第3話
上弦の月
翌日。
晴人は通学用の自転車を漕ぎながら、まだどこか昨日の話の余韻を引きずっていた。
夏の日差しは容赦なく背中を焼くのに、朝の空気にはほんのわずかに涼しさが混ざっている。
蝉の声が、一瞬だけ途切れる。
だが、すぐにまた騒がしく鳴き始めた。
教室に入ると、すぐに声が飛んできた。
「晴人君、おはよー」
月詩(つくし)だった。
明るい笑顔とともに。
その声に、近くの女子たちが「え、晴人君って呼んでる」とひそひそ笑い合う。
「…おう」
返事は短いが、昨日までよりも柔らかい響きがあった。
⸻
昼休み。
晴人がいつも通り机に購買のパンを置くと、隣の席から月詩が当然のように弁当箱を広げた。
「今日もここで一緒に食べよ」
さらりとそう言って、箸を割る。
周囲のクラスメイトたちの視線が集まる。
ざわめきが耳の端で揺れるが、月詩は気にしていない。
むしろ、堂々とした態度で笑っている。
「お前、ほんとに気にしねぇんだな」
晴人が小声で言う。
「だって、食べたい人と食べるのが一番楽しいじゃん」
返ってくる声は軽やかで、あっけらかんとしていた。
晴人は視線をパンに落とす。
――楽しい、か。
自分にそんな言葉をかけてきた奴は、今までいたか。
昼下がりの教室は騒がしく、外からは蝉の声と吹き抜ける風が混ざって聞こえた。
一瞬、窓から射す光が翳る。
雲が横切ったのかと思ったが、月詩の影もふっと揺らいで見えた。
目をこすっても、すぐに元通り。
見間違いかもしれない。
⸻
放課後。
晴人は原付にまたがり、バイトへと向かった。
スーパーの品出しを終え、閉店のシャッターを下ろした頃には、街はすっかり夜の色に染まっていた。
そのまま原付を走らせ、無意識にあの場所へ向かう。
蛍光灯に照らされたコインランドリー。
ドアが開くと、月詩がベンチに腰掛けていた。
「こんばんは、晴人君」
笑顔は、もう“偶然の再会”を装う気配すらなかった。
「……もう待ってるの、隠す気もねぇな」
「ふふ、だって、ここで会うのが当たり前になってきたでしょ?」
彼女はペットボトルのお茶を両手で抱えながら、外の夜空を見ていた。
窓越しに浮かぶのは、昨日より膨らんだ月。
上弦に近づく、白く張り詰めた光。
晴人は隣に腰を下ろす。
「今日、教室で一緒に食ったろ。クラスのやつら、ざわざわしてたぞ」
「うん、見てた。……でも、いいじゃん。私がそうしたいからそうしてるだけ」
「お前なぁ……」
呆れたように言いながらも、晴人の声はほんの少し和らいでいた。
「ねえ、晴人君」
月詩が少し真剣な声で言う。
「昼間の君って、ちょっと固いよね」
「…そう?」
「夜の方が、自然体。私、夜の晴人君の方が好き」
「……何言ってんだよ」
「ほんとのこと」
彼女は笑って、晴人の胸ポケットにそっと触れた。
そこにあるしおりを確かめるように。
「これね、ちゃんと大事にしてくれてるんだ」
「……ああ」
蛍光灯の光がちらつく。
外の風が一瞬止み、窓に映る月詩の姿が淡く滲んだ。
晴人は目を瞬くが、すぐに輪郭は戻っていた。
気のせいだ。そう思い込もうとする。
月詩は立ち上がり、窓越しに空を仰いだ。
「月、もうすぐ満月だね」
「……そうだな」
「私、ちゃんと見えてるかな?」
「は?」
その言葉に不安になる。
「でも、安心して」
こちらに向き直って優しく微笑む。
「ちゃんとここにいるから」
何を意味するのか分からない言葉だった。
けれど、彼女の笑顔は揺るがず、夜の月明かりに溶け込んでいた。
「なんだよ、引越しでもするのか?」
「…まだ秘密」
そのまま月詩は黙ってまた月を見上げる。
優しげな横顔ではあるものの、それ以上は答えてくれそうにはなかった。
⸻
翌朝。
晴人が教室に入ると、既に月詩が席に座っていた。
机に広げられたノートには、カラフルなペンでぎっしりと文字が並んでいる。
「おはよ、晴人くん」
月詩は当たり前のように声をかける。
クラスの数人が、驚いたように視線を交わしていた。
彼女は元々そこそこ目立つ存在だったが、最近は特に、教室の中心にいるような雰囲気をまとっている。
「…おう」
晴人は小さく返事をする。
それだけで周囲の空気がわずかにざわめいた。
彼自身も、自分の口から自然に声が出たことに少し驚いていた。
⸻
昼休み。
佐藤に声をかけられ、いつもなら断るところを、なぜか今日はそのまま一緒に弁当を食べることになった。
月詩も当然のように輪に加わり、気がつけば晴人は、教室の中で「会話のある昼休み」を過ごしていた。
「蒼井、昨日さ、ドラマ見た?」
佐藤が唐揚げをつまみながら訊く。
「いや、バイトで…」
「やっぱそうか。あの展開、絶対お前にも見せたかったんだけどなー」
「どういう意味だよ」
「まぁ、似てるからな」
「似てる?」
晴人が怪訝そうにすると、佐藤はニヤニヤ笑い、月詩は横でくすっと笑った。
「内緒にしとくよ。ネタバレになっちゃうから」
「似てるって、気になるじゃねぇか」
何度か聞こうとするも、終始ニヤつくだけで答えようとはしなかった。
そんなやり取りに、周囲の数人も笑い声を漏らす。
その中に自分が混ざっていることが、不思議でならなかった。
放課後。
いつものバイトを終えた後、晴人は当然のように原付を走らせ、コインランドリーへ向かった。
自分でも理由はよく分からない。
ただ、そこに行けば月詩がいる気がしてならなかった。
自動ドアが開くと、案の定、奥のベンチに腰を下ろした月詩が振り返った。
「おかえり」
「……おかえりじゃねぇだろ」
「もう、そういうものなんだよ」
淡い蛍光灯に照らされた彼女は、まるでそこが自分の部屋であるかのように自然に居座っていた。
晴人も、何も言わずに隣に腰を下ろす。
この空間だけが、昼間の喧騒と切り離された静けさを保っていた。
「ねぇ、今日の風、変じゃなかった?」
「変?」
「うん。秋っぽい匂いがしたのに、すぐに夏に戻った」
「…そうかもな」
「ほら、こういうの、ちゃんと気づいてくれるのは晴人君くらいだから」
月詩の言葉に、晴人は小さく息をのむ。
確かに、帰り道の途中でそんな違和感を覚えた瞬間があった。
けれど彼は、ただ黙って自動販売機の缶コーヒーを開け、一口飲むだけだった。
月詩はそんな彼をじっと見つめ、ふっと目を細める。
「ほんと、夜の晴人君は優しい」
「……勝手に決めんな」
「勝手じゃないよ」
彼女の声は軽やかで、けれどどこか影があった。
晴人は返す言葉を見つけられず、手の中の缶を強く握った。
しばらく沈黙が続く。
やがて月詩が立ち上がり、窓越しに夜空を見上げた。
そこには、昨日よりさらに大きく膨らんだ上弦の月が浮かんでいる。
「もう少しで、満月だね」
その言葉に、晴人は胸の奥がざわめくのを感じた。
意味を問いただすことはできなかった。
ただ、月光に照らされた月詩の横顔が、どこか遠くに行ってしまうようで、目を離せなかった。
コインランドリーの時計が夜を告げる。
「じゃあね」
月詩は小さく手を振る。
「明日も、くるからね」
「…また、明日な」
笑みを残して出て行った。
晴人は、彼女の消えた扉をしばらく見つめていた。
そしてふと、胸ポケットに触れる。
そこにはまだ、あの冷たいしおりがある。
「……何なんだよ」
小さくつぶやく。
胸の奥に残る違和感と、確かな温もり。
それらが混じり合って、言葉にならない感情が晴人を締めつけた。
⸻
家に帰ると、晴人はまずしおりを手に取った。
月の模様が、部屋の薄暗さの中でも浮かぶ。
新月から始まり、三日月、上弦…あと数日で満月になる。
彼は手帳を開き、カレンダーを確認した。
満月は三日後だ。
月詩は、何を隠しているのか。
「ちゃんと見えてるかな?」
その言葉が、なぜだか妙に重く響いた。
―上弦の月・終わり―
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