零Q少女 ―異能探偵零の物怪録―
志村麦穂
一章 純血会の夜に
1話 鬼ごっこ①
『熊出没注意! 特別警戒中!』
【ベアーハンドのひみつ① あついニクキュウが足音をけすよ。とつぜんはいごからおそわれるよ。きをつけよう。】
いざ、というときの心構えほど役に立たないものはない。
知識で知ってたって、頭がまっしろになったら意味ない。冷静さだって、経験や訓練の賜物だってこと。考えなくても体が勝手に動くぐらい、染み付いた行動だけが、やっと身についたって言えるんじゃないの。
その『いざ』の瞬間は、やってきた。
【ベアーかけっこのひみつ② はしるのがとてもはやいよ。じそく50キロで走ることもできるんだ。ひらけたところで、ひとはにげられないよ】
ラン。
ワンウェイ。ワンウェイ。ワンウェイ。ラン。
車両進入禁止。動物飛び出し注意。
コンビニで買ったカップアイスは投げ捨てた。足音が聞こえない。病気のような風が唸っている。
ワンウェイ。ワンウェイ。ワンウェイ。ラン。
喉が絞まる。背骨がからからに乾いて、手足の感覚がなくなる。
あれ、右足の出し方ってどうだっけ。走り方って? 腕をふる順番は? 足首がから回る。おそい。とにかく、おそい。
ラン。
【ベアーきもちのひみつ③ きゅうにうごくとびっくり。はしるものはおいかけたくなるんだ。ぜったいに、はしってはいけないよ】
熊出没注意のポスターの内容が頭のなかによぎっていた。
夜中に出歩いたことを後悔した。夜中でテンションが上っていた。注意は怠っていた。山は近いけど、まさかこんな街中に出るなんて。まさか自分が狙われるなんて。まさか危険があるなんて。まさか、――、なんて。
足元が急に抜けた。じーんと鼻にわさび三百倍の刺激がやってきて、骨がぐらぐらとゆれた。
ずっこけたんだと気がついたのは、眼の前にスッポ抜けたスニーカーが転がっていたから。肩と鼻があつい。ただでさえ高くない鼻が潰れちゃったら絶望だ。花の高校生活がはじまる直前だというのに。まさに出鼻をくじかれたってわけだ。なんて、頭はろくでもないことを考える。
あいつはどこいったんだ。私を追いかけていたやつは。
必死で逃げたせいで、自分がどこにいるのかわからない。慣れない街だ。寂れたシャッター商店街。アーケードは暗く夜を塞いでいる。
陰気なうら寂れた通り。とても助けは望めそうにない。
ふと――、暗闇が蠢いた。
暗い影に浮かんだ、赤い2つの目だけが、爛々と滾っている。
熊だ。病んだ息を吐き出したやつの足元に転がった、ツキノワグマ。月明かりが差し込んではっきりと目撃した。鼻先を噛みちぎられ、三日月を赤く染め、死臭で街路を濡らしている。いつの間にか、私は追いかけられていた熊に追い越されていたらしい。なんてことにも気がついた。
そいつは、咥えていたものを放して、柔らかく新鮮で、か弱い肉に目を向けた。
獲物だ。私は獲物になった。
熊を倒したそいつは、
「な、ないしょに、してくれる?」
人間の言葉を話した。
思えば、本物に出会ったのは、はじめてのことだった。
小学校のころ、隣の席の子は見える子だった。ときどき、こっそりと耳打ちをして教えてくれたのだ。「まどの外にね、女の人がみてるよ」と。中学のころには通学路にブツブツ独り言を言い続けるおじさんがいた。近所の人も気味悪がって、近づこうとはしなかった。かかりつけの医院には、幻覚や幻聴、見えない痛みに悩まされるおばあさんがいた。そのひとは昔に、貧しさのあまり子供を捨てたのだと私に告白した。私にその子の面影があるのだとか。ゾッとする話だ。
見えたり、感じたり、憑かれたひとに会うことはあったけれど、本物はみたことない。
はじめてのことだった。心構えなんてない。
だから、その場面がきたとき、情けなく叫ぶこともできなかった。
そいつはふわりと浮かび上がり、ゆうに10メートル以上の距離を飛んだ。軽いバレーボールのような着地。音もなく、優雅なバレリーナのように足を揃えて。
優雅な暗闇は、私にウーフ、ウーフと息を吐きかけた。
「ご、ごきげんよう」
闇は礼儀正しく、まるで人間の真似をしているようにぎこちなかった。
赤い目は忙しなく動き回る。長くて細い指を無意識に噛んで、はしたなさにはにかんだ。
ふつうの人間にはない異様に伸びた犬歯。歯の隙間には、熊のものだろう黒い毛が挟まっている。
二言目には『私、きれい?』と聞いてきそうな雰囲気だ、と思った。
口が裂けて、頭からパックリいかれるのだろうか。
【ノウマク サラバ タタ ギャーテイビーヤク】
どうしてこうなった。
やっぱり、浮ついていたのは間違いない。
実家よりも都会な街に来れたから? 入寮は明日なのに、前乗りしてホテルに泊まったりして。午後10時過ぎてるのに街は明るくて、徒歩圏内にコンビニもスーパーも24時間で営業中。いつもだったら夜中にアイスを食べたりしない。補導されるかも、声かけられるかも。なんて危ないときめきを抱えていた。
調子に乗っていた。なんせ、あの有名な女学院に、ラッキーで入学が決まったんだから。
もう運を使い果たしていたのだ。
たった何分かの間に、熊に襲われ、その次は理由のわからん化物だなんて。一生涯の運が枯れ果てた。
【サラバ ボッケイビーヤク サラバ タタラタ】
獣の臭いが濃くなった。
暗闇は覆いかぶさるように手を広げる。そいつは小刻みに体を震わせる。赤黒い血のこびりついた爪を噛んで、そいつはしきりに声をかけてくる。
「ど、どこの、がっこう? はじめ、はじめまして。こんにち、こんにちは、はは、は」
調子外れのトーン。壊れたおもちゃのレコーダー。人間に擬態しているつもりなのだろうか。小さな女の子の、甲高いしゃべり声が場違いに響く。
陰になって表情はみえない。赤い目と白い牙。闇のなかから、不気味に笑いかけている様子だけは伺えた。
「い、一年生、だ。やったー、こうはい、こうはい、こうはいだ。あんない、してあげる」
やつは爪を噛みすぎて、自分の指を飲む。二度三度むせて、私の足元に唾を吐いた。赤い泡と、剥がれた爪と、ごろりとした白い指。
なにもかもが非現実すぎる。
【センダー マハロシャーナー ケーンギャキギャキ サラバ ビギナン】
こういうとき、幽霊や化物の質問には答えてはいけない、と聞いたことがある。
あまりにもあり得なさすぎて、やってはいけないことを、この夜だけでいくつも破ってしまった。
「おなまえを、おしえてくれる? おしえてくれる?」
にじり寄る闇は、もう目と鼻の先だ。伸ばされた爪が私の額をやさしく愛撫する。
「
にじみだした温度が変わる。
告げた瞬間に、しまったと気がついた。
いつだって判断が遅くて、間違えたあとになって後悔する。
「おトモダチになろう」
野太い咆哮が、闇の口先から発せられた。
べたべたのねまったチャウダーのような膿と、腐臭が私の顔を覆う。
【我らの闇を払い清めたまえ ウン タラタ カンマン】
「目を閉じろ」
どこからともなく女の声が命じた。
私は慌てて目をきつく閉じ、頭を丸めた。
「略式――
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