取り返しのつかない光
星盤
第1話 幸せな日常
朝の鐘が遠くで鳴った。石造りの支援施設に、薄い光が差し込む。
トレバーは寝台から身を起こし、窓の外を見た。王都の街並みが朝靄にかすんでいる。魔導灯が規則正しく並び、人々の魔力で淡く光る。その光は、トレバーには見えない。感じることもできない。
魔盲——魔力を感じる器官に障害を持つ者。
この世界では、魔力は呼吸と同じくらい当たり前のものだ。生活も労働も、人の魔力を動力とする魔導具に支えられている。荷を運ぶにも、水を汲むにも、灯りをともすにも。肉体作業でさえ、魔力による強化が常識だ。
魔力を持たない者は、社会で役に立ちにくい。
トレバーは服を整え、寮の階段を下りた。食堂では、同じ境遇の仲間たちが朝食をとっている。誰もが穏やかな顔をしていた。
「おはよう、トレバー」
「おはよう、ルーク」
隣に座る友人が、笑いながら声をかけてくる。ルークも魔盲だ。生まれつき魔力を感じられない。けれど、その顔から暗さや憂いは感じられない。
「今日も荷運びか。腰が痛いな」
「昨日やりすぎたんだろ。ゆっくりやればいい」
「トレバーは優しいな」
ルークがパンをちぎり、スープに浸す。湯気が立ち、香草の匂いが鼻をくすぐった。
トレバーは静かに食事を続けた。この生活に、不満はなかった。施設は清潔で、食事は温かく、仲間たちは優しい。魔力を使えなくても、できることはある。荷を運び、畑を耕し、建物の補修をする。王国の支援を受けながら、地道に働く日々。
慎ましいが、穏やかだった。
♢
午前の作業が始まった。
施設の裏手にある倉庫から、街の市場へ荷を運ぶ。魔力を使えば1人で運べる量も、トレバーたちは2人がかりで担ぐ。木箱は重く、肩に食い込む。
「もう少しだ。頑張れ」
「ああ」
石畳を一歩ずつ進む。魔導具を使う人々が、横をすいすいと通り過ぎていく。浮遊魔導具に荷を載せ、軽々と運ぶ姿。トレバーたちとは、まるで別世界だ。
けれど、トレバーは気にしなかった。これが自分の世界だ。比べても仕方がない。
市場に荷を下ろし、報酬を受け取る。店主が笑顔で礼を言う。
「助かったよ。また頼むな」
「はい。ありがとうございます」
帰り道、ルークが伸びをした。
「腹が減ったな。昼飯が楽しみだ」
「そうだな」
空は青く、風は心地よい。トレバーは小さく息を吐いた。この日常が、ずっと続けばいい——そう思っていた。
♢
昼食の時間。食堂に人が集まり、賑やかになる。
施設長が前に立ち、手を叩いた。白髪交じりの優しげな老人だ。
「皆、少しだけ時間をくれ。大事な知らせがある」
ざわめきが静まる。施設長は1枚の紙を掲げた。
「王立魔導研究局から、実験参加者の募集が来ている。魔力障害を持つ者を対象とした、新しい治療実験だそうだ」
一瞬、空気が凍りついた。
「治療……?」
誰かが呟く。施設長は頷いた。
「詳しくは書いていないが、魔力障害を克服する可能性があるらしい。希望者は、研究局へ応募できる。もちろん、強制ではない」
トレバーの胸が、どきりと跳ねた。
魔力障害を、克服?
隣でルークが身を乗り出す。
「本当か? 魔力が使えるようになるってことか?」
「可能性、だ。確実ではない。それに、実験だから危険もあるかもしれない。よく考えてから決めてくれ」
施設長は紙を掲示板に貼り、静かに退いた。
食堂は、しばらくざわついていた。
♢
午後の作業を終え、トレバーは1人で掲示板の前に立っていた。
募集紙には、簡潔な文言が並んでいる。
——王立魔導研究局、魔力障害克服実験。参加者募集。対象は魔盲およびそれに類する障害を持つ者。詳細は研究局にて説明。
トレバーは紙を見つめた。胸の奥で、何かが揺れている。
魔力が使えるようになる。
それは、どんな世界だろう。街の魔導灯が見える。人々の魔力が感じられる。荷を軽々と運び、肉体を強化し、術式を操る——。
「トレバー」
背中から声がかかった。振り向くと、ルークがいた。
「お前も、気になってるのか」
「……ああ」
「俺も、だ」
ルークは掲示板を見つめ、静かに言った。
「俺たちは、ずっとこのままでいいのか。変われるかもしれないのに、変わろうとしないのは……怖いからか?」
トレバーは答えられなかった。
怖い? 何が?
失敗すること? それとも——成功すること?
「俺は、応募するよ」
ルークが言った。
「変われるなら、変わりたい。お前はどうする?」
トレバーは少しだけ迷った。この生活は、穏やかだ。不満はない。けれど——。
「……俺も、応募する」
言葉にした瞬間、胸の奥が熱くなった。
♢
数日後。トレバーとルークは、王立魔導研究局の門をくぐった。
石造りの巨大な建物。魔導灯が壁面を照らし、術式陣が床に刻まれている。空気そのものが、魔力で満ちている気がした——トレバーには感じられない。
受付で名を告げると、白衣を着た研究員が現れた。
「こちらへ。局長が待っている」
廊下を歩く。両脇には実験室が並び、中では魔導具が光り、術式が展開されている。トレバーの目には、ただの光の明滅にしか見えない。
応接室に通された。奥に座る初老の男——局長が、鋭い目でこちらを見た。
「君たちが応募者か。座りたまえ」
2人は促されるまま、椅子に腰を下ろす。
局長は書類に目を通しながら言った。
「実験の概要を説明する。君たちの魔力障害は、魔力を感じる器官——魔力感知体の機能不全だ。我々は、この器官を術式で再構築する技術を開発した」
トレバーは息をのんだ。
「再構築……?」
「そうだ。ただし、これは初期段階の実験だ。成功例はまだない。副作用の可能性もある。それでも参加するか?」
ルークが前に出た。
「俺は、やります」
「俺も」
トレバーも頷く。局長は短く笑った。
「よろしい。では、明日から準備に入る。今日は帰って、体調を整えておきたまえ」
♢
翌日。トレバーは実験室の中央に立っていた。
床には複雑な術式陣。周囲を研究員たちが囲み、魔力を注ぎ込む準備をしている。局長が最終確認をしながら言った。
「痛みはないはずだ。ただ、熱を感じるかもしれない。動かず、目を閉じていろ」
「はい」
トレバーは目を閉じた。
術式陣が光る——それは、トレバーにも見えた。まぶたの裏が赤く染まる。熱が、足元から這い上がってくる。
体の奥で、何かが動いた。
——これは、何?
胸の内側が、ざわざわする。今まで感じたことのない感覚。空気が、揺れている。いや、空気の中に、何かが満ちている。
これが——魔力?
「信じられない。成功だ」
局長の声が、遠くで響いた。
トレバーは目を開けた。視界が、変わっていた。
術式陣の光が、ただの光ではない。意味を持って、流れている。研究員たちの体から、薄い靄のようなものが立ち上っている。それが魔力だと、直感で理解できた。
「……見える」
トレバーは呟いた。
「魔力が、見える」
局長が満足げに頷く。
「感知体の再構築に成功した。君は今、魔力を感じることができる。これから制御の訓練をすれば、術式も使えるようになるだろう」
トレバーは自分の手を見た。指先から、薄く光が漏れている。それが自分の魔力だと、すぐに分かった。
胸が、熱い。
世界が、変わった。
♢
実験室を出ると、ルークが待っていた。けれどその表情は——暗い。
「トレバー……」
「どうした?」
「俺は、ダメだった。適性がないって。器官の再構築が定着しなかったらしい」
俯いたルークを見ると、トレバーの胸が痛んだ。
「そんな……」
「いいんだ」
ルークは顔を上げ、無理に笑った。
「お前は成功したんだろ? よかったな」
「ルーク……」
「施設に戻るよ。お前は、ここで頑張れ」
ルークが手を差し出す。トレバーはその手を握った。
「ありがとう。また会おう」
「ああ。またな」
ルークは背を向け、廊下を歩いていく。その背中が——どこか小さく見えた。
トレバーは立ち尽くした。胸の奥に、複雑な感情が渦巻く。喜びと、罪悪感と——。
「トレバー」
局長が声をかけてきた。
「君は今日から、研究局の寮に移ってもらう。実験後の経過観察が必要だ。荷物は後で施設から運ばせよう」
「……はい」
トレバーは頷いた。施設には、戻らない。ここが、新しい居場所だ。
♢
研究局の寮。個室が与えられ、ベッドも机も清潔だった。施設の相部屋とは、比べものにならない。
窓から、王都の街が見える。
魔導灯が、ただの光ではない。魔力を帯びた、生きた光だ。街を行く人々の体から、それぞれの魔力が立ち上る。強い者、弱い者、色も形も違う。
トレバーは窓辺に立ち、夕日を見上げた。その光さえ、今は違って見える。
「……信じられない」
呟きが、自然にこぼれた。これが、魔力を感じる世界、普通の人たちが見ている世界。
トレバーの胸に、静かな興奮が広がる。これから、どんな未来が待っているのだろう。術式を使い、魔導具を操り、人々と対等に——いや、それ以上に。
ベッドに腰を下ろす。柔らかな寝具が、体を包んだ。
ふと施設のことが、頭をよぎる。ルークは今ごろ、あの相部屋で眠っているのだろうか。仲間たちは、自分がいなくなったことを、どう思っているのだろうか。
トレバーは首を横に振った。過去は、もういい。ここから、新しく始めればいい。
窓の外で、魔導灯が一斉に輝いた。王都を照らし出す、鮮やかな光。
トレバーはその光を見つめながら、ただひたすらに——嬉しかった。
夜が深くなり、街に静寂が降りる。明日への期待に胸を膨らませ、トレバーは眠りについた。
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