の利益(=自分の案を通すこと)を最大化しようとした結果、全体としての利益(=学園の発展)が損なわれる、最悪のパターンに陥っています」
私は、一度、言葉を切った。そして、初めて、評議会のメンバー一人一人の顔を、まっすぐに見つめた。
「提案します。一度、全ての案を白紙に戻しましょう。そして、議題を『どちらの案が優れているか』から、『この学園にとって、最も重要な価値は何か』という、より根源的な問いに、再設定するのです」
桜井理乃の『安定』。宇沢蘭の『挑戦』。新井結衣の『現実』。袴田瑞穂の『公正』。
それらは、全て、この学園にとって不可欠な価値であるはずだ。
今は、それらが互いに反発し合っているだけ。
「これらの価値を、対立する要素としてではなく、一つの数式の中に共存させる、新しいモデルを構築するべきです。安定を確保しつつ、挑戦を促し、現実的な制約の中で、公正な機会を提供する……。そんな、第三の道が、必ずあるはずです」
それは、私の専門家としての、そして、この評議会の一員としての、誠実な提案だった。
感情的な対立を乗り越え、データと論理に基づいた、建設的な議論を始めよう、という呼びかけ。
私の言葉に、最初に反応したのは、意外にも、新井会計だった。
「……なるほど。確かに、今のままでは不毛だわ。論点をリセットし、共通のゴールを再設定する。会計の視点から見ても、合理的な判断ね」
次に、袴田委員長が、深く頷いた。
「私も、賛成です。それぞれの正義が衝突するだけでは、何も生まれない。より高次の『法』、すなわち、学園全体の幸福という目的のために、一度、冷静になるべきでしょう」
華奈さんも、ほっとしたように、優しく微笑んでいる。
残るは、二人。
このゲームの、二人のキング。
私は、桜井理乃を見た。
彼女は、何かを深く考え込むように、じっとディスプレイのデータを睨みつけていたが、やがて、顔を上げると、私に向かって、静かに、しかし力強く頷いた。
「……分かったわ、アルゴ。あなたの提案を受け入れましょう。私の『均衡』も、絶対ではない。他の価値と共存する道を探るべきだわ」
そして、最後に、宇沢蘭。
彼女は、腕を組み、面白くなさそうな顔で、ずっと黙り込んでいた。
全員の視線が、彼女一人に集まる。
彼女が「ノー」と言えば、全てはまた振り出しに戻る。
長い、長い沈黙の後。
蘭は、ふう、と大きなため息をつくと、やれやれ、とでも言いたげに、肩をすくめた。
「……分かったわよ。そこまで言われたら、引き下がるしかないじゃない」
その口調は不満げだったが、その瞳の奥には、好奇心の色が宿っていた。
「あなたが言う、第三の道。……面白いじゃない。どんな退屈な答えが出てくるか、見届けてあげるわ」
その瞬間、評議会室の張り詰めていた空気が、ふっと緩んだ。
嵐は、まだ過ぎ去ってはいない。
だが、私たちは、荒れ狂う海の中で、進むべき方角を示す、一つの羅針盤を手に入れたのだ。
私が提示した、冷たいデータ。
それが、皮肉にも、凍りついていた彼女たちの心を、少しだけ溶かすきっかけになった。
観測されることで、世界は変わる。
量子力学の不確定性原理のように、私の介入は、この評-議会という系の未来を、ほんの少しだけ、良い方向へと動かしたのかもしれない。
そう、信じたかった。
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