地味な陰キャの私。秘密の図書室で、完璧な王子様の”裏の顔”を知ってしまいました

藤宮かすみ

第1話「出席番号25番の聖域」

 私の名前は山崎静。県立湊高校二年C組、出席番号二十五番。

 分厚い黒縁眼鏡に、目元を隠す長い前髪。クラスメイトの顔と名前は半分も覚えていないし、きっと向こうも私のことなんて認識していない。それでいい。それがいい。私は、教室という水槽の底でじっと息を潜める、石ころのような存在なのだから。

 そんな私の唯一の楽しみは、月に一度だけ訪れる、特別な時間と場所。

 今日は二十五日。生徒たちのほとんどが部活動や寄り道に胸を躍らせる放課後、私は一人、昇降口とは逆方向、旧校舎へと足を向けていた。

 軋む床、ひんやりとした空気。窓から差し込む西日が、廊下の埃を金色に照らし出す。その一番奥に、私の聖域はある。

『第三図書準備室』

 古びたプレートが掲げられたドアノブにそっと手をかける。鍵はかかっていない。毎月二十五日、この日だけ、この部屋は私のようなはぐれ者のために、ひっそりと扉を開いてくれるのだ。

 ゆっくりとドアを開くと、懐かしい古書の匂いがふわりと鼻をくすぐった。紙とインクが長い年月をかけて熟成された、甘く少し埃っぽい香り。本棚が迷路のように入り組んだ室内には、今の図書館にはないような、マニアックで少し日焼けした本たちが静かに眠っている。

 ここにいれば、息ができる。

 私はいつもの定位置――窓際の大きな木製机に向かおうとして、足を止めた。

 先客がいた。

 いるはずのない、侵入者が。

 窓から差し込む夕陽を背に、一人の男子生徒が椅子に座り、静かに本を読んでいた。逆光で顔はよく見えないけれど、すらりとした背中と丁寧に整えられた髪が、私とは全く違う世界の住人であることを示している。

『だ、誰……?』

 心臓が嫌な音を立てて跳ねる。ここは私の場所なのに。誰にも知られていない、秘密の聖域だったはずなのに。

 パニックに陥った私の耳に、穏やかで聞き覚えのある声が届いた。

「あれ、誰か来たんだ。珍しいね」

 ゆっくりと彼が振り返る。オレンジ色の光を浴びて、その顔がはっきりと見えた瞬間、私は息をのんだ。

 橘慶一郎くん。

 隣のD組の、完璧王子。

 スポーツ万能、成績は常にトップクラス。長い手足に小さな顔、少女漫画から抜け出してきたような甘いマスク。彼の周りにはいつも人が集まり、太陽のように笑っている。私のような日陰の石ころとは、決して交わることのない、眩しすぎる存在。

 そんな彼が、なぜ、こんな場所に?

「あ……あの……」

 声がうまく出ない。喉がカラカラに乾いて、みっともない音が漏れただけだった。

 橘くんは驚いたように少し目を見開いたが、すぐにいつもの完璧な笑顔を浮かべた。

「あれ、君は……C組の、山崎さん、だっけ? 違ったらごめん」

『私のこと、知ってる……?』

 信じられなかった。彼が、私の名前どころか存在を認識していたなんて。

「ど、どうして、ここに……」

 ようやく絞り出した声は、自分でも情けなくなるくらい震えていた。ここは二十五日にだけ開く部屋。それを知っているのは、図書委員の中でもごく一部の、変わり者だけのはず。

「ん? ああ、俺も出席番号二十五番なんだ。D組のね。だからかな、図書委員の先輩に教えてもらったんだよ。毎月二十五日は、二十五番の生徒のためにここを開けてるって」

 彼は悪戯っぽく笑って、自分の胸を指さした。

 同じ、二十五番。

 そんな偶然の一致に、私は言葉を失った。私だけの聖域だと思っていたこの場所は、もう一人、同じ番号を持つ彼にも開かれていたなんて。

 気まずい沈黙が流れる。帰ろうか。でも、せっかく来たのに。月に一度の、大切な時間なのに。私がためらっていると、橘くんが手にしていた本を机に置いた。

「ごめん、驚かせたよね。まさか他の二十五番さんが来るとは思ってなくて。よかったら、どうぞ。俺はもう帰るから」

 彼はそう言って立ち上がった。私に場所を譲ってくれるらしい。その優しささえ、私には眩しすぎて、少しだけ胸が痛んだ。

「あ、いえ……そんな……」

 私が何か言う前に、彼は私の横を通り過ぎてドアへ向かう。その時、ふと、彼が読んでいた本の背表紙が目に入った。

 くたびれた深緑色のハードカバー。そこに箔押しされた、独特のフォントのタイトル。

 ――『星屑のアルカディア』。

「あっ……!」

 思わず、声が漏れた。

 足を止めた橘くんが、不思議そうに私を振り返る。

「え?」

「そ、その本……ジェイムズ・アダムスキーの……」

 ジェイムズ・アダムスキー。半世紀以上も前に数冊の奇書を残して姿を消した、伝説のSF作家。彼の作品はとうの昔に絶版となり、今では古書店を巡っても滅多にお目にかかれない。その中でも『星屑のアルカディア』は、彼の最高傑作にして、最も入手困難な幻の一冊。

 私は、この本に会うために、毎月この部屋に通っていると言っても過言ではなかった。

 私の言葉に、橘くんの完璧な笑顔が、初めて崩れた。彼は驚きに目を見開いたまま、ゆっくりと私の方へ向き直った。

「……知ってるの? アダムスキー」

 その声には、いつもの爽やかさとは違う、熱っぽい響きが混じっていた。

「は、はい……一番、好きな作家、です……」

 どもりながらも、私は必死にうなずいた。

 すると、橘くんは信じられないものを見るような目で私を見つめ、それから、今まで見たこともないような、本当に嬉しそうな少年のような顔で笑った。

「マジで!? 俺も! 俺もなんだよ! まさか、この学校にアダムスキーのファンがいたなんて……!」

 完璧王子の仮面が剥がれ落ちた瞬間だった。

 彼は興奮した様子で机に戻ると、本を手に取って私に差し出す。

「読んでた? どこまで読んだ? 俺、今ちょうど七章の、主人公が反重力エンジンを起動させるシーンでさ! あの描写、ヤバくない!? 『宇宙の沈黙が、重たいベルベットのように船体を包み込んだ』とか! 天才かよ!」

 突然浴びせられた早口のオタクトークに、私は完全に思考を停止させた。

 目の前にいるのは、本当にあの橘慶一郎くんなんだろうか。

 これが、私と彼の、奇妙な出会い。

 古書の匂いと夕陽に満たされた第三図書準備室。私だけの聖域は、この日から、二人だけの秘密の場所になった。

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