沈黙は祈りに満ちて恋を知る。

かつらな

鈴は月に恋をする。

夜風が、カーテンを小さく揺らしていた。

春とはいえ、まだ夜は冷える。

桜ノ宮高等学校の寮、三階の角部屋。

悠月は布団の中で寝返りを打ちながら、ぼんやりと天井を見つめていた。


「……眠れないな。」


静かすぎる夜が、胸の奥を少しざわつかせる。

月がやけに明るい。

光が差し込むたび、部屋の中が白く滲んで見えた。


その時、窓の外で「カサッ」と音がした。


「……風か?」


起き上がってカーテンを開けると、

そこには黒猫がいた。

夜の闇と溶け合うような毛並み。

首には小さな銀の鈴。

音もなく、まっすぐ彼を見上げている。


「お前……どっから入ったんだよ。」


猫は答えるように、柔らかく鳴いた。

そして窓からするりと中へ入ってくる。


「ちょ、おい。ここ寮だぞ、ペット禁止なんだって……」

そう言いながらも、悠月はしゃがみ込み、手を差し出した。


猫はためらいもなく、その手に頭をすり寄せる。

毛並みが少し冷たくて、でもやわらかかった。


「……まぁ、一晩だけな。」


猫は彼のベッドの端で丸まり、

鈴をひとつ鳴らした。


静かな夜に、澄んだ音が響いた。

——それが始まりだった。



朝。


窓から差し込む光で目を覚ますと、

隣に、見知らぬ少女が座っていた。


黒髪に、金を帯びた瞳。

白い肌に陽が透けて、どこか儚い。

そして頭には——小さな猫の耳。


「……え、」


現実が理解できない。

少女は無垢な笑みを浮かべていた。


「おはようございます。」


その声に、一瞬で血の気が引いた。

次の瞬間、顔が一気に熱くなる。


「な、なに、誰!? ちょ、待っ……えっ服!? 服!!?」


「ふく……?」

少女はきょとんとした顔で、自分の体を見下ろす。

朝の光の中、彼女の体はよく照らされていた。


「っっ、見んな見んな見んな!!!」

悠月は慌てて布団を引き上げて、顔を真っ赤にする。


少女は首をかしげて、

「寒いものなんですね。……これが、人間の“朝”ですか?」と呟いた。


「そ、そういう問題じゃねぇ!!」

「じゃあ、どういう……?」


「早く服着ろ!!!」


鈴が、カランと鳴った。

それは、まるで笑い声みたいに柔らかく響いた。


「……服、着た?」

鈴は満足げに頷きながら、悠月のワイシャツのボタンを上まで留めていた。


「いや、それ俺の……」

「とてもいい匂いがします。落ち着く。」

「……っ、勝手に嗅ぐな!!」


顔を真っ赤にしながらも、悠月はタオルで頭をかきむしった。

鈴はそんな彼の反応を面白そうに見つめている。


「ご主人、どこに行くんですか?」

「ご主人じゃない!……部活。朝練あるから。」

「ふーん。じゃあ、行ってらっしゃいませにゃん。」


鈴は、まだ人間の生活に慣れていないようで、

敬語と子猫みたいな語尾が混ざっている。


「お前は、絶対部屋から出るなよ。寮母さんに見つかったら終わりだからな。」

「はい、ご主人。」


胸の奥で鈴の音が小さく鳴ったような気がして、

悠月は一瞬、立ち止まった。


「……ったく、夢みたいなやつだな。」

そう呟きながら、寮を後にした。


───


朝練が終わるころ、悠月はすっかり疲れ果てていた。


息を整えながら教室に戻ると、

妙にざわついた空気が流れていた。


「ねぇ転校生来るって!」「この時期に?やばくない?」

そんな声が飛び交っている。


悠月はタオルで汗を拭きながら、椅子に腰を下ろした。

「ふーん、転校生ね……」

他人事のように呟いたが、

なぜか胸の奥がざわつく。


チャイムが鳴り、担任が教室に入ってきた。

「はいはい静かにー。今日はね、転校生を紹介します。」


ドアが開く。

教室中の視線が一点に集まる。


——そして、悠月は固まった。


そこに立っていたのは、見覚えのある黒髪の少女。

制服の着方は少し不慣れで、

首元には昨日見た“銀の鈴”。


「初めまして。鈴です。」

一礼したあと、にこりと笑って言う。


「あ!!ご主人みーっけ!」


教室が一瞬でざわめいた。

「ご主人!?」「知り合い!?」


悠月の顔が一気に真っ赤になる。

「おま、な、なんでお前がここに──!?」


悠月の声が、教室中に響いた。

ざわついていた空気が、ぴたりと止まる。

制服を少し間違えて着た鈴、リボンは左右逆。

でも笑顔だけは完璧に輝いていた。


鈴は首をかしげ、あのときのように小さく鈴を鳴らした。

「だって、ご主人がいるところにいたいんだもん。」

教室の空気、再び爆発。


「え、今なんて?」「ペット?」

——悠月、死亡。


「ち、違うっ! いや、その……!」

必死に手を振るも、火に油状態。


担任がにっこり笑いながら口を開く。

「へぇ〜“ご主人”ねぇ〜。仲良しなんだね〜。

じゃあ、悠月くん。彼女、転校初日で不安だろうし、しばらく面倒見てあげてね。」


(終わった……)


悠月は机に突っ伏して、心の中で絶叫した。



昼休み。

購買でパンを買う鈴が、完全に遠足テンション。


「ご主人〜!“あんこ”って何味ですか!?」

「……いや、それ“味”じゃなくて“中身”な。」

「にゃんと! じゃあ、これは“ジャム味”ですか!?」

「だから“味”じゃねぇって!!!」


クラス中、笑いが起きる。

男子「なんか可愛いな」「マジ猫っぽくね?」

女子「語尾ついてた今……」

悠月はため息をつきながらパンをかじる。


「頼むから、目立つことすんなって……」



午後の授業中。

鈴はノートを取るのも一苦労。

ペンを握るのに慣れていないようで、しょっちゅうインクを飛ばす。


「ご主人〜、これどうやって書くんですか……?」

「“にゃ”を付けるな、“にゃ”を……」

「にゃ?」

「……っ、もうやめろそれぇ!」


そのやり取りで笑いが起きるたび、悠月の赤面が進行していく。


だが次の瞬間、事件は起きた。


鈴がノートを落とした。

俺がそれを拾い、ひょこっと顔を上げたその瞬間——

距離、ゼロ。


「大丈夫か?はい、ノート。」


その言葉と同時に——


ぴょこっ。


悠月の目の前で、鈴の黒い耳がふわっと現れた。


「うわああああっ!?!?耳ぇ!!!」

「やばいっ、出ちゃいましたぁぁぁ!!!」


彼女は慌てて髪を広げて隠すが、

焦れば焦るほど動きが大きくて、逆に目立つ。


「お、おい、それバレるって!!」

「無理です!戻ってくださーい!!耳さーん!!」


クラスの視線が集まる。

「……今、猫耳見えた?」

「……気のせいじゃね?」


悠月、反射的に立ち上がる。

「え、えーと! コスプレ!な、な?文化祭の練習だよ!なぁ鈴!!!」

「は、はい!文化祭ですにゃ!!!」


(なんで語尾つけるんだよ!!)


その瞬間、教室中が笑いに包まれた。

“文化祭コンビ”として、その日から二人は妙に有名になった。



放課後。


「ご主人……怒ってますか……?」

「怒ってるっつーか……お前、耳の制御どうにかなんねぇの?」

「……嬉しいと、出ちゃうんです。」


小さな声でそう言う鈴。

その頬は、ほんのり赤い。

悠月は思わず視線を逸らした。


「……ったく。バカ猫。」

「でも、ご主人が助けてくれたから、嬉しかったんです。」

鈴の首元の鈴が、静かに鳴った。


「ご主人〜!今日のごはん、またお魚です!」

「また!?何日連続だよ!?人間界の栄養バランスどこ行った!」


朝の食卓。

桜ノ宮蒼凪高校の蒼凪寮(男子寮)・悠月の部屋。

二人暮らしが始まって、もう数日が経っていた。

鈴はちゃっかり部屋の一角に“猫コーナー”を作り、

クッションと毛布で城を築いている。


「ご主人もお魚食べたら健康になりますよ。」

「猫基準の健康やめろって。」

「にゃんと失礼な!」

「語尾もやめろぉ!」


朝から漫才。

ただ、不思議とそれが“日常”になっていた。



授業中、鈴は今日も奮闘中。

昨日、ノートに肉球の跡をつけて怒られた反省から、

今日は本気モード……のはずだった。


「……あ、鳥さん。」

「鈴、外見るな。集中しろ。」

「集中してます!耳が勝手に動いただけです!」

「動いてる時点でアウトだろ!」


周囲からくすくす笑い声。

「鈴ちゃん今日もかわいいね〜」

「ご主人って呼ばれてる人、顔真っ赤だよ」

悠月「……もう学校来るな」

鈴「嫌ですっ!」


お弁当の時間も平常運転。

鈴の弁当は、今日も猫型おにぎり。

「ふふん、今日の顔は“怒り猫”です!」

「俺の顔もそれになるわ……」



放課後、寮への帰り道。

西日が伸び、校舎の影が長くのびている。

鈴は少し足取りが重かった。


「ご主人……なんだか、体が……熱いです。」

「まーたふざけて……おい、顔赤いぞ?」

「うぅ……耳、出そうです……」


悠月が慌てて上着を被せた。

「バカ!こんなとこで出すな!」

「出したくて出してるんじゃ……ないですぅ……!」


鈴の声が震えていた。

歩きながら、首元の鈴が小さく鳴る。

その音がいつもより、苦しそうに響いた。



夜。

月が、雲の切れ間から顔を出した瞬間だった。


「……ご主人……月が、昇ってきた……」

鈴の声が細く揺れる。

体を丸め、息を荒くしてベッドに倒れ込む。


「おい、鈴!?どうした、どこが痛い!?」

「ちがうんです……戻っちゃう……っ」


その言葉と同時に、鈴の体が淡く光り始めた。

髪の隙間から黒い耳が覗き、

尻尾がシーツをかすめて消える。


「鈴!大丈夫か?おい、返事しろって!」

悠月がその手を掴む。

だが指の間から、白い光がこぼれ落ちていく。


「ご主人……」

涙に濡れた瞳で、彼女は笑った。


その声が途切れた瞬間、

鈴の姿はふっと消えた。


残ったのは、一匹の黒猫。

首元の“銀の鈴”が、月光に照らされていた。



悠月は膝をつき、猫をそっと抱き上げた。

小さな体がかすかに震えている。


「……どっちが、お前の“本当”なんだよ……」

答えは返らない。

ただ、猫の胸のあたりがほんのり光り、

“チリン”と音が鳴った。


まるで、心臓の音みたいに。


悠月はその小さな頭を撫でながら、

静かに呟いた。


「……大丈夫だ。

 俺が、お前を守る。」


─────


窓の外では、満月がゆっくりと夜を照らしていた。


朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。

鈴の声がしない朝は、こんなにも静かだったのかと、悠月は少しだけ驚いた。


ベッドの足元で、小さな黒猫が丸まって眠っている。

昨日まであんなに喋って、笑って、食べていた鈴が、

いまは“息づく静寂”そのものになっていた。


「……おはよう。」

悠月が声をかけると、黒猫はゆっくり顔を上げた。

その動きに合わせて、胸元の小さな鈴が“チリン”と鳴る。


その音がまるで返事のようで、悠月は小さく笑った。

「そうか、今日も元気か。……よかった。」


朝食を食べるのも一苦労だ。

鈴は相変わらず魚しか食べないし、食べたあとには悠月の膝に乗ってくる。


「お前、それ俺の新聞……どけって。……重い。」

「……。」

“チリン。”

「はいはい、どけないのね。わかったよ。」


まるで意思疎通ができてるみたいに、

鈴は鳴くたび、ちゃんと答えてくれる気がした。


でも――

どれだけ返しても、言葉はもう、返ってこない。


そのことに気づくたび、胸の奥が少しだけ痛む。

けれど、不思議と孤独ではなかった。

鈴の存在が、部屋の空気をあたためてくれていたから。


夜。

窓辺で月を見上げる黒猫の瞳は、まるで夜空そのもののように澄んでいた。


(ご主人……今日も笑ってくれて、うれしかったです。)

鈴は喋れない。

でも、心の奥に積もる言葉たちは、月明かりの中で形を持たないまま震えていた。


(あの日から、私は“人間”に恋をしてしまった。

 でも、本当の私は猫で……だから、あなたの隣にいられない。)


悠月の手が伸び、鈴の頭をそっと撫でた。

(あったかい……。この温度だけで、生きていける気がします。)


彼の指先が頬をかすめた瞬間、

胸元の鈴が“チリン”と鳴る。


「不思議だな……言葉がなくても、お前が何考えてるか分かる気がする。」


(だって、ご主人の声は、ちゃんと聞こえてるし、わかってるんですにゃ。)


「お前が猫に戻っても、やっぱりお前だよな。無口で、甘えん坊で、気づいたら勝手に膝に乗ってきて。」


(気づいてくれて、ありがとう。ご主人の隣が、私のいちばん安心できる場所ですにゃ。)


悠月は膝の上の黒猫を抱き上げた。


「……もし、もう一度人の姿に戻れるなら、ちゃんと話がしたいな。」


(私も、そう思ってました。次の月が欠ける夜に、きっと。)



部屋の灯りを落とすと、

鈴の音が一度だけ響いた。


“チリン”


それは、まるで「おやすみなさい」と言っているようで。


悠月は静かに目を閉じた。


その夜、夢の中で聞こえた鈴の声は、

確かに“人間の彼女”のものだった。


鈴が猫に戻ってからまた数日。


窓の外は、深い群青に染まっていた。

満ちていた月は少しだけ欠けて、光の輪郭が柔らかくなっている。


丑三つ時。

世界が息を潜める時間。


その静寂の中で、ひとつの音が響いた。


“チリン——”


耳に馴染んだ鈴の音。

けれど、その響きにはどこか懐かしい温度があった。


悠月ははっと目を覚ます。

薄暗い部屋の真ん中、月明かりに照らされた影があった。


黒い髪。

細い肩。

そして、優しく笑う人間の彼女。


「……ご主人。」


その声を聞いた瞬間、悠月の喉が詰まった。

言葉よりも先に、息が震えた。


「……鈴、なのか。」

「はい。ほんの少しだけ……月が欠けた夜にだけ、人の姿に戻れるんです。」


鈴は少し照れたように笑って、髪に触れた。

「人間の身体、もうすっかり忘れちゃいました。歩くのも、なんだか変な感じです。」

そう言ってバランスを崩し、悠月の胸に倒れ込む。


「わっ……!」

細い体がぶつかって、布団の端が揺れた。

鈴の髪が頬に触れ、甘い匂いがした。


「……あのね、ご主人。」

鈴が顔を上げた。

瞳は月と同じ色をしていた。


「猫になってからも、ずっと思ってたんです。

 ご主人の声が聞こえるたび、胸が鳴るの。

 それって、たぶん……“恋”っていうんですよね?」


悠月は息を飲んだ。

胸の奥が、鈴の鈴みたいに鳴る。


「……なんでそんなこと言うんだよ。」

「え?」

「そんな顔で言われたら、……もう、俺、どうすればいいんだよ。」


鈴は一瞬驚いたあと、ふわっと笑った。

「ご主人、顔が真っ赤です。」

「うるさい。」


月光が、二人の間をゆっくりと照らした。

沈黙。

けれど、その静けさの中でだけ、ちゃんと伝わる気がした。


悠月は小さく息を吐くと、鈴の頭に手を置いた。

「……なぁ、鈴。

 もし、また猫に戻っても、ちゃんと戻ってこいよ。」


鈴は目を閉じ、頷いた。

「約束します。次の月が満ちる夜に、また必ず。」


“チリン。”

胸元の鈴が、柔らかく鳴った。


その音が途切れると同時に、

鈴の体が淡い光に包まれていく。


「……もう、時間みたい。」

「やめろよ、そんな顔すんな。」

「大丈夫。私は、ご主人の隣にいた記憶を忘れませんから。」


光の粒がひとつ、ふたつと舞い落ち、

その姿が黒猫へと戻っていく。


——ただひとつ、涙の跡だけを残して。


悠月はそっと彼女を抱き上げ、耳元で呟いた。

「……おかえり、鈴。」


“チリン。”

小さな音が答えた。


窓の外では、欠けた月が、

ふたりの影をやさしく照らしていた。


───


朝のチャイムが鳴る。

いつもより早く席に着いていた悠月は、隣の席を見つめた。

——そこにあったはずの、あの銀の鈴は見当たらない。


鈴が猫に戻ってから、鈴は学校に来ていない。

……いや、“来ていない”というより、

“最初からいなかったことになっている”。


「なあ、ここって転校生の席じゃなかったっけ?」

悠月がぼそりと呟くと、

前の席の男子が振り返った。


「転校生? 誰それ? なんの話?」

「……冗談だよ。」

それ以上、何も言えなかった。


黒板の出席表にも、鈴の名前はなかった。

クラスLINEを遡っても、“転校生が来た”という話題すら消えている。

まるで、最初から存在しなかったように。


「桜ノ宮高校にそんな子、いたか?」と先生が笑う声が遠くで聞こえた。

その瞬間、背中に冷たいものが走る。


(……どうなってんだよ。)


ノートをめくると、ページの隅にひとつだけ文字があった。


“りん”


小さく、震えるような字。

誰が書いたのかも分からない。

でも、そこからふわりと——鈴の音が聞こえた気がした。


“チリン。”


悠月は、無意識にノートを閉じた。

音はもう、聞こえない。



夕方。

寮に戻ると、部屋の窓際で黒猫が丸まっていた。

首元の銀の鈴が、微かに光っている。


「……ただいま、鈴。」

悠月は靴を脱ぎながら声をかけた。

猫の鈴は小さく顔を上げて、“チリン”と鳴いた。


その音だけで、心がほっとした。

誰も覚えていなくても、この子は確かにここにいる。


「学校さ、お前のこと聞いても、誰も覚えてねぇんだ。」

そう言いながら、悠月は彼女の毛並みを撫でた。

「転校生?って言ったら、“何それ”って。

お前がいたの、夢だったのかって思うくらい。」


“チリン。”


返事の代わりに、静かに鈴が鳴る。


「……でもさ。夢でもいいや。

お前がいたの、俺だけは覚えてるから。」


悠月の手の下で、鈴は小さく震えた。

光が少しだけ透けて見える。


(ご主人……どうか、悲しまないで。

私は消えても、あなたの笑顔は残るから。)


悠月は気づかない。

毛の先が、光の粒になって消えかけていることに。


「おやすみ、鈴。」


“チリン。”


その音が部屋に響いたとき、

鈴の姿は月明かりに溶けていった。


——残されたのは、温もりと銀の音だけ。


───


夜更け。

風も止まった寮の部屋に、鈴の音だけが響いていた。


“チリン──チリン”


その音に導かれるように、悠月は目を覚ました。

カーテンの隙間から、白い月光が差し込んでいる。


「……鈴?」


目をこすり、視線を向けると、

窓辺に人影が立っていた。


月明かりの下で、黒髪が揺れる。

その姿は——人間の鈴。


「……鈴っ!」

慌てて駆け寄ると、彼女は振り返って微笑んだ。


「おはようございます、ご主人。

 ……でも、もう“おはよう”は言えない時間ですにゃ。」


声が震えていた。

それでも、確かに“鈴”の声だった。


「どうして……戻れたんだ?」

「月が、私を呼んだんです。

 もうすぐ、あちらへ帰らないといけません。」


「帰る……?どこに……?」

「……月の下です。

覚えてますかね、?あの夜、ご主人が拾ってくれた黒猫。

 あれ、私なんです。」


悠月は息を呑んだ。

9歳の頃、車にひかれそうになった子猫を助けた記憶が蘇る。


「子猫のころ、車にひかれかけて……

 それでも、ご主人が助けてくれた。

 その時、思ったんです。

 “この人を守りたい”って。」


鈴の手が悠月の頬に触れる。

その指先は少し透けていて、

月の光の中に溶けそうだった。


「でも、私は猫のままでは傍にいられませんでした。

 だから死んでから、月にお願いしたんです。

 “人の姿をください”って。

 ご主人と同じ目線で笑えるようにって。」


「……そんなの、ずるいよ。」

悠月の声が、かすかに震えた。

「だって、それならずっと一緒にいようよ。

 人として生きればいい。」


鈴は小さく首を振る。


「だめなんです。

 月は優しいけど、同時にとても厳しい。

 願いを叶えるかわりに、“仮の命”を貸すだけなんです。

 本物の命じゃないから、

 月が満ちるたびに、その命を返さなくちゃいけない。」


悠月の手が、鈴の腕を掴む。

けれど、その肌は指の間からこぼれるように光へと変わっていく。


「ご主人。」

「やめろ、その呼び方……もう“悠月”って呼べよ。」

「……ゆづき、さん。」


その一言が、涙のように胸を刺した。


「最後に……願ってもいいですか?」

「……なんでも。」


鈴は目を閉じて、ゆっくりと言った。


「生まれ変わっても、またあなたに拾われたい。

 たとえ、名前を忘れても……

 あなたの声を、もう一度聞きたいです。」


悠月の目から、涙がこぼれる。

鈴の指が、それをそっと拭った。


「だから、泣かないでください。

 私の“恩返し”は、もう終わりですにゃ。」


その瞬間、鈴の胸元の鈴がひときわ強く光り、

静かに音を立てた。


“チリン──”


光が弾け、部屋の空気が柔らかく包み込む。

気づけば、鈴の姿はなかった。

窓の外、満月だけがやさしく微笑んでいた。


悠月はそっと窓を開け、

夜風に向かって呟いた。


「……また会おうな、鈴。」


“チリン。”


どこか遠くで、確かに返事が聞こえた。


月があの夜のように光るころ、

悠月はもう社会人になっていた。


会社と家の往復。

夜のアパートは、ため息の音しかない。


机の端に、今もあの“鈴”を置いている。

音はもう鳴らない。

でも、どうしても捨てられなかった。


「……静かすぎるな。」

ため息をつきながら、

悠月はスーツのまま街を歩いた。


ふと、視線の先に灯りが見えた。

『PET SHOP ルナ・テール』

半分閉まりかけた看板に、月の絵。


(……ルナ、か。月。)

なんとなく引き寄せられるように、

店の扉を押した。


ベルが鳴り、小さな声が重なる。

「チリン──」


悠月は息をのんだ。


ガラスケースの中、

真っ黒な猫がこちらを見ていた。

胸元には、小さな銀の鈴。


「この子、最近入ったばかりなんですよ。」

店員が言った。

「可愛いけど、すごく警戒心が強くて……

誰が触っても威嚇するんです。」


悠月はしゃがみこみ、そっと手を伸ばした。


黒猫は――一瞬、目を細めた。

次の瞬間、

ケースの中から手に頭をすり寄せた。


「……えっ?」

店員が驚く。

「す、すごい……初めて懐いた……!」


悠月は笑っていた。

でも、胸の奥がぎゅっと熱い。


指の下で、猫の胸元の鈴が揺れる。

“チリン”


その音が、懐かしすぎて、

涙がこぼれた。


「……ただいま、鈴。」

小さく呟いた声に、猫が小さく鳴いた。

「にゃ。」


夜の街を歩く悠月の肩には、

あの黒猫が静かに乗っていた。


その胸元の鈴は、

確かに、

あの夜の“チリン”と同じ音を鳴らしていた。

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