第38話:玉座の間
静寂が、大廊下を支配していた。
先ほどまで、この世の終わりのような咆哮を上げていた肉塊の怪物は、跡形もなく消え去っている。
後に残されたのは、血だまりの中に横たわる聖女と、その傍らに佇む、黒曜石の鎧を纏った、異形の王。
ギデオンは、動けなかった。
彼だけではない。彼が率いる、歴戦の異端審問官たちもまた、金縛りにあったかのように、その場に立ち尽くしていた。
恐怖。
神の秩序を信じ、自らの命さえも、天秤にかけることを厭わない彼らが、今、初めて、その魂の芯から、恐怖を感じていた。
目の前に立つ、あの存在は、もはや、彼らの知る、どんな異端のカテゴリーにも、当てはまらなかった。
あれは、死を超え、憎しみを超え、そして、人の理さえも、超えてしまった、何か。
あれは、神か、悪魔か。
俺は、ギデオンたちに、一瞥もくれなかった。
彼らは、もはや、俺の敵ですらなかった。
ただの、風景の一部。
俺は、そっと、膝をつくと、セレスティアの体を、再び、腕に、抱き上げた。
彼女の呼吸は、浅く、弱々しい。肩の傷から、絶えず、命が、流れ出している。
「……ア……レン……?」
薄っすらと、開かれた、彼女の瞳が、俺の顔――角の生えた、骸骨の顔を、捉えた。
その瞳に、恐怖の色はなかった。
ただ、懐かしい、誰かに会えたような、安堵の色が、浮かんでいた。
「……ああ……。やっと……思い出して……くれたのですね……」
「……ああ」
俺は、答えた。
魂で、直接、響かせる、声で。
「……遅くなって、すまなかった、セレス」
「……いいえ……。嬉しい……。もう一度、貴方の……声が……聞けて……」
彼女の瞼が、ゆっくりと、閉じられていく。
まずい。このままでは、彼女は、死ぬ。
俺は、自らの、骨の指先を、見た。
俺は、死の王。
生命を、奪うことはできても、与えることは、できない。
蘇らせることはできても、それは、アンデッドという、偽りの生でしかない。
俺には、彼女を、救う術が、ない。
「―――ククク……ハハハハハハ!」
その時、大廊下の奥、玉座の間の扉の向こうから、甲高い、狂ったような、笑い声が、響き渡った。
「―――見事だ! 見事だぞ、アレン・ウォーカー!」
ギギギ……と、重い音を立てて、玉座の間の、巨大な扉が、開かれていく。
その、向こう。
玉座に、深く、腰掛けていたのは、宰相オルティスだった。
だが、その姿は、もはや、人間のそれではなかった。
彼の背中からは、蝙蝠のような、禍々しい翼が生え、その肌は、青黒く、変色している。
瞳は、爬虫類のように、縦に裂け、その額には、三本の、山羊のような角が、突き出していた。
魔族。
彼は、自らの儀式によって、魔族の力を、その身に、取り込んでいたのだ。
「―――その姿! その力! それこそが、私の、長年の、夢だった!」
オルティスは、玉座から、ゆっくりと、立ち上がった。
「―――人間という、脆弱な器を捨て、より高次の存在へと、至る! それこそが、進化! それこそが、救済!」
「―――貴様は、私の、最高傑作だ! アレン・ウォーカー!」
その言葉に、俺の中の、静かな怒りが、再び、燃え上がった。
こいつは、まだ、分かっていない。
自分が、何をしたのか。
どれだけの、命を、誇りを、弄んだのか。
「……オルティス」
俺の、静かな声が、響く。
「……貴様の、理想郷とやらは、どうやら、完成しなかったらしいな」
俺は、腕の中の、セレスティアを、見下ろした。
「……ここに、まだ、温かい血を流す、人間が、一人、残っている」
「―――ああ、聖女様か」
オルティスは、心底、つまらなそうに、言った。
「―――予定では、貴様に殺され、悲劇のヒロインとなるはずだったのだがな。……まあ、いい。貴様を殺した後、彼女も、私の、新しい国民の、一人に加えてやろう」
その、言葉が、最後の一線だった。
俺は、セレスティアの体を、そっと、駆けつけたジェラール卿に、預けた。
老騎士は、涙を流しながら、彼女の名を、呼んでいる。
俺は、一人、玉座の間へと、歩みを進めた。
ソウル・エッジが、再び、その手に、現れる。
「―――来るか、我が息子よ!」
オルティスは、両腕を広げ、歓喜の表情を、浮かべた。
「―――良い! 良いぞ! その力、存分に、この父に、示してみせよ! そして、共に、行こうではないか! 神をも、超える、新しい世界の、頂きへ!」
俺は、何も、答えなかった。
ただ、剣を、構える。
こいつは、もはや、言葉の通じる相手ではない。
ただ、断ち切るべき、狂気の、塊だ。
俺の背後で、ギデオンが、震える声で、呟いたのが、聞こえた。
「……あれは……。あれは、もはや、人間ではない……。神が、許したもう、存在では、ない……」
「……全審問官に、告ぐ。……これより、我々は、神の、代行者となる」
「―――あの、二体の、悪魔を、滅するのだ」
最後の、戦いが、始まる。
玉座の間。
偽りの神を、気取る、道化。
そして、その神に、最も、憎まれた、骸の王。
舞台は、整った。
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