偽善者の椅子

純情残業隊

第1話(ちゃんぬ)

(またこの女だ)


 ほんのり光沢を帯びた濃紺のワンピースが私の前に立った。張りのあるAラインのデザインが、車窓に切り取られた初夏の鮮やかな空を塗りつぶしているかのようだ。

 私は手にしたスマートフォンの画面から目を逸らさない。

 SNSでは大学の同窓生が「2025/5/11 21:37、無事生まれました!」のキャプションと共に、白いタオルに包まれたくしゃくしゃの妖怪みたいな生き物の写真を載せている。

 私は表情筋を動かすことのないまま、ハートのアイコンをタップした。


 私とその両隣に座る、月曜AM7:15の通勤列車に揺られる社会の歯車たちに見せつけるようにして、紺ワンピは薄汚れた白っぽいトートバッグを太ももの前あたりで持ち直した。


 正確には、見せつけたいのはトートバッグではなく――


「あの、席どうぞ」

 右隣、3人掛けシートの車両連結部分に近い席に座っていた、私よりもやや年下に見えるベージュのセットアップの女性が腰を浮かせた。黒い革のバッグからは薄型のノートパソコンが覗いていた。

「えっ、ありがとうございます!すみません」

 わざとらしく驚きの声を上げた紺ワンピが、わざとらしく下腹部を撫で、自分のために空けられた席に心底嬉しそうに腰掛ける。トートバッグについたピンク色のキーホルダーの母子までもがにやりと笑った気がした。


(こいつ、2年前からずーっとお腹ぺたんこのままマタニティマークつけてますよ)

 心の中で告げ口する。

 しかし、もしかしたら本当に何らかの理由で出産に至れないまま、2年間妊娠を繰り返しているのかもしれない。触らぬ神に祟りなし。

 私はスマートフォンをジャケットのポケットに捩じ込んで目を閉じた。


「おはようございます」

香苗かなえさん、おはよう。早いですねえ」

 そう言うさちさんの方が早い。

 株式会社ソウノワの事務員は私たち2人だけである。小さなデザイン事務所のため、経理から営業の補佐、雑用まで幅広くこなさなければならない。

 月末は様々な事務処理が発生するため、いつからか私たちは誰よりも早く出社して仕事を捌くようになった。


 幸さんは会社創業時からの立ち上げメンバーで、その柔らかな物腰と、丁寧で正確な仕事ぶりは尊敬に値する。高校生のお子さんがいるそうだが、髪も爪も細部までいつも綺麗に手入れされている。


 私は、営業の吉澤よしざわさんが2ヶ月分溜め込んでくれた領収書の束を手に取り、エクセルシートに打ち込まれた使途と金額の比較を始めた。大手企業ならもっと便利なシステムでも使っているのかもしれないけれど。でも、早朝のオフィスで黙々と紙を捲っている時間は意外と心地良い。


「お、松本まつもとコンビ揃ってるね」

 しばらくの静寂が快活な声によって破られ、ガラス戸から大貫おおぬき社長が現れた。

 幸さんと私は、同じ松本姓の上、2人して事務職ポジションのため非常に紛らわしい。社員は全員私たちを下の名前で呼ぶ。


「忙しいところ悪いんだけどさ、香苗さんにちょっと頼みがあって」

 大貫社長は有無を言わさぬ口調で告げると、デスクの書類立てから、案内状のように見える紙を1枚取り出した。

 経験上、こういうときは大抵面倒事が降ってくるのだ。

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