ホテル・ラ・ソルーナ

高橋あこ

下弦の月

「どっしても忘れなければいけないですか? これからも正春まさはるさんを想い続けるのは、だめだず?」



 キヨと最期に会ってから、もう80年だ。



 朝も昼も夜もない、寒くも暑くもない。雨や雪は降らず、風も吹かず、太陽も月も見えない。ここにあるのは鉛色の空と、濃霧の中の吊り橋。80年間、ずっとこの殺風景な景色を見て来た。 



 死んでからは喉が渇くとか、腹が減るとか、眠いとか、そういう感覚はひとつも無くなった。



「私は許せないのですよ。正春さんの命を兵器のように扱った、日本国を」



 この吊り橋を渡って行けば、天国へ逝けずとも、あの世へ逝くことが出来るというのに。



「私はただ、正春さんのお傍さ居たいだけだったず」



 私はこの通り一向に渡ることができないのだ。キヨが私の死を許してくれなかったのだから、仕方ないのだが。キヨが記憶消しの茶を全部飲まずに、半分残してしまった事を知った時はいささか笑ってしまった。キヨらしいと思った。しかし、キヨには困ったものだ。



 ――富沢正春とみざわまさはる様。困った事になってしまいました



 宿の支配人の月陽つきあかりという天女のように美しい者が、キヨとの面会直後に言った。



 ――小川おがわキヨ様が、金木犀のお茶を半分残して、現世に戻られてしまいました



 ならば約束通り貴女の手で私の魂を消して貰えれば有り難い。そう言うと、支配人は困った様子で細く白い首を横に振り、それが出来なくなったから困っているのだと言った。



 ――お茶を全量残された場合は、私の方で魂を消滅させることが可能なのですが……なにぶん、半分はお飲みになられてしまいましたので



 では、どうなるのかと尋ねたところ、彼女はどこか申し訳なさそうに答えた。



 ――小川キヨ様にはご面会の記憶が断片的に残ります。このホテ、あ、宿での記憶を現世に持ち帰る事は、本来、御法度。罪となります。小川キヨ様は人生を全うされたとしても罪人となり、死後はこの吊り橋を渡ることとなります



 なんとまた、キヨまで罪人扱いとなってしまうとは。どうにかならないか、と懇願してみたものの、支配人は「決まりですので」と頑として聞き入れてくれなかった。



 ――また、富沢正春様は吊り橋を渡る事は出来ず、私も富沢正春様の魂を消滅させる事が出来ません。ただ、吊り橋を渡る方法がふたつ、条件がひとつございます。小川キヨ様が命を全うし寿命が尽きた時、または、小川キヨ様が自死なされた時。それまではここに留まる事となります。条件は、富沢正春様が地縛霊にならないことでございます



 なんとまた、困ったことになった。どうやら私は、頑固でとんでもないおてんば娘を見初め、愛してしまったらしい。



 支配人が「このような当該事例は初めてです」と非常に困っていたのも、80年も前の事だ。あの日からずっと、私はこの吊り橋の横に立ち続けている。動きたくても、動けないのだ。根が生えたように足が地に張り付いて、動くことが出来ない。



 何百、何千、何億もの死者が私を追い抜いて後から後から、この吊り橋を渡って行くのを、ここで案山子のように立ち、静かに見守ってきた。私がこの吊り橋を渡れる時は、おそらく、キヨがその命を全うし寿命を終えた時なのだろう。その日まで、私はここでじっとその時を待つしかないのだ。



 何も苦ではない。



 神風特攻隊に志願し、キヨにその事を告げ、別れたあの日の苦しさに比べたら、こんな事は朝飯前だ。腹は減らないし、喉も渇かない。眠くもならないし、疲れる事もないのだから。



「あれっ……なんで?」



 いつまでも永遠に鉛色の上空を見上げていた目線をずらし横を見ると、吊り橋の前で宙を叩いてみたり、手をかざしてみたり、首を傾げては困惑した様子であたふたする青年が立っていた。



 ああ、またか。私と同じだ。



 先日は私と同じような年代の野球好きの学生。そのひと月前あたりには、花のように可憐な女性だったな。野球好きの学生も、可憐な女性も、いま目の前であたふたしている青年も、皆ハイカラな装いだ。もう、着物や浴衣の時代ではなくなったらしい。私はそれほど長い時間、此処に居るのだと思い知らされる。



「青年。きみも私と同じに弾かれたのだ」



 急に声を掛けられて驚いたのだろう。青年は涼やかな目を丸くして、私を見て固まった。



「きみはどのような死に方をした? 遺族、恋人、友人は?」



 尋ねると、青年はてくてくと白い履物で歩み寄って来た。すらりと背が高く、肩幅も広い、爽やかな好青年だった。



「首を吊りました。妻と、子供ふたりを残して来ました」



「そうか」



 頷くと、青年は私を足元から頭まで舐めるように見て来た。足に巻いたゲートルや飛行靴、飛行服に飛行帽に白いマフラー姿が余程珍しいのだろう。



「私は特攻部隊に志願し、出撃した。これも自死と見なされるのだそうだ」



 一緒に出撃した仲間たちはもう皆この吊り橋を渡って、あの世へと行ってしまった。私だけがまだ渡ることもできずに、此処に留まったままだ。



「80年もこうして此処にいる」



「えっ……はち、じゅうって」



 青年はぎょっと目を大きく見開いた。驚くのも無理はない。17歳の姿のまま、80年を漂っているのだから。



「残された遺族、恋人、あるいは友人の、きみを想う気持ちが強過ぎるのだろう。だから吊り橋を渡れず、あの世へ辿り着く事ができないのだ」



「じゃあ、どうしたらいいんですか?」



「もう一度、残して来た者に会うしかない」



「会う?」



 どうやって? 、とでも言いたげに青年は怪訝な面持ちで首を傾げ、私は「そうだ」とうなずいた。



「会って、向こうの気持ちを聞き、こちらも後悔と愛を伝えなければならないのだ。そして、もうこの世に留まる必要がない、この世に戻らなくとも良いのだと思えるようになってもらう事だ。死を完全に許してもらい、心から愛してもらうしかないのだ」



 これが叶わない限り、自ら命を絶った者は吊り橋を渡る事が出来ない事を説明してやると、青年はどうすれば残して来た者に会えるのかと尋ねてきた。だから、教えてやった。



「この甘い香りのする不思議な木を何処までも辿って行くのだ。その先に、白く滑稽な形の宿がある。そこに行ったら、係の者にこう言いなさい。依頼したい、予約を取りたい、と。そこには月陽という支配人が居る。彼女がきみの会いたい者に会わせてくれる。きみの魂を担保に」



 さあ、行って来るといい。



 きみの後悔と愛を、最期にもう一度だけ、伝えるために。

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