第31話「2018年8月6日①」

 詩乃と梨帆は朝日が登ると同時にその眩しさで目を覚ました。

 部屋に置かれているデジタル時計を確認すると、時刻は八月六日の午前六時。

 詩乃は助かったという安堵感に包まれていた。

 真由が連れ去られて十分後、月が満月になったと同時に、茜色の空は見慣れた暗闇へと変わっていった。水道と電気が復旧し、詩乃たちは数日ぶりのシャワーを浴びて眠ることにした。

 真由が犠牲になったことで知佳が生きているかもしれないという可能性があり、詩乃と梨帆は助けに行こうともしたが、狼がまだ彷徨いているかもしれないし、月の光も届かない夜の森を歩くのは危険だと判断し、朝を待つことにした。

 そうして朝になった。

 詩乃と梨帆は他の部屋を見たが、詩乃と梨帆以外の人間はペンションの中にいなかった。

 つまり、一連の出来事は夢ではなかったのだ。

「詩乃。行こっか」

「うん」

 もう大丈夫だろう。詩乃たちはそう思って槍は持たず、遺品を入れる用のリュックに水を入れてペンションを発った。

 神社に続くボロい木の階段を踏み締めながら上っていく。久しぶりに浴びる日差しに汗が噴き出す。森の中でこだまするセミの鳴き声は相変わらず耳障りだった。そうして階段を上っていくこと五分、石造りの鳥居をくぐって境内へと着いた。

「ここに来ればみんながいるかもしれないと思ったけど、いないんだね」と梨帆が呟く。

「……うん。探そう」

 警察に助けを求める前に遺品を探しておこうという話になり、詩乃と梨帆は神社を訪れることにした。これで自分たちの罪が消えたり、背負う十字架が軽くなるわけでもないが、気持ちの整理と残された家族のためというのが理由だ。

 しかし、やっぱり境内の中は相変わらず服の布切れ一つ残ってはいなかった。拝殿の中も覗いたが、昨日よりもシミの場所が増えただけで、何も残ってはいなかった。

「ちょっと詩乃来てもらえる?」

 拝殿の後ろに回る梨帆に付いていくと、納屋の扉に血だと思われる赤黒い手形があった。

「この先の木にも同じように手形があるんだ」

 梨帆が指差す先には草木が一部剥げている獣道があった。

「行ってみる?」

「うん」

 獣道に入ってみると、拝殿の裏で見つけたような誰かの痕跡はなかったが、そのまま平坦に続く道なりを進むことにした。

「何あれ、小屋?」

 そう呟いた詩乃の視線の先には、ベニヤ板とトタンで囲われた小屋がぽつんと少し開かれた場所に建っていた。相当築年数が経っているのか、拝殿のように天井や壁には穴が空いているところもあった。しかし、斜面を上るようにして電柱は繋がっていて電気は引けているようだった。

「ここに、いる?」と詩乃が訊く。

「さあ……でも入ってみる価値はあるんじゃない?」

「入ってみるって。梨帆、誰か中に居たらどうすんの」

「それはそれでいいじゃん。事件のとき何をしてたか聞けるんだし」

「まあそうだけど」

「じゃあ決まりね」

 何か嫌な予感はするが、誰かが居ても居なくても手掛かりになるのは確かだった。詩乃は意を決して玄関らしきトタンをノックする。

「誰かいますかー?」

 しかし、中から物音はしない。

 詩乃はもう一度ノックしたが、中の様子に何も変化はなかった。

「開けよっか」

「え?」

 詩乃がぽかんと口を開けている間に梨帆はトタンに付けられた取っ手を引いた。

「お邪魔します」

「ちょっと……もう、梨帆ったら」

 小屋に入る直前、詩乃はきっと物が散らかっていて埃臭いだろう思っていた。だが実際は、ベッドは清潔そうなシーツが敷かれており、ベニヤ板の壁に掛けられていた斧やノコギリは錆一つなく、とりわけ床においては埃一つ見当たらなかった。

 特に何もないけど小綺麗だなと思って小屋の中を見渡していると、梨帆が「詩乃、ちょっと静かに」と言った。

「耳澄ませてみて」

 梨帆の言う通り、黙って耳を澄ませてみると、ブーンと冷蔵庫から聞こえるような音がしている。部屋を見渡してみたが、それらしい電化製品は見当たらない。

 梨帆が床に正座し、土下座をするかのように耳を床に付けた。

「下から聞こえる」

 詩乃も梨帆と同じポーズを取る。すると、確かに下から唸るようにして振動と音が伝わってくる。

 何か手がかりはないかと床を見渡したところ、ベッドの横に床が四角形に枠取られた部分があった。

 詩乃が開けてみると、人一人入れる空間に暗闇が広がっていて、下に行けるように梯子が繋がっていた。

「……これ、行く?」と詩乃は梨帆に訊く。

「行こう。きっと何かあるはず」

 詩乃は仕方ないかと腹を決めた。暗いところが苦手な詩乃は、最初に梨帆に行ってもらい、状況を見てもらうことにした。

「何か危険だと思ったら、すぐ上がってきてね」

「うん。行ってくる」

 穴ぐらはそこまで深いわけではなく、梨帆の姿が見える距離で梨帆は降り立った。

「何かあったー?」と詩乃が声を掛ける。

「白色の扉がある。ちょっと開けてみる」

 上から梨帆が扉を開けると、梨帆の前面が光で照らされた。

「どうー?」

「すっごい寒い。見た感じ……大きな冷凍庫っぽい。ちょっと入ってみるから詩乃も降りてきな」

 詩乃も梯子に足を掛け、ゆっくりと降りていく。

 地面に立つと、目の前には人が入れるくらいの白い扉が地中に埋まっていた。

 詩乃はごくりと唾を飲み、力を入れて重い扉を引いた。

 すると、すぐに目に飛び込んできたのは寒そうに腕を擦る半袖の梨帆の姿と吊るされた鹿の肉塊だった。

「ここは、完全に冷凍室だね」

 奥行きと横が五メートルずつあるその冷凍室は、凍えるほどの冷気に包まれており、鹿と猪が下処理された形で至るところに吊るされていた。

「これ、もしかしたらマスターの小屋なのかもね」と梨帆が言った。

 梨帆の後を追うように奥に行くと、また違う形をした動物が吊るされていた。

 そう。最初は動物だと思った。

「ちょっと待って……これって」と詩乃は言葉を紡ぎ出す。

「詩乃……これ人間だよ」

 足首から吊るされたそれは、他の動物と同じように胸から下腹部にかけて一本の線が入ったように開かれていて、両腕は万歳するかのように垂れており、頭部も付いていた。中には、下腿部の肉が無い人間や、何者かに齧られたように背中が大きく損傷している人間もいた。

 無言で梨帆の後を追うように間を抜けていくと、梨帆が女性と分かる肉塊の前で立ち止まった。

「どうしたの?」

「ねえ、詩乃……これ見て……」

「……水樹。嘘でしょ……」

 梨帆の前には水樹の頭部の付いた肉体が天井から吊るされていた。

「どうして、こんなことに」

「……ねえ詩乃。あれって先輩たちだよね?」と梨帆はテーブルがある方を指差す。

 鹿と猪の頭部が置かれたテーブル。見慣れた動物たちの隣には、同じく見慣れた頭部が並べられていた。

「先生……萌華先輩……結衣子先輩……真由……」

 詩乃は動悸と吐き気がして、膝から地面に崩れ落ち、朝食べた乾パンをテーブルの下に吐き出した。すると視線の先、テーブルの下には様々な部位の肉塊が皮膚の付いた状態で転がっていた。

「しっかり! 詩乃!」

「無理……無理無理無理! こんなの嘘だよ! なんで先輩とかの死体がこんなところにあるのさ!」

「……多分マスターだよ。あの狼が食った後の死体をマスターが回収していたんだよ」

「い、一体、何のために?」

「冷凍させているってことは保存するためだと思う」

 詩乃は昨日拝殿の中を様子見したときのことを思い出す。死体が転がっているかと思いきや、残されたのは血のシミだけで、骨一本も残されていなかったことを。

「昨日神社に行ったとき、死体がなかったのはここに移動されていたから?」

「きっとそう」

 話していく内に段々と動悸と吐き気が収まってきた。深呼吸をしながら周りをもう一度見渡し、ようやく状況を飲み込むことが出来た。ここは肉を保存するための冷凍室であること、人間の死体が吊るされていること、吉原先生、萌華、結衣子、真由については頭部だけが残っていること。

「こう言ったりするのは良くないんだろうけど、どうして水樹だけは身体が残っているんだろう」

 詩乃が疑問を呈した通り、水樹だけは頭からつま先まで完全に肉体が残っている。爪痕のような目立った外傷もない。

「水樹は大怪我したけど逃げられたとか? 逃げたけど出血が酷いんじゃないかな? ほら太ももに傷があるし」

 水樹の太ももを見上げてみると、確かに右の太ももには直径三センチ程度の穴があった。向こう側には貫通していないが、噛まれたというより切り傷に近い傷跡だった。

「水樹と同じように吊るされている人も、水樹と同じような死に方だったのかな?」

「分からない……とりあえず詩乃、すぐにペンションに戻って警察に連絡しよう」

「うん。一応記録のために何枚か写真撮っておこうか」

 詩乃は冷凍室全体の写真、人間の死体が並んで吊るされているところ、四人の頭部がテーブルに置かれているところの写真を撮った。

「よし。行こう」

 詩乃と梨帆は閉じられていた冷凍室の扉を押し開けた。

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