第2話 雨の昇降口、曇るレンズ

放課後、空はためらいのない灰色に変わっていた。

雲は分厚い毛布のように校舎を覆い、風は校庭の砂を湿らせ、草の匂いを濃くする。

最初の一滴は、チョークの粉を乗せたままの校庭にまっすぐ落ち、二滴、三滴——

やがて世界は等間隔の針で刺されるような雨音に満たされた。


昇降口の庇は、雨の太鼓。

水は透明な糸を束ねて落ち、地面の水たまりに同心円を次々と咲かせていく。

そこに、綾女は立っていた。

制服の袖を指で摘んで、じっと足元の水紋を数える。

数えることで呼吸の速度を合わせる。

自分がまだ“この世界のテンポ”にいると確かめるために。


「やあ」


声が雨の間を縫って届く。

凛花だ。

ポニーテールにまとめた髪から、水滴がぽとぽとと落ちる。

傘を差していないのに濡れ過ぎてもいない、絶妙な距離で雨と付き合っている。


「帰るタイミング、難しいね」


「……はい」


短い返事。

綾女は庇の端から外を見たまま、目を細める。

雨脚はさらに太くなり、昇降口の外は、半透明のカーテンが何重にも垂れ下がったみたいだった。


「ちょっと待とうか。弱くなるまで」


凛花は隣に並んだが、肩が触れない距離を保った。

ふたりの間に薄い空気の層があり、そこだけ風が止んでいる気がする。

雨は世界を遠くし、音だけを近くする。

誰かの笑い声も、車の走る唸りも、すべては雨に飴色に溶かされて、ここではただの背景になる。


「……あの」


綾女が口を開く。

言葉は雨に押されて、少しだけ重くなる。


「今日、お昼……ありがとうございました」


「こちらこそ。

 “となりに座るだけ”の約束、守れたね」


「……はい」


ほんの少し、口角が上がる。

それは見逃してしまいそうな、極小の笑みだった。

凛花は気づいたが、指摘しなかった。

気付かなくていいことを、あえて胸にしまう。


雷鳴が遠くで転がった。

空がわずかに明滅し、綾女は反射的に瞬きをする。

その瞬間——


ふっと、視界が消えた。


レンズが白い息を吐くように曇ったのだ。

湿気が一気に押し寄せ、フレームの内側から乳白色が立ちのぼる。

世界は幕を引かれた舞台のように、突然閉じた。

輪郭が失われ、音だけが生き残る。

雨、靴のすれる音、遠い笑い。

視界の欠落は、体の中心を空洞にする。


胸の奥で、古い機械がきしむ音がした。

心臓が、次の拍動を忘れそうになる。

手のひらの汗が、一気に冷たくなる。

背骨の上に、アラートの赤い光が点滅する。

——来る。

いつもの、あの波。


「綾女?」


凛花の声が、音の海から拾い上げられる。

近すぎず、遠すぎない。

綾女は反射的に一歩下がる。

庇の影が濃くなり、雨の音が比重を増す。

曇ったレンズの向こうで、凛花の輪郭はまだ見えない。


「……だいじょうぶ」


言葉は口から出た瞬間に崩れる。

“だいじょうぶ”という形を保てない。

息が浅くなり、喉が砂利を飲み込んだみたいにざらつく。


凛花は、一度だけ息を整えた。

そして、ほんの少しだけ声を落とす。


「綾女。

 今は、わたしの”声”だけ見て」


その言い方は祈りのようで、指示のようで、でも命令ではなかった。

綾女の世界で唯一、曇らないもの。

声は光よりもあたたかく、触れないのに触る。


「——はい」


返事は、息の形で出た。

凛花の靴音が、半歩だけ近づく。

でも、触れない。

触れなくていい、と綾女の体が理解していく。


カサ、と布の音。

凛花がポケットから何かを出した気配。

綾女は自然に、指を伸ばす。

空気の中で、手と手は出会わず、物だけが橋になる。

綾女の指先に、柔らかな布が触れた。

昨日も見た黄色の、角に太陽の刺繍のハンカチ。


「受け取った?」


「……受け取りました」


「いい子。

 メガネ、少しだけ顔から離して。

 そう、そのまま、ハンカチを内側にあてる。

 ゆっくり拭いて。外じゃなくて、内側から」


綾女は呼吸を刻みのように数え、布を動かす。

温度が指の腹から伝わる。

曇りの白は、ハンカチが触れるたび薄片になって剥がれ、

ガラスの向こうに色が戻っていく。

最初は灰色、その次に薄青、その次に——


世界が結ぶ。


滲んだ輪郭の向こうで、凛花が、ちゃんと笑っていた。

その笑顔は大げさではなく、救急箱の中にある絆創膏みたいにただそこにある。

綾女の胸の緊張は、糸をほどくように少しずつ緩んだ。


「見える?」


「……見えます」


「よかった」


ふたりは同時に、小さく息を吐いた。

吐いた息がほんの少し白くなって、すぐに雨に溶けた。


「びっくりしたね。湿気、今日すごい」


「はい……。すみません、取り乱して」


「取り乱してないよ。

 だけ。視界も、呼吸も」


言い換えは、綾女の胸にやわらかく沈んだ。

“取り乱す”と“取り戻す”の距離は、言葉一文字ぶん。

その差を、凛花はさりげなく埋める。


「……ありがとう、ございます」


「どういたしまして。

 あ、ハンカチ、しばらく持ってていいよ。

 次に会うとき返して」


「はい」


掌の黄色は、小さな灯りのようだった。

それは庇の下の薄闇で、はっきりとした存在感を持った。

持っているだけで、手の中が明るくなる。


雨は少し弱まった。

けれど帰路はまだ遠い。

昇降口の外には、走って帰る部活生が点々といる。

彼らの笑い声が近づき、また離れていった。


「綾女、ひとつ相談。

 ここ、ちょっとだけ人が多い。

 裏門、回る?」


「……はい。人が少ない方が」


「了解。

 じゃあさ、合図、やっていい?」


凛花は人差し指で空中に横線を描いた。

“—”。

セーフワード。「半歩下がる」。

綾女はうなずく。


「では、"声→手→目"の順。

 まず声、今みたいに会話しながら歩く。

 次に手、階段や段差の前だけ、合図する。

 目は最後。必要なときだけ、わたしを見る」


「……わかりました」


「うん。じゃあ、いこっか」


ふたりは庇から半歩、雨の縁へ。

校舎の陰の、細い通路を選ぶ。

凛花は前でも後ろでもない、綾女のに位置した。

斜めは、安心の角度だ。

真正面の圧も、背後の不安も、そこにはない。


「段差、ひとつ。

 ——いち、に」


「……いち、に」


足裏がコンクリートの角を捉え、

雨で暗くなった世界に、確かなリズムが刻まれる。

雨音のテンポと、ふたりの歩幅が重なる。

呼吸は浅くなく、深すぎもしない。

均等。

その均等が、しめった空気の中で灯のように揺れずに立っている。


「綾女、匂い、する?」


「……土と、草と、錆びた鉄の匂い」


「うん、いいね。

 五感で“今”に戻るの、上手だよ」


ほめられることに、綾女は慣れていない。

耳たぶが微かに熱くなる。

雨がそれを冷やし、風が撫でる。


裏門が見えてきた。

人影は少ない。

雨が作った薄幕の向こうで、街の灯りがにじんでいた。

世界が柔らかい水彩で塗られている。


「もう少しで門。

 ここだけ、真正面に人が来るかも。

 ——半歩、下がる?」


凛花が空中に短い横線を描く。

綾女は合図に合わせて足を止め、呼吸をひとつ整えた。

通り過ぎる男子ふたり。

彼らの靴音が、雨の譜面に一瞬混ざる。

混ざって、消える。

綾女の視線は地面の水紋へ戻り、波が消えてまた生まれるのを見送る。


「よくできました」


「……子ども扱いしないでください」


「ううん、プロとしての評価。

 危機対応の基礎、満点」


「プロ?」


「うん。わたし、一応、だから」


くす、と笑いが漏れた。

綾女の声帯が、自分の笑い声に驚いたみたいに震える。

凛花はそれを拾い、ポケットにしまうように目を細めた。

笑いは宝物。濡らさず、落とさず、次に渡すまでとっておく。


門をくぐると、雨はさらに細かくなった。

こめかみに触れる滴が、もう痛くない。

空はまだ重いのに、足取りは軽い。

ふたりの影が、街灯の下で重なり、ときどき離れ、また並ぶ。


「ねえ、綾女」


「はい」


「明日、レンズの、考えよう。

 フレームの角度をちょっと変えるとか、

 拭き方のルーティンを決めておくとか。

 “急に真っ白”は、今日で終わりにしよう」


「……終わりに、できるでしょうか」


「できることから、の。

 全部は無理でも、“今日みたいに”を少なくする。

 回数が減れば、怖さも薄くなる」


言葉は、濡れた道に描くチョークの線のようだった。

すぐに溶けない、やわらかい白。

綾女はうなずき、胸の奥の時計が、少しだけ正しい時刻を刻み始めるのを感じた。


「……凛花さん」


「うん?」


「さっきの、“声だけ見て”って、

 変な言い方です」


「でしょ。でも、便利でしょう?」


「……はい。

 たぶん、わたし、声なら、怖くない」


「覚えとこ。

 視線が無理でも、声から外を見る」


ふたりは足を止め、信号の音を待った。

青になり、渡る。

水たまりを避ける足の運びが、いつの間にか同じリズムになっている。


「綾女」


「はい」


「わたし、気付かなくていいことに気付いちゃうタイプだけど、

 から」


「……ありがとうございます」


「だから、もし“言ってほしい”ときは、合図ちょうだい。

 そのときは言う。

 たとえば、“目、綺麗だよ”って。

 今はまだ、言わないでおく」


綾女の胸に、温度の違う二つの波が同時に来た。

恥ずかしさと、救われる感じ。

どちらも、雨に打たれた肌の上で、ゆっくりほどけていく。


「……いつか、言ってください」


「もちろん」


凛花は笑い、傘を開いた。

薄い布を叩く雨の音が、ふたりの上に天蓋のように張られる。

傘の骨が、世界と世界の境界線になる。

その下で、ふたりの呼吸は同じ温度になった。


「じゃ、駅まで送る」


「いえ、ここで大丈夫です」


「ほんとに?」


「はい。

 ——今は、わたし、から」


その言葉は、雨の幕を少し持ち上げた。

凛花は一拍置いてから、軽く頷く。


「了解。

 じゃあ、また明日。

 ハンカチ、忘れないでね。

 君が持ってる間は、ずっと晴れの気分でいられるように、

 おまじない、かけといたから」


「……そんなの、あるんですか」


「あるよ。人たらしの秘術」


ふたりは笑って、別れた。

綾女はハンカチを胸ポケットに仕舞う。

心臓の上で、小さな太陽が布ごしに灯る。


雨はまだ降っている。

でも、帰り道はもう怖くない。

曇ったレンズの向こう側に、

ゆっくりと、街の輪郭が戻ってくる。


——取り戻す。

視界を。呼吸を。

明日、また「隣にいる」と言ってくれる声の温度を。


綾女は歩き出した。

足音は水面に円を描き、すぐに消える。

消えるたび、次の円が生まれる。

それはまるで、彼女の世界が、

少しずつ、少しずつ、広がっていく合図のようだった。


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