星の呼び声
春山きゅうし
第1話
このゲルニア大陸には、北から西にかけて流れる「クルフ」という名の川がある。大昔、地割れを発端に生まれた川であり、時間をかけ大河となった。南からの大規模な民族移動により発生した「
戦争後期にはクラニア人を中心に樹立した「ゲルニア帝国」と、移民が率いる「ドゥルアーク連合国」の二大勢力が生き残ったが、古い魔術師の家系であるディアナ家の助力により魔術を得た帝国はクルフ川を防衛線とし、地の利と魔術を駆使し遂に連合の侵攻を防いだ。戦争が始まってから210年の時が経ち、とうとう両国は停戦条約を結び、大陸には平和が訪れた。両国民間での交流も深まり、争いは遠い日のことのように思えるほど風化した。しかしそれは水面下で互いを牽制し合う仮初の平和にすぎなかった。
クラフォン歴1104年、戦争が終わってから5年、ゲルニア大陸の遥か南に隕石が落下した。大陸は直接の被害を免れたが、隕石の欠片が大陸の各地に散らばった。どれほど欠片が残っているか定かではないが、帝国は一つ、連合は二つ手に入れた。
帝国はこの隕石の共同研究を連合に申し出、かつて魔術に天文学を応用しようと試みた新進気鋭の魔術研究者トラウス・パリシェムをリーダーに据え、帝国と連合の中でも屈指の魔術師を集めて研究班を結成し、両国は協力して隕石の研究を進めたが、研究が始まってから四年目に、連合が協力を拒み研究記録を独占しようとした。
結果、帝国に所属していたパリシェム教授は研究から身を引き、帝国の隕石研究は中途半端な結果に終わったが、連合はヴァリス・カリアーグ博士を後任につけ、研究を続行した。
後にパリシェム教授の曖昧な理論を元にカリアーグ博士が提唱したのが、「宇宙魔術」である。
今日では、魔術は主に地魔術と宇宙魔術の二つに分けられる。地魔術は宗教を源流としているが、宇宙魔術は天文学から派生した。どちらも初めに、諸法則を理解し、支配することを目的に出発した。
『魔術の諸相』 ヴァリス・カリアーグ
1
海を見ているといつも飛び込みたくなる。
海面からでは見えない水の中に思いを馳せ、頭で考えるよりも先に、体が飛び込みたがるように疼く。
多分5年くらい前からだろうか、こうして船の上で何もすることがない時は海を見つめ続けている。これが長い漁における僕の最高の時間だ。
今日はもう収穫が終わったので、今は港に帆を向けて帰っているところだ。風向きはピッタリの方角だけど緩やかな風が続いているからゆっくりとしか進まない。そんな時に見る海面は格別だ。目をこらせば海底が透けて見えそうな海を見ているだけで心が落ち着いてくる。
だから何もない水平線にポツンと置かれたような船影にいち早く気付いたのは僕だった。最初は気のせいかと思ったけど、よく見ると帆すらない小舟だった。遭難船かと思ったので父さんにその船のことを知らせ、針路を変えその小舟に近づくとだんだん声が近づいてきた。
「おーい」と何度も声を張り上げ、即席の旗を振り回す人影が見えてきた。状況からして遭難しているようだったが、それにしてはいささか気が抜けた声音だった。風貌を見分けられるほど近づいてやっとわかったが、遭難者にしては身なりも綺麗だったので、数十分前に遊びで海に出たら流されちゃったといった様子だった。刺繍が施された
小舟が漁船の脇まで来た時に、声をあげていた男以外にもう一人乗客がいることに気づいた。男よりも簡素なローブを着ており、フードをかぶっているので顔は見れなかったが、男よりも背丈は低いらしく、近づいてくる漁船を大人しく座って待っていた。やっと小舟に縄を繋ぎ大勢でその二人を漁船に乗せて、船員の一人が彼らに水を差し出した。
簡素なローブの人物が水を飲もうとした時、その人が女の子であることに気づいた。背丈は僕と同じくらいで、フードに隠れている束ねた赤髪がちらりと見え、僕は思わず目をみはった。僕の生まれ育った地域ではあまり見ない髪色だった。
とりあえず彼らを船長室に招き、船長である父さんと話をすることにした。僕も案内するついでにその場で話を聞くことになった。
「この度は救助してくださりありがとうございます、ちょうど食料が尽きたところだったので本当に死ぬかと思いましたよ」
「本当に幸いでしたな、今日はこの船以外は漁に出てないから海賊に捕まっていたかもしれませんでしたよ」
男はゲルニア帝国のクラファーティア大学で教授をしているトラウス・パリシェムという人物だった。彼と一緒にいた女の子はディア・メロイズといい、助手として同行しているらしい。彼の名を聞いた瞬間父は明らかに驚いていた。僕でも魔術は大して知らないが名前ぐらいは知っている、というぐらい有名だから、父さんの驚きは僕以上にわかりやすく顔に現れていた。彼は元々連合国の研究に協力してほしいと招かれ、訳あって亡命するように逃げ出したらしい。帝国と連合の関係が劣悪なのは当たり前のことだが、いくらなんでも著名な魔術師を国に閉じ込めようとして脱走されたなんて随分突飛な話だ。しかし彼がくすねた箱に連合国軍の国旗が描かれた軍用食があったため父は彼の話を信じることにした。
二人が陸に着いた後の予定などを喋っているうちに、メロイズさんが外の空気を吸いたいと言ったので、僕と二人で甲板に出た。しばらく二人で海を眺めて、僕の方から君も魔術師なのかと聞いてみた。
「魔術師ではありますけど、先生ほどじゃありません。あくまで助手ですから」
「魔術が使えるだけでもすごいですよ、しかも有名な魔術師の助手だし、国外脱出までやり通せたんだから」
「全部先生のおかげです。私は着いていっただけです」
彼女は話している間にも水平線に気を配っていた。追手が来ないか不安なのだろう。気を紛らすためにも僕は魔術について教えてほしいと頼んだ。僕は魔術のまの字も知らない素人だし、今まで魔術師に会ったことがないから、実は彼らに興味が湧いていた。
「魔術を使うだけなら誰でも出来ますよ。触媒を使うだけでいいんです」
「触媒?」
「たとえばこんなものを・・・」
そう言ってローブの内側から取り出されたのは、紋様が刻まれた宝石のような石だった。
「これは風に対応する触媒で、これに息を吹きかければ強い風が起きるんです」
彼女がふっ、と触媒に吹き込むと、小さな吐息が突風になり僕に吹きかかり、おでこが一瞬めくれ上がった。
「四大元素である火、水、土、風は、各々の本性があるんです。火や風は上へと登りたがり、水や土は大地に留まりたがる。そういった元素の本性に指向性を与え、操ることができるのが魔術なんです。そう先生は言っていました」
「つまり今のは触媒で風を強めたってこと?」
「そういうことです。高価な船では、帆に触媒を仕込むことで風がない時でも自由に好きな方向へ進ませることができるんです。」
「魔走帆なら僕も見たことがある。高価で買えるようなものじゃないけどね。じゃあ使い方によっては津波を起こしたり台風を起こしたりすることもできる?」
「可能ではあります。でもそういった大規模な行使は複雑かつ綿密な準備がいりますし、そんなことを出来るのは先生ぐらいの人じゃないと出来ません。」
「漁に使えたら便利だろうな、波を一箇所に集中させて魚を集めたりして」
「そうですね、農業だと積極的に魔術を取り入れているので、漁業でも出来るかもしれません」
そんなたわいも無い話しをしばらくしていると、船員の一人であるジェマフさんが僕に声をかけてきた。
「おいテラ、ちょっとこっちに来てくれ!」
メロイズと一緒に船尾の方へ行くと彼から望遠鏡を渡された。
「連合の船が真っ直ぐ尾けてきやがる。なんの船か見てくれ。お前なら分かるだろ?」
「いつからいた?」
「ついさっき見つけた。魔術師を救助した時は見かけなかったがお前がその子と話してるくらいの時に見つけて、途中で進路を変えてこっちに向かい出したんだ。この海域で連合の船なんてお偉いさんの船しか見たことねぇ」
彼が指差す方を見てみるとジェマフさんの言う通り遠くに船があるのが見えた。望遠鏡を覗いて船を確認してみると、おそらくこの漁船よりも大型の船であることがこの距離でも分かる。連合の国旗がはためいていること以外は一見普通の大型船だが、確かになぜ変哲のない連合の船が交流のない港の方角に向かっているのか分からない。舐め回すように不審な点がないか確認した。すると船の側面に変な突起があった。もっと目を凝らしてみると、昔港で見た帝国軍の船が載せていた
「軍船だ」
「な、軍船!? なんでそんなのがここに・・・!」
「多分二人を追ってきたんだ、父さんに知らせてくる! あと武器の準備しといた方がいい!」
メロイズさんと一緒に父さんとパリシェムさんのところへ行き、連合の軍船がこっちに向かっていると知らせた。パリシェムさんはすぐ逃げろと父さんに忠告した。きっと彼らは交戦もやむを得ないとなればすぐ攻撃するだろうと。父さんは戸惑いつつも僕に二人とここにいろと言い、甲板に飛び出していった。
窓辺に行き軍船を確認してみると、進路を変えることなく一直線にこの漁船の方に進んでいた。しかもさっきよりも少しだけ近づいているように見えた。このままじゃ追いつかれる。きっと彼らは逃げ出した魔術師たちを捕まえにきたんだろう。でなきゃわざわざ帝国の領海に踏み込んでまで追ってはこないはず、何をされてもおかしくはない。この船は護身用のために剣や槍が数本あるが、人数分はないし戦闘経験がある船員なんてほとんどいない。抵抗するのはほぼ不可能だ。相手のお目当てであろうパリシェムさんは冷静なのか呑気なのか分からない様子でやはりとでも言いたげな表情をしていた。
「パリシェムさん、魔術であの船をなんとかできないんですか?」
「僕も考えているけど、触媒は脱出する際にほとんど使ってしまったんだ、軍船をなんとかするほどの事はできない。むしろこのまま撒いた方がいいかもしれない。港には帝国の警備がいるから彼らもそこまで追っては来まい」
「じゃあメロイズさんの持ってる風の触媒は? あれを檣(ほばしら)に付けて魔走帆みたいに風をもっと送り込めばこの船でも負けるんじゃ・・・」
「あの機構は専用のものじゃないとダメだ、即席では作れない」
「先生、"あれ"はどうですか?」
メロイズさんがそう言った時、やっと彼の表情に変化が現れた。
「論外だ、その場の思いつきで使えるような物じゃないし危険だ」
このままじゃ埒があかない。一番確実なのはさっきの触媒を利用することだ。
「触媒を帆に直接貼り付けるのは?それなら風を受けやすいですし」
「魔術は触媒が勝手に摩訶不思議な力を出してくれるわけじゃない。人の手を介して初めて魔術を行使できるんだ。君の案を採用するなら誰かが檣に張り付いて、港に着くまで魔術による突風に耐えなきゃいけない。大分危険だ」
「僕はこの船には6年前から乗っていて、小さくて身軽だったからよく帆の仕事を任されてました。僕ならできると思います」
「できると思うだけで任せられない」
「今はやるしかありません。メロイズさん、さっきの触媒貸してください」
彼はしばらく迷っていたが、メロイズさんに目配せをして僕にさっき見せてくれた触媒を渡してくれた。
「使い方を教えてやってくれ」
父さんの机の引き出しにしまってあったナイフと部屋の隅に置いてあった縄を持ち、メロイズさんと一緒に部屋を出た。
甲板では船員たちが忙しなくあたりを走り回っていた。父が操舵輪のそばであちこちに指令を出し、なるべく迎撃の準備を万全なものにしようと努力していた。まともな武器を持っている者はたったの4人で、自前のナイフを携えて船底の修理用の木の板を盾代わりに担いでいる者もいた。戦闘準備の整った男たちの間を掻い潜り、檣まで近づいたところで父さんの声が聞こえた。
「馬鹿野郎、部屋に居ろって言っただろ!」
「作戦があるんだ、もしかしたらあの船を撒けるかもしれない!」
船尾を背に、先ほど持った縄を体に巻き檣にくくりつけ、吹き飛ばされないようにして登ろうとした。長めの縄だったので少しゆとりがあるが、手でしっかり繋げば十分だ。
「そういえばさっきはどうやって魔術を使ったの?」
「念じるだけです。『風よ吹け』と念じれば触媒が応えてくれます」
説明があまりに簡単すぎて少し不安になったが、急いで檣を登り伝った。
軍船はもう肉眼で国旗を見分けられる程にまで近づいていた。穏やかな風なのにここまで航行速度に差があるという事は、おそらくあの船も触媒を使った推進材があるはずだ。2、3分で追いついてもおかしくない。これで作戦が成功したとしても撒けるかどうか分からないが、それでもやるしかない、そう自分に言い聞かせた。帆の真ん中あたりの高さまで登ったところで、ナイフを檣に突き刺し即席の足場を作り、縄をきつく締め付け、触媒をポケットから取り出し小さく呟いた。
「風よ、吹け」
祈りに応えるように触媒が小さく光った時、その石が手からこぼれ落ちそうになった。予想よりもけたたましい突風に体が驚いた。
驚いたのは僕だけじゃなかった。帆が風を受け一瞬で膨れ上がった瞬間船が軽く傾き、下にいる船員たちのどよめきが聞こえた。
檣に押しつぶされるようにへばりつき、なんとか右手の触媒は手放さず念じ続けた。速く、もっと速くと。それに応えるように風の勢いは増し続け、イルカのように船が海の上を走り出した。
「テラ! 速いのはいいがもうちょい緩めろ! 船がひっくり返るぞ!」
父さんがそういうまであまりの風圧と爽快感で船が前傾気味になっているのに気が付かなかった。でも今ここで差をつければ軍船を撒けると踏んで、速度を維持するためそのまま念じ続けた。
かろうじて後ろを見てみると、5隻分の距離まで近づいていた軍船がみるみるうちに離れていった。この調子ならいける。
「港が見えた! あと少しだ!」
船員の誰かがそう叫んでいたが僕は正面を見ても帆が邪魔で全く見えなかった。しかし希望は見えた。帝国領の港付近まできて海賊紛いの事はできまいと確信し、連合の敗走でも見てやろうと調子に乗り、もう一度後ろを向いた時、水平線が傾いて見えた。
続いて平衡感覚がその視界の錯覚を訂正した。真っ直ぐ屹立していた檣が斜めに傾いたのだと。
体が浮遊感に包まれたまま振り向いた先に見えたのは横腹を見せつけている軍船。その船縁にある弩砲。下を向くとへし折れた檣。世界がゆっくりに見える。傾く風景も、見上げる船員たちの表情も、視界を遮る帆のはためきも、静かな波も。
瞬間、腹から吊り上げられるような感覚で思考が元に戻った。檣は舷牆と甲板を少し巻き込んで水飛沫をあげて海に消え、僕は体に縛り付けられた縄で吊り上げられていた。メロイズさんが魔術で助けてくれたのかと思ったけど、当の本人は父さんのそばで縮こまっていた。腹に食い込む縄を目で辿ってみると、くくりつけていた縄が解けて折れた檣の断面に引っかかったおかげで宙ぶらりんになっていたらしい。
船員たちが駆けつけ、縄を切ってくれたことでやっと甲板に足がついた。ふらつく足で父さんの方へ行こうとしたが、3歩進んでそのまま膝から崩れ落ち、這いつくばったまましばらく立ち上がれなかった。興奮状態だったおかげで最初の数歩はなんともなかったけど、落下した際、引き留めた縄がみぞおちを殴るように体を引っ張り上げたせいで、胃の中身はおろか内臓まで溢れそうになっていた。骨は折れてないのが不幸中の幸いだけど、見た目以上に体への負担がでかかった。まともに顔を上げることもできない。
船員の肩に担がれ運ばれようとした時、目の前で矢が空を駆け抜けた。かろうじて頭を動かして矢が来た方向を見てみると、操舵輪があったはずの場所が抉られたように無くなっていた。
皆はもう大混乱だった。沈没するほどの損害はないが、帆と操舵輪を奪われて逃げる術を失った。もはや港がこの騒動に気づいたところで間に合わない。しかしここまで徹底的にこの船を沈没させず、移動手段だけを奪うことしかしないということは、おそらく軍船の目的は脱走者のパリシェムさんとメロイズさんだけだろう。それとも彼女の言っていた”あれ”という何かかもしれない。きっと船員全員が皆殺しにされることはないにしても、あの二人は彼らに攫われる。この状況を打破する案を考えようとしても朦朧として何も思いつかない。いや、もはや僕たちは詰みなのかもしれない。
「まさか本当に成し遂げるとはね。よくやったよ、テラ君」
その声はパリシェムさんのものだった。いつの間にか外に出ていた。
「あんなかっこいいところを見せられたら僕もその勇姿に応えなきゃね。彼を室内に入れてやってくれ」
「パリシェム教授、もはや我々に逃げる術はない。この船にいるのはただの漁師だけだ。奴らの狙いはあんたたちだろう。我々としてはこれ以上損害を被りたくはない。彼らにあなたたちの身柄を譲り渡す他ない」
父さんがそう提案したが、パリシェムさんは食い気味に被せた。
「ダメだ。悪いがもはやこの事態は領海問題で済む話ではない。どうしても僕が彼らの元に戻るという展開だけは避けたい。この国の存亡が関わっている。」
ジェマフさんが船員をかき分け、今にも殴りそうな勢いで怒鳴り散らした。
「何が国の存亡だ! テメェらのゴタゴタに何も言わず付き合わせやがって! テメェの不始末はテメェで片をつけな!」
「ではそうしよう」
彼が懐から小さな包みを取り出し、紐を解くとそこにあるのはさっきの触媒に似た小さな石だった。でも僕が借りた触媒のような宝石みたいな綺麗さは無く、彼が持っているのは無骨で真っ黒な岩の欠片のようなものだった。彼はそれを布越しに持ったまま掲げ、間近にまで迫った軍船に向け、呪文のようなものを呟いた。その詠唱に応えた触媒はかすかに震えながら光を発した。その光は僕が使った時とは違い、真っ白な筋が漏れ出るように光り、石の周りだけ空間が歪んで見えた。
軍船が横並びになった。船一隻分の距離しかない。もはや打つ手はないと皆が思った。あちらの船員の顔が見分けられるほど近い。
その顔が瞬く間に消えてなくなった。
石が発する歪みが筒状に軍船へ一気に伸び、歪みが重なった部分が消えて無くなった。弩砲も船員も抉り取られたように消えた。
軍船にいた一人が運悪く歪みと重なり、左腕と脇腹が抉り取られ、消えた腕がどこにいったのか分からない様子で腕があるはずの空白を不思議そうに眺めていた。何が起こったか、こちらも あちらもその場に居合わせた皆が分からなかった。ただ二人、パリシェムさんと軍船にいる一人の女性を除いて。
冷徹にこちらを睨む女性は、さっきの攻撃に臆することなくただ真っ直ぐ、困惑の渦中に惑わされる事なく静かに、見慣れない鎧を着込んで王のように勇ましく聳え立っていた。
パリシェムさんがまた詠唱を初めようとした時、その女騎士が飛び上がった。僕のくたびれ果ててぼやけた視界では突然消えたように見えた。瞬きする間もなく女騎士は漁船に飛び移り、手に持つ剣でパリシェムさんに向かって切り上げた。彼は間一髪で避けたが、手に持っていた触媒が剣に打ち上げられた。頭上で弧を描き飛んでいく触媒が海に落ちると思い、咄嗟に僕は満身創痍の体に鞭打ち、跳ねるように飛び上がりその触媒を掴む。そのままパリシェムさんに投げ渡そうとしたが、何も飛ばずただ腕が空を切っただけだった。
「まずい・・・!」
パリシェムさんと女騎士が同時にそう呟いたのを聞いてふと右の手のひらを見ると、さっき投げようとした触媒が手に張り付いていた。触媒を剥がそうとした瞬間、手の平から全身にかけて激痛が走った。触媒は手に根を張るようにどんどん肉に食い込み、筋肉や骨をあるべき場所から押し出そうとしていた。体の内側で心臓から棘が生えるような痛みが強くなる。さっきの痛みとは比べものにならない上に、まだ痛みが治らない体に追い打ちをかけられたせいで今度こそ胃液が垂れるようにこぼれ落ちる。何も考えられない。痛みさえ脳が拒絶しようとして「痛い」と言葉にすらできない。身悶えることすら疲れてきて、身体が痛みに抵抗することさえ諦め始めた。これで終わりなんだ。本気でそう思えた。
もはや全てを諦めようとして最後にパリシェムさんや女騎士の顔を這いつくばりながら覗こうとすると、なぜか女騎士も僕と同じように呻き声をあげ悶えていた。彼女の首筋に触媒に刻まれていた紋様のようなものが浮かび上がり、彼女は必死に首を抑えて痛みを宥めようと耐えていた。なぜなのか何も分からない。パリシェムさんすら絶好の機械であるこの瞬間に何もできず立ち尽くしていた。でも今ならいける。今ならせめて最後に一矢報いることができる。わずかに動かすだけで皮を剥がれるような痛みに耐え、ゆっくりと上体をあげ、パリシェムさんのように右手に食い込んだ触媒を掲げる。メロイズさんに教わった通り、ただ念じる。全身に走る痛みをそのままぶつけるように。
消えろ
文字通り消えた。
パリシェムさんがやった時とは違って軍船は無事だったが、檣の周りにいた相手の船員が数人消えていた。膝から下の足だけを残して。しかし女騎士は無事だった。彼女に向かって念じたはずなのに。後ろで仲間がどうなっているのかも知らず、彼女だけが立っていた。よく見ると首に浮き上がっていた紋様が消えている。無傷であることを確認した彼女はさっき乗り込んできた時と同じように飛び上がって軍船に戻り、撤退の合図を出した。
進路を変え退散しようとする軍船を眺めているうちに、全身の痛みがひいているのに気づいた。周りを見回してみると、幸いにも漁船の船員は無事だった。甲板が少し抉れているが、誰も怪我をしていない。みんな僕を化け物でもみるような目で遠巻きに見ているが構わなかった。
嵐は去った。今はそれで十分だ。
安心した僕は深い眠りに落ちた。
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