回避の悦びを知った僕は、裂けた世界で刃を振るう。

しまえだ

第1話:回避の悦び

八月十五日、学校にて。




放課後の教室は、午後の光でうっすらと金色に曇っていた。


黒板に残る白い粉は、誰もいない空間で静かに舞い、窓ガラスには薄い指紋の跡が斜めに伸びている。


机の角に乾いた赤い点。朝、口の端を切った時についたものだと分かっている。水で拭いたが、木目の奥に染みて残った。




「女みたいって。そんなの、どうしようもないのに。」




声に出すと、教室の空気はすぐ呑み込んだ。


窓に映る輪郭は細く、まつ毛は影を長く落とす。肩に落ちる髪が風に揺れると、鏡のガラスが一瞬波打ったように見えた。


その像は、からかいの言葉と一緒に耳の奥へ沈んでいく。殴られても、何もできなかった日々。声を上げれば笑いが増えるだけだった。逃げる角度と速さだけが、唯一覚えた武器。




廊下の匂いは洗剤と古紙の混じった匂い。午後の光は、階段の踊り場で橙色に折れ曲がり、屋上へ続く鉄扉の取っ手を白く光らせている。


手をかけた時、足元の床がわずかに震えた。地震ではない。耳の奥がきしむ。鼓膜を見えない指で押されたような感覚が強まる。




空が、鳴る。




鉄扉を押し開ける。熱せられたコンクリートの匂い。空は群青の中腹で裂け、紫の光が糸のようにほつれていた。


時間が薄皮を剝がれるみたいに遅くなる。雲の継ぎ目へ、透明な結晶の雨が集まり、やがて針へと形を変える。




遠くで誰かが叫ぶ。校庭の砂が風に巻き上がり、木の葉が裏を見せる。




――避けて。




声は耳ではなく、胸の内側で鳴った。


身が先に動く。右へひねり、膝を折り、踵で床を滑る。空から落ちる無数の針が、さっきまでいた空間を縫い潰し、遅れてガラスが割れる音が校舎のどこかで重なった。


風が頬を切る。生き残ったという実感より先に、動けた事実だけが血の温度を上げた。




目の前に光の四角が浮かぶ。青白く、紙より薄く、呼吸に合わせて微かに脈動している。




ステータス起動


名前:???


レベル:1


エクストラスキル:〈回避の悦び〉


初期ポイント:10




STR:+3


AGI:+6


END:+1


INT:0




《スキル効果:回避行動時、動作予測補助+時間認識拡張》




思わず息が詰まり、次の瞬間には口角が上がっていた。


「ゲームみたい」


掌は汗ばみ、しかし心拍は一定へ落ち着く。胸の中心が涼しくなり、視界の周縁がはっきりする。




ポケットの重み。親指と人差し指で金属をつまみ出す。折り畳みの小さなナイフ。護身用に買ったものは刃渡りが短く、頼りなく見えるが、指に馴染む重量は正確だ。


爪で背を弾くと、銀の線が開く。光が刃を薄く撫でた。




屋上から見える街は、いつもより少しだけ静かだった。信号機の色は順に消え、交差点の真ん中で車列が止まる。


裂けた空の下、地面には半透明の膜が呼吸している。水面の皮膜に手をそっと当てた時の、あの反発に似た揺らぎだ。




足が動いた。


階段を下り、昇降口を抜ける。踵が響く度に校舎の躯体が低く共鳴する。


校門の鉄がきしみ、外の熱気が顔に絡む。アスファルトの照り返しはまだ夏の背中で、遠くの団地から子どもの泣き声が遅れて届いた。


人の流れは裂け目から遠ざかる向きへと傾き、自分だけがその流れを逆らって歩く。肩がぶつかるたび、汗の匂いが散り、誰かの「だめだ」とか「こっち」とかいう声が脇を掠める。




膜は、意外なほど冷たい。


指先が触れたところから白い波紋が広がり、音が吸い込まれる。


掌で押し、小さく息を吸い、一歩を沈める。




境界を越えた瞬間、世界の温度が反転した。


アスファルトは石畳に変わり、靴底が硬い響きを返す。


風は止み、耳鳴りだけが小さく残る。光は松明の橙色に置き換わり、壁面を揺らす揺光が長い影を引いた。


冷気は乾いた紙のように薄く、鼻腔の奥に鉄の匂い。水ではない、湿り気のない冷たさ。




奥から低い唸り声。


刃を下にして逆手で握り、肘を閉じ、肩を落とす。


足幅を半歩ぶん狭め、重心を土踏まずに落とす。床の目地が指先の感覚みたいに読める。




黒い影が床から剝がれるように飛んだ。


狼の形。肩までの高さは人の胸ほど。目は焦げた金属のように鈍く光り、口角から滴る影は液体ではなく薄い霧に見える。


爪が空気を縦に割く。風の線が頬を掠め、髪がうしろへ流れる。




一撃目。


腰をずらす。右足の親指に力を集め、膝で弧を描く。空間の抜けたあたりを爪の線が通過し、肩の布が一枚だけ剥がれた。


床を滑り、獣の脇へ潜り込む。左掌で石の冷たさを拾い、右の刃で腹を斜めに切り上げる。


硬い手応えのあとに、軽い抵抗。血ではなく光の粒が刃に散る。


反動で肩が流れる前に、踵で床を蹴り、獣の正面から距離を取った。




二撃目。


獣の肩が沈む。目線が半拍ぶん落ちる。次は右から来る。


腰をひねり、爪の軌跡に刃を合わせる。金属と角質が触れ、火花が短く散る。


火花の明滅が自分の瞬きと同期し、視界がさらに澄む。




三撃目。


踏み込み。爪が大きく開き、顎が露わになる。


その爪先を踏み台にして、重力を一瞬だけ外す。


身体が宙で軽く回転する間、右足の甲で顎を蹴り上げた。


音は鈍いのに、衝撃は澄んでいる。骨の輪郭を足の皮膚がなぞり、その形のまま衝撃が脳天に抜けた感触が届く。


獣は壁に叩きつけられ、石が低い音で鳴る。




着地。


踝の内側で衝撃を溶かし、膝で吸収する。


刃は下に。肩は落とし、首は真っ直ぐ。


息を吐く。胸骨がひとつ鳴った。




獣が突進。


床の目地に沿って下へ滑り込み、すれ違いざまに握りを逆手に変える。


肘で顎を叩き抜き、刃を腹へ差し込む。


手首は返さない。線を引くのではなく、点で刺す。


鈍い音。獣の体が宙に浮き、光の粒を撒き散らしながら崩れた。




時間が一段遅く感じる。


崩れ落ちる前に後方へ離脱していた自分の静けさが、少し奇妙で、少し気持ちいい。


指先が微かに震える。震えは恐怖の形をしていない。薄い微熱に似た波が皮膚の下を滑る。




胸の中に笑いが上がる。声にはしない。


刃を拭う必要はない。光は刃先に付着せず、空気へ溶けた。


視界の隅で、青白い四角が点滅する。




ステータス更新


レベル:2(+1)


STR:+4 AGI:+7 END:+2


特性:回避感覚上昇




《条件達成:初戦勝利》


《新スキル候補解放:〈重心制御〉》




胸に手を当てる。鼓動はまだ速いが、乱れてはいない。


呼吸を深くし、床の冷たさを足裏のしわで読む。


指先の小さな擦り傷から血がにじむ。ぬるい熱。生きているという実感は、思っていたより静かだ。




奥の闇が鳴った。


カラン。金属が石の上を転がる乾いた音。


音の先に階段の影が口を開け、下へ続く黒の空洞がこちらを見ている。




刃を畳み、ポケットへ戻す。


足が震えても、止まらない。


恐怖よりも確かめたい欲求が勝ち、膝の裏に薄い汗が滲む。




階段を降りるたび、空気の密度が増す。


松明の光は遠ざかり、足元の水晶が淡く光る。光は水ではないのに流れ、石の粒の間を薄い筋となって進む。


壁には古い傷があり、同じ爪の軌跡が幾層にも重なっている。ここを先に通った生き物たちの図形。刃ではない、骨の音で刻まれた歴史。




低い唸り声。


闇の奥から、翼を持つ獣が三体。背の骨が露出して、翼膜は薄く、蝙蝠のそれに近い。


唇の内側で前歯を軽く噛み、舌の位置を直す。


短剣の柄に汗が滲む。握りは強くない。指の腹で軽く押さえ、手首を自由にしておく。




獣が同時に跳ぶ。


一体目の爪を肩の前で落とし、紙一重でかわす。


腹へ短剣を突き立て、その柄を支点にして身体を回す。刃が抜ける抵抗と回転がひとつに結ばれ、遠心力が二体目への蹴りに移る。


二体目の顎に踵を当てる。打つのではなく、置くように当て、そこへ重さを落とす。


三体目の爪は肘で払う。骨が鳴り、皮膚の下で震動が走る。




姿勢は常に低く、小さく。


獣の動きは大きく、派手だが、その分、空白ができる。


その空白へ、刃の先と体軸の延長線を滑り込ませる。


斬るのではなく、通る。通過点になる。


息は短く、一定。視界の縁で光が瞬き、その度に世界の輪郭が一枚ずつ増える。




連撃が流れになる。


刃の軌跡と足の軌跡が交差し、床の目地と平行に揃う瞬間、目と耳と皮膚の時間が揃った。


光が弾け、影が砕け、石の上に静寂が戻る。




汗が背中を伝って腰のへりで止まり、その滴が布の内側へ吸い込まれる感覚までやけにはっきりしている。


荒い呼吸の音はすぐ消え、心は静かだった。




視界に数字が走る。




レベル:6


STR:+7 AGI:+10 END:+4


新スキル:〈体流〉を習得


《戦闘継続時間の増加/動作連携補正》




音が遠のく。


代わりに、声が近づく。


「もう少しだよ」




懐かしい響き。記憶のどこかに水たまりのように残っていた音の色と似ている。


その一言に導かれて歩く。通路の先は暗く、光のない空間が口を開けていた。




視界がひらく。


そこは巨大な円形の広間。天井も壁も青く透き通り、内部で流れる淡い光が水脈のように行き交う。


中央には鏡のような水面。波はなく、しかし呼吸しているみたいに膨らみ、しぼむ。


水面の上に立つ白い影。輪郭は人の形をしているが、細部が霧に溶けている。




「おかえり」




声は耳で聞こえた。もう胸の奥からではない。


その声の高さと間が、何故かぴたりと馴染む。




「僕の名前を知っているの?」




問いが口から滑り出る。手は刃から離れ、指は力を抜いて垂れている。


影は頷いた。




「もちろん。ずっと呼んでいたから」




空気が震える。


記憶が溢れる。屋上、裂けた空、降る針、頭の中の声。


それよりも昔の、雨の降る放課後、校庭の端で誰かが名前を呼んだ気配。


手を引かれる感覚。指の温度。笑い声の高さ。




――シオン。




胸の奥で何かが弾けた。


光があふれ、世界が止まる。


水面の粒が宙で静止し、松明の炎が布の皺のように折れ曲がったまま動かない。


息だけが出入りし、心臓だけが脈を打つ。外界が薄紙の向こう側へ退いた。




光が開く。




真名認識:天乃詩音


スキル〈無我境域〉を解放




《能力詳細》


身体感覚の完全同調/外界時間制御領域生成/攻防連携強化




光の粒が髪にふれ、皮膚に小さく弾ける。


痛みは遠ざかり、恐怖は輪郭を失う。


空気は澄み、胸の内側にひとつの線が引かれる。そこが自分の中心で、そこから足先へ、指先へ、目の奥へ、静かに光が通る。




白い影が微笑む。


同じ高さ、同じ体の幅、同じ呼吸の間。鏡に映る像に似ているが、鏡ではない。


声が言う。




「これが、君の名」




口が動く。


音が出る。


言葉の重さは羽のように軽く、それでいて背骨を一本通すほどの硬さも持っていた。




「天乃詩音」




名を発した瞬間、世界へ色が戻る。


止まっていた水滴が落ち、炎が揺れ、石が冷たい音を返した。


刃は軽く、足は地に吸いつき、目は遠くまで届く。


呼吸は深く、歩みは静か。心には空き地のような余白ができた。




詩音は短剣を握り直し、刃先を下げる。


目を閉じ、ひとつ頷く。




もう迷わない。


ここから始める。




水面に映る影は、どこか嬉しそうに見えた。


広間の風が静かに巡り、髪を軽く揺らす。それは祝福の拍のようで、遠いどこかの鐘の音にも似ていた。




詩音は一歩、奥へ踏み出した。


名を携え、舞うように。

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