現実と夢の境界
自宅療養を始めて二か月ほど経った十月初旬のある日、夕方に突然かかってきた電話から物語は始まる。
携帯電話のディスプレイには見知らぬ番号が表示されていた。わたしはそれがトオルである可能性を考えることもなく、不用意に通話ボタンを押していた。
「もしもし……」
「久しぶり!エミ」
「トオル?!」
「俺さ、ケータイ変えたんだ」
「はあ……」
わたしは間の抜けた返事をしていた。「久しぶり」というセリフの後に、いきなりケータイを変えたと言われても話がつながらなかった。わたしはこめかみに手を当てて顔をしかめた。電話の向こうで、わたしのそんなリアクションが見えるはずのないトオルはお構いなしで話を続けた。
「だってさぁ、エミったら電話に全然出てくれないんだもん。だから思い切って機種変と同時に番号も変えたんだ。作戦大成功! そしてゴメン、突然電話して」
トオルは畳み掛けるように携帯電話の事を説明して、勢いよく詫びた。彼は率直だった。そして彼のように直球勝負でやってくる男の方が、あしらうのは難しかった。
それにトオルの電話を無視してきたことで、僅かにせよ後ろめたさを感じていたわたしは隙を作ってしまった。
「ううん、そんな謝らなくていいよ。わたしこそゴメン、全然電話に出なくて」
「エミの声が聴けてうれしい! 今はただそれだけだよ。病気の時は電話で話すことも辛いだろうし……、いいんだ、俺の事は気にするなよ。なによりもエミが大切なんだ」
トオルはわたしへの好意を無邪気に表明した。それを以前は面倒くさく感じていた筈なのに、なぜかこの時は嬉しくて、トオルと少し話したいと思ってしまった。一人で自宅療養してきたわたしは、自分でも気づかないまま寂しさを感じていたのだ。
「わたしもトオルの声が聴けてちょっと嬉しいかも」
「ホント? よかった。ウザいって言われたらどーしよーって思ってたし」
わたしは迂闊にも、たとえそれが本音だったとしても「声が聴けてうれしい」なんて言うべきではなかった。ずっと距離を置き続けてきたトオルとの関係を、そのままフェードアウトさせようとしていたくせに、この一言ですべてが台無しになってしまった。
わたしは自分が思っているよりもずっと弱かったのだ。
「この前ね、偶然そこの近くの公園でさ、エミが歩いているのを見かけたんだ。遠巻きだったのと、俺もバイトに遅刻ギリギリだったから声をかけられなくてさ」
公園……たぶんそれはリハビリ散歩コースの途中に立ち寄る小さな公園の事だろう。バイト先のパン屋からさほど遠くはなかったけれど、まさかトオルがあの辺りを通りかかって目撃されるとは思ってもいなかった。
「ええっ? ヤだなぁ、全然気づかなかった」
「でも良かったよ。外出できるぐらいに回復したんだね。治療が順調そうで何よりだよ。いつもあの辺りを歩いているの?」
「うん、まあね。リハビリ兼ねてほぼ毎日近所を歩いてるよ。医者からも無理がない程度に歩くのはいい事だって言われてるし」
夏場はさすがに厳しかったけど、秋口から夕方の暑さが和らいだ頃を見計らって、少しずつ家の近所を散歩するようになっていた。この日もちょうど散歩から帰ってきたところに電話が掛かってきたのだった。
「ねえ、エミ……今度一緒に歩いてもいいかな?」
「え?」
トオルからの突然の申し出に、わたしは無防備だった。
「この近所にさ、絶景の夕焼けを望めるポイントがあるんだ。特に今の季節は最高! 絶対にエミも気に入ると思う!」
「うそ? そんな場所がこんな街なかにあるの?」
わたしは無防備なまま、トオルの話に興味を示してしまった。
「超穴場でさ、まだほとんど知られていない場所なんじゃないかなぁ。なだらかな丘に草はらが広がっていてさ、ここが東京の街なかだってことを忘れるほどの別世界。丘の上からは、空気が澄んでいれば富士山だって見えるんだ」
都心と呼ぶにはちょっとはばかれるにせよ、一応は山手線の内側である自宅の近くにそんな場所があるなんて、俄かには信じられなかった。その一方で、トオルの巧みなセールストークに少し心が揺らいでいた。それほどの素敵な場所が近所にあるなら行ってみたい。
けれど甘い話にはウラがあるものだ。一体どこへ連れ出そうとしているのか、もっと知っておくべきだ。ここでようやくわたしはトオルへの警戒心を取り戻し、否定的な態度をとってみた。
「そうなんだぁ。でも近所っていうけど、わたしまだ少ししか歩けないの。せいぜい三十分が限度。さすがにここから片道十五分以内なんて近い場所じゃないよね?」
「大丈夫、片道十分もかからないから。三十分あれば余裕で往復できるよ」
トオルは自信たっぷりに答えた。
「ええ~? うそだぁ。そんな近くにあるんだったら、とっくの昔に見つけているよ」
このひと月ほどの間に、自宅から半径十五分圏内の散歩コースはほぼ開拓しつくしていたのだ。わたしはトオルの言葉がますます信じられなくなった。
そこで以前配布された防災マップを棚から取り出して広げてみた。地図には近所の公園や避難所、病院、消防署などの場所が記されていた。だけど徒歩十分で行けそうな範囲に、そんな丘はどこにも記されていなかった。目立った物は図書館や商業施設、工場ぐらいのものだった。
「今この辺りの地図を開いてみたけど、どこにもそんな丘は見当たらないよ?!」
わたしは訝しく思い、ややトゲのある声でトオルに聞き返した。
「それっていつごろの地図?」
トオルは余裕のある涼しい声で、わたしの質問に対して質問で返してきた。地図の作成時期は三年前だった。わたしがこのマンションへ入居した当時に大家さんから渡された、ゴミ出しルールなどの書類一式に含まれていた防災マップだった。
「ああ、そんな古い地図じゃ載っていないよ。その丘が原っぱになったのはつい最近、ここ数か月の話だもん」
わたしはもう一度防災マップをにらみ直した。等高線も何もない地図をいくら見ても、どの辺が丘になっているのかさっぱりわからなかった。パソコンを立ち上げてネット上の地図で確認しようかと一瞬考えたけど、そんな最近のことではさすがに反映していないはずだ。トオルに頼らず自分で探すのは無理そうだった。
「うーん、どこだか全然わからないや」
「だろうね」トオルはクスッと笑った。「まだほとんど誰も知らない、とっておきの丘へご案内いたしますよ、お嬢様」
「ご案内ねえ……、何か企んでいるでしょ?」
男が女を特別な場所へ誘うのは、告白や求婚、その他諸々の企みがあっての事だというのがお約束だ。トオルの事だから「もう一度恋人として付き合おう」って再告白しようとしているのは見え透いていた。
もちろんわたしはそれを受け入れる気など微塵もなかった。しかしその一方で、この近所にあるという「夕焼けのきれいな丘」に抗し難い魅力を感じ始めてもいた。
「別に何も企んでいないよ。変なこと言うんだな」
当然のことながらトオルは企みを否定した。それに対してわたしは、ちょっと意地悪な気分になるのを抑えきれなかった。
「ホントに? 美しい夕焼けを背景に、思わず赤面するような青臭くて恥ずかしい台詞を言おうとしていない?」
「なんだよ、それ?! そんなことしないよ!」
試しにからかってみると、トオルは素直に不機嫌そうな声で否定した。わたしは予想通りのリアクションに満足し「夕焼けバックに恥ずかしい告白タイム」は封じることができたと慢心した。
「ごめんごめん、トオルは純粋に友達としてわたしのこと心配してくれているのよね? ありがとう。その友情に感謝して、素敵な丘への案内をお願いしようかな」
わたしは嫌味な言い方だと分かりつつ「どうせ男なんて、このぐらい言わなきゃ分からんでしょ」とばかりに釘を刺したつもりだった。
しかし、丘へ行きたいという欲を出してしまったのは迂闊だった。
「本当?! じゃあ善は急げっていうし、さっそく明日の夕方なんてどうかな? 天気予報じゃ明日が絶好の夕焼け日和なんだよね」
電話の向こうでトオルの声が1オクターブ上がった。それでもわたしはトオルの術中にはまったことに気づいていなかった。前段に告白封じで打った布石が全て無駄になったことにも。
「いきなり明日?!」
突拍子もない提案に驚きつつも、一度「ご案内」をお願いしてしまった手前、断りにくかったし、断る言い訳も思いつかなかった。自宅療養中なのだから、通院以外の予定で都合が悪いなんてことはほぼ無いし、午前中しか外来診療をしていない事もトオルなら知っていて当然だった。
当日体調を崩すということはあり得たけど、この段階では断る理由に使えなかった。
「うん、西から低気圧が日本海に近づいてきているからね。明日を逃すとしばらくは夕焼け日和がないんだ」
遥か彼方、日本海の低気圧と近所の丘の夕焼けに何の関係があるのかわからなかったけど、トオルの言葉には妙な説得力があった。
「うん、わかった。じゃあ明日でもいいや」
「ありがとう。そしたら明日、夕方五時に迎えに行くよ」
「うん」
「じゃあ、また」
「うん……」
こうしてトオルからの電話は切れた。そこでやっと、明日はトオルから復縁を迫られるに違いないと気づき、激しく後悔したのだった。
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