第20話 墜落していく言葉たち5
次の日、赤井先輩と委員長の死体が部室から発見された。警察は重要参考人として僕を呼んだ。僕は、学校を燃やすつもりだったが、部屋に委員長が入ってきて襲われ、自分は肩だけ切られてなんとか逃げた。しばらく経って、部屋に戻ると赤井先輩と委員長が二人とも死んでいた。きっと、相打ちしてしまったのだろう。委員長はパナリオンであり、部員たちを皆殺しにしたのも彼女であると証言した。話の辻褄はそこそこ合うものの、二度の殺人事件に居合わせた僕のことを警察は疑い始めた。
尋問から解放されて、僕は教会に戻った。何となく予感がして、真っ先に礼拝堂へと向かった。扉を開くと、礼拝堂の奥に、ひざまずいて祈っている理恵がいた。
ステンドガラスから入ってくる光を仰ぐその後ろ姿は、か細くて、守ってあげたくて、けれど、僕なんかが触ってはいけないと思うほどにきれいだった。この光景を、このまま凍らせてしまいたい。
これから起こる出来事で、全部溶けてしまう前に。
でも、彼女は振り返ってしまう。
「……雪」
僕は大きく、大きく息を吸い込んだ。それで、泣き言も、苦悩も、何もかも飲み込んでしまうんだ。
これから見せる道化の業を、成し遂げるために。
「弥生のお葬式、明後日だって」
理恵の顔は無表情だった。けれど、その静かな声からは、これまで一度も感じたことのない棘を感じた。
僕は何も言わずに、ゆっくりと理恵に向かって歩き出す。
「知ってた? 弥生ね、昔、お姉さんがいたんだ」
理恵の声が震え始めた。それが怒りなのか、悲しみなのか、きっと自分だって分かっていないんだろう。かわいそうなくらい、その顔は困惑していた。
「昔、弥生は万引きしたことがあってね。それがばれて、警察に突き出されそうになったことがあったの。そのときにね、弥生のお姉さんが弥生をかばって、私がやりましたって、そう言ったの。そのまま警察に連れていかれて、その帰り道に……、きっとお姉さんもショックだったんだろうね。前を見ずに歩いていて、自動車にはねられて亡くなったんだって」
理恵の目の前に辿り着いたとき、理恵はようやく自分の感情が悲しみだということに気がついたのか、ぽろぽろと涙をこぼした。
「弥生、自分がお姉さんを殺したって思い込んで。ずっと悔やんでた。今度こそ、絶対にルールを破ったりしないって。学級委員長になって頑張って、それなのに……」
その涙をぬぐってあげたかった。その悲しみを癒してあげたかった。
けれど、今の汚れていて弱い僕の手で、理恵に触れることが恐ろしかった。
拳を握りしめた。歯を食いしばった。
そうして、全身の力を込めて、僕は裏切る覚悟を決めた。
全ては、理恵をこの手で守り抜くために……!
「委員長はね、僕が殺したんだよ」
できるだけ、できるだけ平静を装って、言った。
無防備なほどに、理恵は呆然として僕を見上げた。
理恵の心の一番軟い部分を、この手にとったような感覚がした。
それは、つまり。
僕への、信頼。
「理恵、僕はね、ソフィアなんだ」
そうして、ハルモゼールと呟いて僕は十三本の剣の列を出現させる。十字の剣たちは、僕と理恵の中心を取り巻いて、ぐるぐると回り始める。
理恵は目の前で起こっていることがどういうことなのか、理解できていないようだった。
完全に麻痺してしまった理恵の頭に、石のような言葉を投げ続ける。
「ずっと、ずっと、ずっと僕はね、君を殺そうとしてたんだよ。君を殺して、高校を燃やして、この世界を破壊しようと思ってたんだ。そのチャンスをうかがうために、僕は君に優しいふりをしてずっと君のそばにいた。昨日も、君を殺すには委員長が邪魔だったから、委員長をおびき寄せるためにわざわざ高校を燃やすって宣言したんだ」
肩をすくめて、僕は高笑いする。
「あいつ、馬鹿でさぁ。のこのこやってきやがるんだ。思いっきり、刺し殺してやったよ」
理恵は口を力なく動かして、何か言おうとしている。けれど、言葉は出てこない。その目には、理恵を馬鹿にするかのようにめぐる光の剣の軌道が刻まれている。
「いやぁ、これで邪魔者はいなくなった。ソフィアである僕の使命を果たせる。救世主殺し。世界の崩壊」
唇を歪める。
「なぁ、そうだろう?」
僕は手を天井にかざし、それから振り下ろした。十三本の剣が、一挙に理恵のもとへと舞い下りる。
結局、理恵は逃げることもできないまま、そこに立ち尽くしていた。十三本の剣たちは、理恵の肌を切り裂く寸前で止まって、僕の命令を待っていた。
「逃げることもできないのか」
侮蔑の視線を、理恵によこす。
理恵は目を見開いたまま、ようやく言葉を発することができた。
「せ……、雪? 雪だよね? ねぇ、雪。どうしたの? これは、何なの? 私をずっと殺そうって? 嘘だよね? 雪、言ってくれたよね? あのとき、言ってくれたよね? 私、あのときの言葉を一生の宝物だって思って……」
あのとき、ベッドに横たわった理恵に向かって告げた僕の本心を、理恵はよりどころにしてくれていた。嬉しかった。誇らしかった。
だが、今。
あの言葉を、真っ逆さまに墜落させよう。
「……理恵。これだけは覚えておいてほしい」
理恵の心の一番軟い部分を、握りつぶす。
「君の言葉は、汚い。君の心は、汚い。世界で一番。僕は本当にそう思ってる。お母さんのこと、もっとちゃんと反省したほうがいいよ? どうして、君がのうのうとまだ生きているのか、僕は不思議で仕方がない」
ごりっと鈍い音が聞こえた気がした。理恵の心が僕の言葉で握りつぶされた音。理恵の首がゆっくりと傾いていく。その目は、見開いたままに。鈍い、深い心の痛みが理恵をえぐっているのが、それを自分の言葉が与えている感触が、生々しく、おぞましく伝わった。
「君は汚い。僕はいつだって君を軽蔑し、君を憎んでいる。とにかく、いつだって君を殺したかった」
理恵の目から涙が止まった。瞬きを一つもしないその目は、人形のようにただただ僕だけを見ていた。そのか細い首は、傾いたまま地面に崩れてもげてしまいそうだった。もちろん、僕は指一本理恵に触れていない。それなのに、言葉だけで、これほどまで。
理恵が僕を心の底から信頼していたのが、手に取るように分かった。
その理恵の心が壊れていくのが、手に取るように分かった。
全身から後悔の念が突き上げてきた。さっきの言葉を、今から放つ言葉を、全部飲み込んでしまいたかった。全部飲み込んで、彼女の心の痛みも飲み込んで、この体を地面奥深くに埋めてしまいたい。
だが、メフレグの神は見ている。僕が契約した通りのことをするかどうかを。僕は、だから、裏切りを演じ続ける。
「君は僕の敵だ。あの日、僕の魂は君に汚され、それからずっと君を恨んでいた。僕の目は君をにらむために、僕の口は君を罵倒するためにある。この心臓はいつか君の息の根を止めるために動き続ける。君が神様に選ばれたのは、君が誰も救えないからなんだ。君は、神様に馬鹿にされ、もてあそばれているんだよ? 君は選ばれたなんて思い上がっているかもしれないけれど、とんだ勘違いさ。だって、僕がいる。君を恨んでいる僕がいるのだから。だから、だからどうか……」
許してくれ、許してくれ。理恵、僕を許して。体の中のありとあらゆるものを抉り出して、君の前に差し出すよ、それを全部踏みつけてくれていい。
もう、いいんだ。僕なんか、嫌ってくれていい。一思いに、操ってくれよ、もう。その言葉で、ゴスペルで。
人形のように感情が抜け落ちた理恵の口は、それでもあのときと同じ言葉を紡ぎだした。
「雪、大好きだよ……。大好きだよ、雪。大好きだよ、大好きだよ、大好きだよ……」
壊れたオルゴールのように、延々と続くその言葉は、呪いそのものだった。
ごきっと、完全に心が砕けた音がした。涙が僕の目から噴き出した。
ああ、そうか。
僕はぼろぼろこぼれる自分の涙を手の平で受けて、笑った。
さっきから聞こえていた音は、理恵の心が壊れる音だけでなく、僕の心が壊れる音も含まれていたのか。
結局、理恵を刺し殺すことはせずにハルモゼールを全て消して、僕は生きたまま心が壊れてしまった理恵に背を向けた。そして、もう、振り返らない。僕は、メフレグの神との契約通り、理恵の前から姿を消す。
「大好きだよ」
無数の言葉の釘が、僕の背中にいくつも突き刺さって、貫いていった。
最後に、僕は振り返らずに理恵に言った。
「殺そう、殺そうとして、ようやく気がついたよ」
ごきゃっ。
自分の心と、理恵の心を、その破片すらも同時に踏み砕く錯覚を覚えた。
「お前には、殺す価値もないんだよ」
その肉体に一切触れることはしていないし、その肉体を一切傷つけることはしていないのに、理恵をこの手で守り抜くための裏切りなのに、理恵をこの手で殺してしまったような気がしてならなかった。
僕はどんどん理恵から離れていく。
ただ、肉体が無事でも心が壊れてしまった理恵は僕の背中にその言葉を浴びせ続けた。
「大好きだよ」
礼拝堂を出ると、ネブロが僕を待っていた。
「よぉ、ブラザー。調子はどうだ?」
にやにやしているネブロを無視して、ぶれる視界の中で前に進む。自分がどこに向かおうとしているのかも分からない。ただ、一刻も早く、ここから、生きたまま心が壊れた理恵から、離れたかった。
「結局は、バッドエンドか。クールじゃないねぇ」
ネブロの声が耳を打つ。その声の軽さに、僕は自分の感情が沸騰するのを感じた。
「うるせぇんだよ!!」
悲しみ、混乱、絶望が全部一丸となって、ネブロに向かった。本当に殺してやろうかとその胸ぐらにつかみかかった。
ネブロは笑いながら、冷めた目で僕を見下ろした。
「がっかりだぜ、ブラザー。お前には。お前、今にも死にそうな顔してるけれど、だったらどうしてあのとき、羽田弥生を殺しちまったんだ、ああ?」
ネブロはこちらの胸ぐらをつかみ返して、僕を投げ飛ばした。地面の硬い感触が、全身に行き渡って、呻いた。
「赤井凜は殺すことができた。それで、須々木理恵に対する脅威はだいぶ減ったじゃねぇか。須々木理恵の安全保障を考えるなら、別にあのままお前が羽田弥生にキルされちまっても良かったんじゃねぇの? 救世主自体がモンスターみたいな能力持っていて、その上強力な護衛者までもついていれば、かなりの確率で無事は保障されるだろうよ。まぁ、それでも俺にはかなわねぇかもしれねぇけど」
ネブロは唾を吐いて、屈みこむ。
「お前は望んだんだよ、お前が生きて、自分で須々木理恵を守ることを。独占欲のままにな。なら、笑えよ、受け止めろよ、お前自身の行動の結果をよぉ」
僕は歯を食いしばって、言いたい放題の外人をにらみ上げた。
このくそ外人が、分かったような口を利きやがって。お前に、僕と理恵の何が分かるっていうんだ。僕の気持ちが、覚悟が、後悔が、絶望が。
言おうとして、やめた。
このくそ外人、言っていることは間違っていない。
だから、反論はしない。その代わり、言葉の銃弾を撃ち返してやろう。
「で、お前は笑えてんのか? 恋人を殺して」
ネブロは、そこで寂しく笑った。
「ご覧の通りだぜ、ブラザー」
馬鹿だ、こいつは。
でも、僕も人のことは言えないだろう。
「もう一度、聞くぜ、ブラザー。調子はどうだ?」
ネブロがにやにやしながら聞いてくる。笑おうとして、唇が震えて、涙が溢れた。鼻水まで出てきそうになって、ぐしゃぐしゃのままに僕は言った。
「最高だぜ、ブラザー」
この手で理恵を守り、この手で理恵を壊した。それでも、まだ、同じ世界で、同じ空気を彼女と吸えている。それは、やはり、僕にとって幸福なことだった。
おぞましいほどのエゴが、僕の本性で、それ以外何もなかった。
やがて、やがて、僕は裁かれる日が来るのだろう。
ネブロが大笑いする。
「お前にとっちゃ、神様でさえもこのドエスでドエムなラブストーリーの脇役にしかなりやしないんだから、おもしれぇ。そうやってぼろぼろになるまで戦って、どうしようもなくなったら」
中指を立ててべっと舌を出す。
「俺が救ってやるよ、救世主もろともな」
なんとなく分かってた。こいつは、それをやりたいがために、僕の味方をしているのだということを。
理恵に危害を加えるというなら、いつかはこいつも殺さないといけないことになるのだろう。
それでも今は、涙をぬぐって、僕も中指を立てる。
「やってみせろよ、くそやろう」
ネブロが満足げに笑ってから、言った。
「で、これからどうするんだ?」
僕は礼拝堂の上にかざされた十字架を見上げた。いつか、いつの日か、あの十字に身を貫かれたとしても、その格好で笑ってやろう。
「神様でもぶっ殺しに行こうか?」
それから。
僕は礼さんにばれないようにこっそりと自分の部屋に入って、荷物をまとめた。もうここにはいられない。神とそう契約したから。色々なことが思い出されて、涙が出そうになった。けれど、こらえる。自分のエゴで生き残って、理恵を壊してしまった。僕はもう、泣くことはしない、泣いて痛みを発散させるような権利は、持ち合わせていない。
せめて、と思い、理恵と礼さんと三人で映った写真だけ、胸ポケットの中に入れた。
そのまま、スマホを手にとって、電話をかける。
四度目のコールで、彼女が出た。
「もしもし?」
「明菜。今、大丈夫?」
「うん……、大丈夫だけど……、雪君こそ、大丈夫なの? その……」
「大丈夫だよ」
「え?」
「僕なら大丈夫だ」
「……そっか、なら良かった。心配したんだよ」
「ありがとう」
「ううん、いいのよ。雪君が無事ならそれで……」
「明菜」
「え?」
「これから、駆け落ちでもしないか?」
「は?」
「駆け落ちしよう。どっか遠くの街に行こう」
「……どうしたの、急に?」
「どうでもいいだろう。なんか、そんな気分なんだ。一緒にどっか遠くに行こうよ」
「…………」
「明菜?」
「いいよ」
「……そうか」
「うん」
「ありがとう」
「いいよ、雪君が望むなら」
「……君は、本当に良い彼女だね」
「そう言っていただけると光栄です」
「ははは」
「で、雪君。今、どこにいるの?」
「教会だよ」
「そっか。すぐに出る?」
「いや、もう少し時間かかるかな」
「何かするの?」
「うん、祈るんだ」
「祈る?」
「そう、祈るんだよ」
「何を?」
「いや、大したことじゃないんだよ。ただ」
「ただ、理恵が幸せになれますようにって」
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