第16話 指先に残るもの

"恋人ごっこ"。

 この言葉が何度も頭の中で反芻される。

 桜ちゃん、と名前で呼ばれたその時からずっと胸の奥が落ち着かなくて。佐倉さんの声を思い出すたびに小さく跳ねる。


「桜ちゃん、次どこ行く?」

「…あ、うーん」


 渥美さん。そう呼ばれないだけでいつもと違う特別感に溺れる。まだ慣れなくてちょっと恥ずかしいけど少しも嫌じゃない。むしろ、すっごく嬉しい。


「じゃあ流れるプール行く?」

「……うんいいと思う。でも、人たくさんいる…」

「だいじょーぶ。流れに乗ろ」


 当たり前だけど、って言おうとした言葉に佐倉さんがそう被せてきて私の手をぎゅっと握り直す。

 にこって笑うその顔を見たら私も自然と握り返していた。


 "恋人ごっこ"だから。

 今日はそれっぽいことをしてもいい。むしろするべきだよね――そう自分自身に言い訳して佐倉さんの隣を歩く。

 隣を見てると当たり前だけど佐倉さんの水着が視界に入る。普段から気を遣ってるんだろうな、って伺える白さを維持した肌を直接見るのはまだ全然慣れなくて未だにいけないことをしてる気分になる。けど目線を外したい訳ではない。


 プールの水際まで来ると水面は太陽の光できらきらと輝いていた。風が吹くたびに水面が揺れて今が夏なんだと改めて実感する。


「冷たそうだね」

「うん。……あ、あのさ」

「んー?」

「つ、椿さん先に入ってくれる?」

「全然いいけど…、体調悪かったりする?」

「……プール久しぶりでちょっと怖くて…」

「…可愛いなぁ」


 先に入ってくれた佐倉さんの手を取ってプールに入る。少し深くて足がつくか心配だったけどギリギリ着いたから少し安心する。

 というか今更思った。

 浮き輪があるじゃんって。久しぶりすぎて全然頭になかったけれど。


 流れに乗ると自然と体が寄っていく。肩が触れるたびどっちからともなく小さく笑う。でも笑うたびに視線が絡まりそうになって息が詰まって。


「桜ちゃん」

「……どうしたの?」

「結構流れあるね」


 うん、って言おうとしたときバランスを崩したのかふらっとなってしまった。

 転んじゃうな、なんて思ってたら腰の近くにそっと触れる。それはすごく優しい手つきで。


「大丈夫?」

 

 腰に添えられた手が水の冷たさを忘れるほどに暖かい。

 普段触れることのない場所に佐倉さんの手が触れている。そのことに1人照れてしまう。佐倉さんは全くそんなこと思ってもいないと思うけれど。


「……だいじょうぶ。ありがと」

「ん、ならよかった」


 そう言って笑う佐倉さんの顔は当たり前だけど水で少し濡れていて。光に反射してきらきらと照り映える。

 あまりにも綺麗なものだから息をするのを忘れそうになる。


 流れがまた私たちを押して自然と手と手が触れる。お互いの手を求めて指先を確かめ合う。

 少し躊躇いがちに指先が少し絡んで少しの隙間もなくなって。

 この繋ぎ方の名前を知っていて、どういう関係性だからするのかも知っている。

 そして私たちの関係性の名前はそういうものではないということも。

 佐倉さんは何も言ってこない。

 私も、言えない。

 言いたくなかった。


 何周かした時には手の温もりはすっかりと馴染んでいた。

 水の中でもしっかりと感じる佐倉さんの温もりが心までもを覆ってくるように。


「…桜ちゃん」

「ん?」

「手、離したくないなって思っちゃった」


 笑いながら言うものだから冗談のように聞こえるけれどその声は一つも冗談っぽさを感じない。

 返す言葉が喉を出ようとしては溶けてなくなる。

 でも離したくないのは私も同じで。だからそのまま何も言わずに繋いでいた。


♦︎


 恋人ごっこのことがあったからか、プールから出たあとの着替えとかのことは気にしてる暇もなかった。

 手にはまだ温もりが残っていて、その時のことを思い出すと少し気恥ずかしくて無意識に佐倉さんと距離をとってしまう。


「ねぇ桜ちゃん。なんか飲み物でも買う?」

「うん」


 自分の右手を見る。自由にしてるその様子を見てはなんだか物寂しくて。心のどこかでまだ求めてる。

 名前で呼ばれること、呼ぶこと。右手を包んでくれるもの。そのどれもが"ごっこ"だってわかっているのにわかりたくない。もう少し甘い夢に溺れていたい。私のどこかがそう叫んでる。


 自販機の前で佐倉さんが振り返る。

 光に透ける髪が濡れて少しだけ頰に張り付いていた。

 そのまま口を開く。


「ねぇ桜ちゃ――」


 一拍の沈黙。

 佐倉さんの瞳がかすかに揺れた。


「……渥美さん、カルピスでいい?」


 胸の奥が小さく鳴って。

 "恋人ごっこ"が終わった音がした。


「…うん。ありがとう」


 そう言う声が震えてしまわないようにいつも以上に笑みを浮かべる。

 それでもきっとどこかぎこちない。

 髪が長いからまとめたお団子がやけに重たく感じる。


 受け取ったカルピスが冷たくて重たかった。

 キャップを開けた音が心にちくりと刺さる――普段はなんとも思わないというのに。


 バスの中は昼よりもずっと静かで。

 行きと同じように隣同士で座っているのに聞こえるのはバスの動く音。


「帰ったら寝ちゃいそう」

「…私も」


 それだけの会話でバスのエンジンの音が残りを埋める。

 バスを降りた後もさっきと別に変わりはなかった。

 隣を見ると佐倉さんがカルピスを両手で持って歩いている。

 指が白くて、細くて。

 私の手を包んでいたその指が、今はただ無言でそのプラスチックを掴んでいる。


 私の空いている右手を少しだけ、伸ばしたくなる。

 "恋人ごっこ"のエンドロールなんて見たくない。今すぐに続きを演じたくなる。

 でもそうしたら超えてはいけない何かを超えてしまう、そんな気がして――足が止まった。


「桜……」


 一瞬、また呼んでくれるのかと思った。

 でもそう容易く叶うはずもなくて。


「渥美さん、私あっちだから。…その、気をつけてね」

「…うん」


 "恋人ごっこ"は今日で終わり。最初に2人で決めたこと。

 でも降りてくる幕に抗いたくなる自分が、今日はまだ終わってないんだと言い訳する自分がいて。


「今日すっごく楽しかった。えと…、またね」

「…私も楽しかった。うん、またね」


 佐倉さんを見送りながら手を振る。だんだんと遠く小さくなっていてその笑顔までも見えなくなる。

 私は小さく息を吸い込んで帰路に着く。


 ――また、呼んでほしいな。

 そう思ったことは、誰にも言えないまま。

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