けさらんのぱさらん

「いらっしゃいませ」

 穏やかで、それでいて明るい響きを持つ女性の声がわたしたちを迎えてくれた。それが〝ぱさらん〟だった。

 彼女は髪を後ろで束ね、白のワークシャツにジーンズ、そしてオリーブグリーンのエプロンという服装だった。やや細身で華奢な印象。年齢はわたしたちと同世代か少し若いぐらい──とりあえず三十歳前後──に見えた。

 入って正面に見えるカウンター奥の厨房に、同じく白いワークシャツにオリーブグリーンのエプロン、そして藍染めの手ぬぐいを頭に巻いた男性の姿があった。彼も「いらっしゃいませ」と落ち着いた大人の声でわたし達を迎えてくれた。年の頃は四十過ぎぐらい。それがカズオさんだった。

 この時はまだ彼の名前と役割を知らず、この店のマスターだろうか、と想像していた。

 店の真ん中ではダルマストーブが、丸みを帯びた胴体の中央に開けられた小さな丸窓に、暖かな炎を揺らめかせていた。

 その向こうには厨房を囲むようにカウンター席が手前側に三席、右側に四席あった。さらに右側には、大きく開かれた窓に沿って四人掛の席が四つ設えてあった。反対の左側には窓に向かって座るカウンター席が四つ。その手前には本棚があって雑多な本や雑誌にCD、そして年代物のジャズやロックのLPレコードが並んでいた。

 カウンターの左、厨房入口の脇には結構高そうなオーディオ機器が見えた。でも店内に音楽は流れておらず、時折吹きつける風や雨音を除けば、しんと静まり返っていた。

 わたしたち以外に客の姿はなかった。

「お好きな席へどうぞ」

 ぱさらんに促されて、わたし達は一番ダルマストーブに近いテーブル席を迷わず選んだ。席に着くと熱々のおしぼりとメニューとお冷や……ではなく湯呑み茶碗でお茶が出された。香りから察するに玄米茶のようだった。そしてティーキャンドルが添えられた。

「ゆっくり暖まっていってくださいね」

 ぱさらんはそう言って微笑み、カウンターの方へ戻っていった。

「いいじゃない、なかなか。わたし気に入ったかも」

 店内をざっと見渡したカナが小声で囁いた。

「しかもお冷やじゃなくて、棒茶やほうじ茶でもない、玄米茶ってのがツボだよね」

 彼女はニンマリと笑って、玄米茶の湯呑み茶碗を大事そうに両手で包んだ。カナの言う通り、温かい玄米茶はありがたかった。ここでほうじ茶や棒茶が出てきたら、冷たい水よりはマシにせよ、さすがに食傷気味になっていただろう。

「でしょ? わたしの勘に外れはなかったよね」

 わたしはちょっと自慢気に誇った。たとえ偶然の産物だったとしても、宝物を掘り当てた功績はわたしにあるのだ、と言わんばかりだった。

 玄米茶で一息つくと、メニューを開いて何を頼もうかひとしきり吟味し始めた。飲み物メニューには日本茶もラインナップされていて、その中には加賀棒茶も含まれていた。カナがわざとらしく言った。

「ねえねえ、加賀棒茶があるよ。これにしたら? っていうかトイレに行きたかったんじゃないの?」

 わたしがこの店に入るために使った嘘をカナはしっかりと覚えていた。たぶん嘘と分かっていての嫌味だった。わたしはあえて大げさに涼しい顔を作って席を立った。

「ホットココアにする。あとよろしく」

 わたしはテーブル席とカウンター席の間の突き当たりにトイレを見定めると、まっすぐそこへ向かって歩き出した。トイレのドアを閉めた瞬間、背後でカナが「すみませーん」とぱさらんを呼ぶ声がした。

 トイレから出ると、カナがぱさらんとなにやら親しげに話している様子が目に入った。

「……へえ~、そんな前からここでお店をしていたんですかぁ。わたし結構チェックしているんですけど、今日偶然ここに来るまで全然知らなくって」

「そうね、看板も目立たずひっそりと営業しているから無理もないでしょうね」

「はい、たまたま道を間違えて車を切り替えそうとして入ったのが、ここの駐車場だったんです」

 そこでカナはトイレから出たわたしの方を振り向いた。

「で、彼女がカフェの駐車場だって気づいて、どうしても入ってみたいって言い出したんです。ね、エミ?」

「え、なに?」

 席に着こうとした矢先に突然話を振られてわたしは少し戸惑った。

「ありがとう、エミさん。この店に気づいてくれて」

 ぱさらんはわたしの目を真っ直ぐ見つめて微笑んだ。どこまでも透明な黒い瞳が印象的だった。それは窓越しの人影と目が合ったと感じた瞳だった。なんだか懐かしくも親密な感情を伴って、わたしの胸の中が暖かくなっていた。

 ふと、初対面の女性に何をときめいているんだろう、と急に照れくさくなった。ひょっとしたら顔を赤らめていたかもしれなかった。

「そんな、ありがとうなんて言われるような……。ほんとたまたまです」

 わたしは照れ隠しに後ろ頭を掻くふりをしながら、間の抜けた笑いを浮かべた。そんな様子にぱさらんがクスッと笑ったような気がした。それは成熟した大人の女性が見せる深みのある微笑のようだった。

 わたしはさっきの印象を撤回して、彼女の年齢はひょっとしたらわたしたちより十歳ぐらい上、四十前後かもしれないと思いなおした。

 そんなわたしの照れや印象年齢修正作業など知る由もないカナが出し抜けに質問した。

「ご夫婦でお店をしているんですか?」

 わたしは、なにを野暮なこと聞くんだか、とカナに少し呆れた。ぱさらんは一瞬目を丸めたように見えたが、わたしにクスッと笑ったときと同じような大人の微笑で質問に答えた。

「あら、そんな風に見えました? あたしがオーナーで、彼はキッチン担当の従業員なんです。まあ、このお店の味を託すパートナーとして頼りになる存在だし、夫婦みたいなものかもしれませんね」

 カウンターの向こうで背中を向けているカズオさんの耳が赤くなったように見えた。聞こえないふりをしているけど、ぱさらんに褒められ照れている様子が伝わってきた。

 ──この二人、たぶん恋人でもない。きっとカズオさんがぱさらんに片想いしている。そしてぱさらんはもちろんその事に気づいている。だけど彼女はカズオさんの想いに応えることは出来ない。夫婦みたいなもの、と言いつつオーナーと従業員という言葉で二人の関係を規定してしまっている。大人の微笑で何かを遮断している。そこにはどんな理由があるのかわたしにはわからない。わからないけどこの二人はなにか理由がある──

 一瞬でそんな妄想をしたわたしは、ふと自分もトオルの想いに応えていないな、と思い返した。しかも人に言えば馬鹿にされるような理由で……。

 ともあれ自分に想いを寄せる男をソデにしているという点では、わたしとぱさらんは共通しているような気がした。ほとんど妄想に基づいて、ぱさらんと自分に共通項を強引に見出していた。

「ごめんなさい、変なこと訊いて。でも確かに素敵なパートナーだと思いますよ、お二人とも。こんな素敵なお店を築いてらっしゃるし」

 カナは予想外の答えに一瞬たじろぎつつも上手く対処した。この娘は世渡りが上手だ。そしてカナの「素敵なパートナーだと思う」という言葉にもカズオさんの耳が赤くなったのを、わたしは見逃さなかった。

「ありがとう。でも本当に素敵なお店かどうかはまだわからなくてよ」

 そう言ってぱさらんはオーダー票を持った左手を軽く持ち上げた。

「あ、そうだ!」

 カナはようやく自分のなすべきことを思い出した。

「じゃあ、わたしは『カフェけさらんブレンド』とオリジナル・チーズケーキのセットにします」

「かしこまりました。それとホットココアでしたね」

 わたしの方を向いてぱさらんがオーダーの確認を求めた。わたしは小さく頷いた。彼女は伝票に手早くオーダーを書き留めると「では少々お持ちくださいませ」と丁重な言葉と愛嬌のある笑みを残してカウンターへ戻っていった。

「ブレンドとチーズケーキ。ホットココアです」

 彼女はカウンターの中のカズオさんにオーダーを伝えた。

「あらカズオさん、耳が赤いわよ? まさか急に寒くなったからって風邪でも引いたんじゃないでしょうね?」

 カズオさんの名前を初めて知らされた瞬間だった。彼女は明らかに彼をからかっていた。その耳がますます赤くなった。

「違いますっ! ちょっとスパイスの味見をしたら思いのほか辛かっただけです」

 カズオさんの言い訳がまた可愛かった。

「あの二人、お似合いだと思うんだけどなー」

 カナは二人を夫婦と見立てた自分の見解を擁護するようにつぶやいた。──確かにお似合いの二人だった。からかい、からかわれる様子が微笑ましかった。けれどあの二人には恋人や夫婦になれない何か深い理由があるのだ。それも主にぱさらんの方に。カナはそのことに気づいていない──と再び妄想した。

 やがてコーヒーを淹れる香りと、ココアの甘い匂いが漂い出した。不意にカウンターの中かから会話が聞こえてきた。

「……ねえ、ぱさらん、昨日仕入れたカイエンペッパー、どこにしまったか覚えていない?」

 カズオさんの声だった。

「あら、調味料ケースに入っていない? あたしは触っていないわよ」

「あ、ありました。ごめんなさい」

「しっかりしてねぇ、カズオさん」

 ここでわたし達は〝ぱさらん〟という名前を初めて耳にしたのだった。カナが小声で話しかけてきた。

「ねえエミ、聞こえた?」

「うん、ぱさらん……だって」

「カフェけさらんの主、ぱさらん?」

「そう、けさらんのぱさらん」

「けさらんぱさらん、かぁ……」

 最後はわたしとカナでハモっていた。その直後にぱさらんがカウンターの中から出てきた。手にしたトレイにはカップが二つとチーズケーキがあった。

「お待たせしました」

 彼女は丁寧にチーズケーキとコーヒーとココアをテーブルに並べた。それらはテーブルの上で「この場所しかない」という絶妙なバランスで配置された。こういう配置の美しさというものもあるのだと、わたしは初めて知った。

「どうぞごゆっくり」

 ぱさらんは再びニコリと愛嬌のある笑みを残して去っていった。

「んふ、おいしそう」

カナの意識は完全にチーズケーキへとフォーカスしていた。その目は歓喜に潤んでいるようにさえ見えた。彼女はチーズケーキを一口頬張り、顔をほころばせた。

「おいし」

 言葉は短かったけど、彼女は揚最中を食べたときとは違う種類の幸せオーラを再び放射し、全身で美味しさを表現していた。その様子をカウンターの向こうから嬉しそうに見つめている視線をわたしは感じた。カズオさんだった。

 これだけ喜ばれたらカズオさんもさぞや嬉しかろう。わたしは改めてカナの特殊能力に感心していた。

 わたしもココアを一口すすった。おなじみのココアの甘さが口の中に広がる。ほっこりとした温かみが喉からお腹へとゆっくり降りていき、さらにお腹からじんわりと手足へ広がっていった。頬の筋肉がすっかり弛緩して垂れ下がるような笑みを浮かべているのがわかった。もしかしたらわたしも幸せオーラを発していたかもしれない。それは体も心も芯から温まる不思議なココアだった。

 カナは引き続きコーヒーをすすりながら幸せオーラを発し続けていた。どうやら『カフェけさらんブレンド』もおいしいコーヒーだったみたいだ。

 わたしたちは窓の外に冷たい雨が降っていることをしばし忘れた。

 カナはチーズケーキとコーヒーを賞賛しつつ、これでもお姑さんにいつも気を遣っていて疲れるのよ、と愚痴をこぼし、久々にカフェに入ってお茶とお喋りを楽しめることが喜ばしいと語った。わたしは彼女の話に頷き、どこが気を遣っているんだかとツッコみ、ココアを慈しんだ。

 全ての器が空になった頃、ぱさらんが玄米茶のおかわりを勧めてくれた。わたしたちはありがたくいただくことにした。他に客は来る様子もなく、閉店時間にはまだ早く、ゆっくり過ごせる余裕があった。

 ぱさらんは手にした急須から丁寧にゆっくりとお茶を注いでくれた。

「お店の名前、けさらんの由来って何ですか?」

 カナが訊ねた。それはわたしも知りたいと思っていたことだった。ぱさらんは目線を落として注意深くお茶を注ぎながら答えた。

「ケサランパサランって知っているかしら?」

 わたしたちは頷いた。

「なら話が早いわね。そう、ケサランパサランから取ったの。ケサランパサランは枇杷の木の精だっていうお話を聞いたことがあってね、このお店の敷地にも枇杷の木があったのと、なんだか白くてフワフワしていて正体不明で、しかも白粉おしろいを食べて生きているなんて不思議な感じが好きだったから」

 そこでぱさらんは一息ついた。

「ケサランパサランを飼っている家は幸せになるのよ。でも飼っていることをむやみに口外してはいけない。あたしはケサランパサランのようなお店を作りたかったの。そのお店がある街は幸せになるの。でもお店の存在をやたらふれまわってはいけない」

「だから目立たずひっそりとお店を?」

 わたしは思わず口を挟んでしまった。

「そうね、あんまりお店が賑やかになりすぎると、白粉を食べられなくなるし」

「おしろい?」

「このお店が食べる白粉は、こうやってお客さんと語り合うことかな……。ううん、語り合うというよりはお客さんからお話を聞かせてもらう事の方が多いかしら」

 そう言ってぱさらんはなぜかわたしを見た。

「このお店に来る人は、なぜか不思議と物語を持っているの。それはちょっとした失敗談や成功談から波乱万丈の半生記もあれば、夢で見た物語もあったり……ね」

 再び彼女の黒く透明な瞳がわたしを捉えた。

「白粉を食べさせてね」

 そう言ってぱさらんは微笑んだ。その笑みはどこかコケティッシュでさえあった。まるで「お話を聞かせてね」とねだっているかのようだった。彼女はわたしが何度もくりかえし同じ夢──しかもその内容はかなりストレンジ──を見て、それを誰にも話せずにいることすら見抜いているかのようだった。

 同じ微笑みはカナにも向けられたけど、意味合いは違うような気がした。案の定カナは少し外れた反応を返した。

「うーん、語るも涙、聞くも涙の嫁姑物語なら無くもないけど、語ると長いですよ」

「いーよいーよ、語らなくて。カナの方がお姑さんをこき使ってるんじゃないの?」

 わたしはすかさずツッコんだ。そして思い出した。お姑さん……いいかげん引き上げないと、姑さんとミサキちゃんが迷惑をこうむる、と。

「ねえ、そろそろ戻らないとミサキちゃんが寂しがるんじゃないの?」

「おおっと、もうそんな時間? あーん、もっとお喋りしていたいなあ。戻りたくなーい」

「わたしも名残惜しいけど、さすがにもうダメでしょ?」

 そんなわたしたちのやりとりを傍目で見ていたぱさらんが、クスクス笑いながらたしなめた。

「はいはい、エミさんもカナさんも今日はお開き。また今度ゆっくりしていってくださいね」

 彼女はわたしたちの名前で呼びかけてくれた。それは小学校の先生が児童に呼びかけるような優しい響きだった。

「はあい」

 わたしたちは子供のように素直な返事をして、彼女の提案を受け入れていた。わたしはぱさらんのことをずっと年上の、憧れのお姉さんみたいに感じていた。彼女は見た目よりずっと年上の魂が宿っているのだ──そう、歳を取らない魔法使いのように──そんな気持ちだった。

 帰り際、レジで支払いを済ますと、ぱさらんがお店の案内カードを手渡してくれた。

「一見さんには渡さないのよ、このカードは」

 と、彼女は何か大切な秘密を明かすように言った。

 カードにはお店の電話番号と駅からの略図が記されていた。駅からは意外と近かった。徒歩十分、楽に歩ける距離だ。そして裏側は彼女の名刺を兼ねていた。

『カフェけさらん オーナー ぱさらん』

 わたしがそれを見て少し戸惑った表情を見せると、ぱさらんが説明してくれた。

「ケサランパサランじゃストレート過ぎるかなって思ったりとか諸々あって、お店の名前は『けさらん』にしたの。その代わりあたしが『ぱさらん』と名乗ることで、お店とあたしの二つが揃って「ケサランパサラン」として完成するの。もちろん本名じゃないわよ。ビジネスネームとでも言えば格好いいかしら?」

 ぱさらんは最後、少し照れ笑いを浮かべていた。わたしが疑問に思ったことを察して、丁寧に説明してくれた事が嬉しかった。そして彼女がこのお店に込めた想いを感じた気がした。人知れず街を幸せにするケサランパサランが、ふわふわと浮かぶ姿を思い浮かべた。

「ありがとうございました。また来てくださいね」

 わたしたちはぱさらんに見送られて、けさらんを出た。外はまだ冷たい小雨が降っていた。車は雨の中を駅に向かって走りだした。けさらんは視界からすぐに消えた。

 とたんになんだかあの店にいたことが現実じゃないような気がしてきた。わたしは宮沢賢治の「注文の多い料理店」を思い出していた。山猫だったか化け猫だったかが紳士を食べようと企むレストランではなく、ケサランパサランがお話を食べるカフェという違いはあるけれど、なんだかお伽噺のような不思議さは共通している気がした。

 ほどなくして車は駅前に到着した。

「またいつでも遊びに来てね。その時もけさらんに行ってみようよ」

 助手席の窓を開けてカナが手を振った。わたしも「うん、必ず」と手を振り返した。助手席の窓がせり上がり、カナはゆっくりと車を出してミサキちゃんの待つ家へと帰っていった。

 時刻は帰宅ラッシュの時間に差し掛かっていた。わたしは改札からあふれ出してくる人の波に逆らって、上り電車のホームへ向かった。下りと違って上りホームはそれほど混雑していなかった。

 まもなく電車がやってきた。車内も乗客は少なく空席が目立った。わたしはいくつか空いていた二人掛け席のひとつを選び、窓側に座った。電車が動き出すと、車窓の雨滴が斜め後ろに向かって流れだした。雨粒が描くストライプ模様と、窓枠に右ひじをついて外を眺めるわたしの姿が重なる。ただ走行音が響く以外、車内は至って静かだった。物思いに耽るにはちょうどよかった。

 わたしが「物語」を持っていることや、それを誰にも話せずに抱え込んでいることも、なぜかぱさらんは知っているように思えた。そして、彼女以外にこんな話をできる人はいないような気がした。

 でも彼女とは今日初めて会ったばかりだ。確かに彼女は物語を聞かせてと言ってくれたけど、こんな個人的な話を打ち明けるような関係じゃない。

 何度かあのお店──けさらん──を訪れて、ぱさらんと親しくなったら話せるようになるかもしれない。わたしの「物語」を話せるようになるには、もっと時間がかかりそうだ。それでもいいからいつか話せたらいいな──そう願った。

 電車はやがて東京都内にさしかかろうとしていた。雨はいつの間にか上がっていた。前方に東京の街あかりが広がっている。そしてその向こうには、解体を前にして特別にライトアップされたトーキョー・クロスが、雨上がりの夜空にくすんだ姿を浮かび上がらせていた。

 東京タワーが横倒しの状態で東京スペースタワーに串刺しとなった巨大な廃墟、トーキョー・クロス。──クロス──十字架……わたしには巨大な道標にも見えた。実際、串刺しになっている東京タワーの先端は、ぴったり真西を指していると言われていた。

 わたしは時々思うのだった。十字架にせよ道標にせよ、そもそもこんなモノが存在しているこの世界自体が、夢か何かじゃないだろうか、と。

 「あれ」が出現したとき誰もが我が目を疑い「あり得ない!」と叫んだ。おまけにどうやって東京タワーが宙を飛び、スペースタワーに刺さったのかは謎のままだった。巨大竜巻説にプラズマ説、米軍秘密兵器説からUFO宇宙人説などのオカルト系まで、諸説がマスコミを賑わせたのもつかの間だった。

 人々はあっという間にトーキョー・クロスの存在に慣れてしまい、当たり前の日常風景と化し、関心を失っていった。

 そうして一部のマニアックなメディア以外、取り上げられることはなくなっていった。再び取り沙汰されるようになったのは、解体と再開発の話が持ち上がってからのことだった。

 トーキョー・クロスがある風景──十年間見慣れたその景色が今、わたしの中で揺らぎ始めていた。いや、わたしの記憶や存在自体が揺らいでいた。夢で見る世界と、この現実と言われる世界にどんな違いがあるというのだろう、と。

 どちらの世界にもトーキョー・クロスは存在していた。現実世界のわたしはトーキョー・クロスが出現した理由を知らないまま、解体された後の世界をCADで描いた。夢の中のわたしはトーキョー・クロスが出現した瞬間を目撃しただけでなく、そこに至る過程に深く関わっていた。

 まったくわたしはどうかしている。理由は知らなくても現実は現実。過程が描かれていても所詮夢は夢。答えは簡単だった。正気の人間なら悩むことじゃない。わたしはうつむいて苦笑した。

 ──馬鹿馬鹿しい──

 そして次の瞬間、もっと現実的な悩みをわたしは思い出していた。帰宅すれば「気まずいルームメイト」のトオルが待ち受けているかもしれないという、面倒な現実を。

 彼とは日常会話が無いわけでもなかった。当たり障りの無い世間話や家事に関わることなどは話すし、テレビを見ながら感想やツッコミを述べ合うぐらいはするのだ。でもキスはおろか、お互いの体に触れることすら無く、微妙な間合いを取りながら共同生活をしていた。

 気まずいルームメイト、言い換えれば「非常に気を遣うルームメイト」。それがわたしの現実だった。そしてこんなことになった原因もまた「あの夢」だった。

 いつものように重い足取りで帰宅したが、そこにトオルはいなかった。携帯電話に「野暮用でしばらく実家に帰る」という素っ気ないメールが届いていた。わたしもまた素っ気なく「了解」とだけ返信した。


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