2話
早朝の静まり返った街並みからぽつりと外れた場所に、ひときわ目立たぬ民家が、朝靄の中にひっそりと佇んでいる。薄明かりが、カーテンの隙間から部屋に差し込む。
静まり返った室内には、年季の入った家具と整理された生活感が漂っていた。 キッチンに火が灯り、小さな鍋に湯が沸く。その人は手慣れた動作でドリップポットを傾け、湯を細く注いでいく。挽きたての豆がふわりと膨らみ、香りが漂う。 それはまるで、この家にだけ時間が止まったような静けさだった。
湯気を立てるカップを手に取り、その人は椅子に腰を下ろす。
音もなく、黒い液体に唇をつける。熱が舌に染みると、瞼がわずかに伏せられた。
飲み終えたカップをテーブルに置き、テーブルの上に置いてある封筒を手に取る。すでに封が開かれているその封筒をしばらくじっと眺めた後、その人はゆっくり立ち上がり、自室のクローゼットから白い布製の袋を取り出した。その人は何の躊躇いもなくそれを頭からすっぽりと被った。口元まで覆う布をきつく引き、紐で固定する動作も、慣れた手つきだった。
扉の前に立ち、外の空気を感じる一瞬。
その人が扉を開けようと手をかけたところで、背後から足音が近づいてきた。
「師範、おはようございます。」
ふと振り向くと、まだ眠そうな表情を浮かべた少女が立っていた。 彼女は出掛けようとしているその人を見るなり、途端に眉を顰めた。
「こんな早朝にどこに出かける気ですか?」
その人は扉を開けたあとに呟いた。
「ちょっと用があって、スラムの方に行く。」
「スラム……。お言葉ですが師範、5日前もそう言ってスラムに行ってましたよね?私に隠れて何をしてるんですか?」
少女の鋭い言葉にその人は少しの間黙りこくった。
「本当にちょっとした用だ。直ぐに戻る。」
そう言って背を向けるその人に対して少女は少し寂しそうに引き下がった。
「……分かりました。もし何かあれば直ぐに連絡してください。どんなところであろうと駆けつけます。」
玄関の扉が静かに閉まる音が、まだ薄暗い家の中に響いた。その人は、一瞬だけ躊躇うように足を止める。振り返れば、ガラス越しに少女の姿がかすかに映っていた。窓ごしのその視線に気づきながらも、無言で歩き出した。
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フェリルはその日もスラムの路地裏を駆けていた。〝あの日〟から何かがおかしいのだ。
悪魔に襲われてから、彼女自身の中で何かがズレ始めていた。
あの日気を失い、その後意識が戻ったその時には、あの悪魔は既に姿を消していた。
それからというもの、おかしいのだ。妙に身体が軽い。それが逆に、底知れない恐怖を呼び起こす。以前なら決して跳び越えられなかった塀を、ほとんど無意識で飛び越えてしまうこともある。地面を蹴るたび、筋肉の奥深くに眠る何かが目を覚ますような感覚が続いている。
あの夜——悪魔に噛みつき、血を飲んだ、あの瞬間からだ。フェリルには、なにか別のものに変わってしまったような、正体のしれない感覚が体の奥底に住みついている。
落ち着かない胸のざわめきを押さえためにずっと宛もなくただひたすらに歩いていたが、やがてフェリルは路地裏の片隅で身を縮めた。ひんやりした石畳が皮膚を刺すけれど、不思議と体の奥は熱っぽい。呼吸が浅く、誰にも見つからないよう膝をぎゅっと抱え込む。
胸の奥に残るのは、恐怖と、説明のつかない違和感だけだった。
フェリルは震える肩を抱きしめながら、声にならない声で、小さく、祈るように呟いた。
「……助けて……」
それから、どれほど時間が経ったのかは分からない。石畳の冷たさが体の芯まで染みこんで、意識もぼんやりと霞んでいく。そのままフェリルは現実から逃げるように意識を失った。
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「おいガキ、死んでるのか?」
そう声が聞こえ次に目を覚ました時には、空が暗くなっていた。 いつの間にか眠っていたらしい。 まぶたの奥がじんじんと痛む。頭も重い。
フェリルがぼんやりと顔を上げた瞬間、 目の前に立っていたのは、数日前に出会った、袋を被った“あの人”だった。
「……っ!この前の…!」
フェリルはとっさに身をすくめた。身体の奥がまた熱く軋むように疼く。
袋を被ったその人は、容赦なくその距離を詰めてくる。
距離を詰めながらその人は淡々と話し始める。
「最近、スラムで怪死事件が多発してる。」
「どの死体の損傷も酷すぎる。腕なんて粉々だ。どう見ても、人間の仕業じゃない。」
その言葉の終わりと同時に、カチリと金属音が響いた。
「……ッあ」
気づけば、フェリルの首元には、冷たい刃の感触が突きつけられていた。
「お前だろ?……悪魔のガキ」
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