第4話 不満と満足について
「ナポリタンか。
一成は小さく頷いて
「ちょっと昼ご飯食べるタイミングがなくてさ。たまにはここで食べるのもいいかなって」
「そうね、私も今度来たときはケーキじゃなくて軽食でも頼もうかしら。今日はもう食べてきたから…あ、ホットケーキという手もあるか…」
ぶつぶつと言いながらメニューを眺める夏都香。
喫茶店の店員が一成にアメリカンコーヒーを持ってくる。
「すみません、『今日のおすすめ』の紅茶をストレートで。…それとホットケーキを」
店員は夏都香の注文に頷き、一成の皿を下げていった。
一成はコーヒーを一口飲む。
「…
うぐ、と夏都香が声を漏らす。
「わ、私にも別腹はあるから大丈夫だと思うわ」
夏都香は確かめるように自分の腹を撫でた。
「…僕は食べたばかりなんだから協力できないぞ。この余韻を苦痛で上書きされたくない」
「…む、今日は意外と薄情ね浮塚くん」
「何とでも。逆に僕にとっては弐子浦の方が意外だ。昼ご飯食べてきたって言ってたのに、満足できなかったのか?」
「そうね、なんかメニューを見てたら気になってきちゃって。……そうね」
夏都香は一成の顔を見てにやりと笑う。
「“満足”は果たして良いことなのかしら?」
「あー……」
一成はため息のように声を漏らした。
「弐子浦、ちょっと待て。いま僕は昼ご飯を食べたばかりなんだ、余韻に浸らせてくれ。流石にここからフルスロットルで頭を回せる自信がない」
一成の弱音に夏都香はけらけらと笑った。
「大丈夫だいじょーぶ。先に行ってるから浮塚くんはゆっくりついてきなさい。周回遅れでもいいわよ?」
夏都香は人差し指を立ててくるりと回す。
「さて――私は昼ご飯を食べてこの喫茶店にやってきた。“満足”しているのなら更に軽食を頼む必要はないだろう、と浮塚くんは考える」
「…人間が常に合理的に動くわけじゃない。衝動的なことだってあるだろ。別にメニューを見て食べたくなった弐子浦がおかしいわけじゃない。その瞬間“満足”していなかっただけだ」
夏都香は頷く。
「つまり私が“満足”していなかったことが行動原理になったわけ。浮塚くんだって、お腹が空いていたという欲求――“不満”があってナポリタンを食べたんでしょう?」
「不満と言うほど強くはないけどな――ああ、“満足”に対しての“不満”か」
「そもそも『不満』自体はただの状態なのだから、そこまで強い意味はないわよ。その解消方法の一部が暴力的であったり、自己中心的だったりすることがあるからネガティブなイメージで捉えられるだけ」
「“満足”していれば物事は動かない、“不満”こそが動機になり得ると」
「『必要は発明の母』なんていうけれど、個人でも社会でも、“不満”とされていることの解消こそが変化をもたらすのではないか。ならば“満足”とは? 全てに“満足”した人間は次に何をしたらいいのか。完全に“満足”した社会とは?」
一成はアメリカンコーヒーに手を伸ばした。
「ディストピアの世界だな。『あなたは幸福ですか?』ってやつだ。“不満”を抱く人間は排除され、“静謐な社会”がそこにはある」
「そう、“不満”を抱いていることこそ、人間の営みとして健全なのではないかと。満足していることを良いことのように言うけれど、実は逆に考えることもできるでしょう?」
にっこりと笑った夏都香の元に、店員がホットケーキと紅茶を運んできた。
「だからこれは健全な“不満”――うん、いい香り」
夏都香はフォークでバターを塗り、小さなポットで蜂蜜をかけて一口食べる。
「ん~、美味しい♪ たまにはいいわね」
喜ぶ夏都香を、一成は覚めた目で見ていた。
「…弐子浦、なら“満足”がない世界はどうなる?」
ぴたりと夏都香の手が止まる。
「そうね…“不満”に従って変化し続けるでしょうね。例えばディストピア小説だって、それを良しとしない主人公たちが主役になるものでしょ」
続けてホットケーキをほおばった夏都香に、一成は続ける。
「“満足”が良いものでないというのと同様に、変化が必ずしも良いものとは限らない。肥大した欲求が行き着くところは――破滅だ」
紅茶に手を伸ばした夏都香の手が止まる。
「…“不満”がアクセルだとするならば、“満足”はブレーキだと?」
「さっき弐子浦も言っただろ。状態に良いも悪いもない。“不満”と“満足”を正しく意識して、両者のバランスをどう取っていくのかが重要なんだ」
アメリカンコーヒーを飲み干す一成。
夏都香はホットケーキと一成の顔を交互に見る。
「…もしかして、私も破滅に進んでる?」
「もしかしたらな。美味しいものを食べてるときに水を差したくないんだけど、明らかに多いだろ、それ」
ひく、と夏都香は顔を引きつらせた。
「…浮塚くん、二人で破滅しましょう」
「はぁ…すみません、小皿とナイフフォークもらえますか?」
店員に声をかける一成。
その後二人は、“満足”して喫茶店を後にした。
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