無知なる幕は、ウサギの世界を包んでいる。

坂神京平

第1話

 貴重なものは数多あまたあるが、愛情こそが最もとうとい。

 人間は有史以来哲学し、おそらくは初期の段階で、人生における事物の価値を格付けした。

 爾来じらい、愛の価値が真にたっとばれるべきものか否かを、やはり少なくない人々が論じてきたことは間違いないだろう。ある人は賛意を示し、ある人は冷笑し、またある人はそもそもの存在が確実に保証され得るかを問い続けた。

 対象とのあいだで愛情が発露した場合に観察される、真摯さと非合理さ、神秘的な交感、神経伝達物質、あるいはときとして異常な認知のゆがみなどは、知覚可能な限りのあらゆる角度から、長きにわたって検討されている。

 そうして、いまや人類の思索は最終段階まで至り、結局「愛情は真に価値あるものだった」という着地点へ回帰しようとしていた。

 いや、正しくは人類にとって、すでに価値あるものは他にあまり多くない、という方が現実に即しているかもしれない。換言すれば、終局的に残されているもののひとつとして、たぶん愛情を拠り所とすることは致し方ないというのが実情だった。

 それがたとえ、脳細胞の電気的処理に伴う反応で、時空世界における科学現象のひとつにしか過ぎないとしても。


     〇  〇  〇


 耳元でにごりのない声音が、起床時刻を告げる。

 まぶたを開くと、枕元に真っ白な生き物が二本の足で佇立ちょりつしていた。一対の長い耳と、黒い真珠のような目。ふかふかの毛で覆われた身体は、爪先から頭頂部までの丈が四〇センチに足りない。

 我が家で暮らすウサギのうちの一羽だった。これは主に家政を取り仕切るマーチラビット型で、ひと世代前の型式とされている。

 家の主人を起こすため、今朝も設定通りに呼び掛けていたのだ。我が家では計一八羽のウサギが各部屋で働き、居住者の暮らしを世話している。

 ベッドの上で身を起こし、かたわらを見た。

 すぐ隣では、ユミナが裸身を横たえている。まだ瞳を閉じたままで、すうすうとちいさな寝息を立てていた。

 僕は、彼女が目を覚まさないよう、そっとベッドから下りる。

 寝室を出て、リビングを通り抜け、バスルームでシャワーを浴びた。体表の付着物を洗い流し、サニタリールームで肌を乾かす。同じ部屋の壁際には作り付けの棚があって、折り畳まれた衣服が置かれている。別のウサギが用意したものだ。それを手に取り、手早く身に着けていく。


 寝室へ引き返すと、ベッドの上で人影が動いていた。

 ユミナが目を覚ましたのだ。まだ寝床の縁に腰掛けたまま、手の甲で目をこすっている。

 僕は彼女のそばまで歩み寄り、おはようと声を掛けた。ユミナは、まだ少し眠そうな瞳でこちらを見て、甘い微笑を口元に浮かべる。次いで、白くほっそりとした両手を伸ばし、僕の首の後ろへ回してきた。僕は少し身を屈め、ねだられるままにキスを交わす。

「夢をたの。二人が永遠になる世界の夢。ちょっと寂しくて」

 抱擁していると、ユミナが囁く。起き抜けに甘えたくなったようだ。旧時代的感情確認の典型事例を、そうした場合にこの子はしばしばなぞろうとする。古典派だから仕方ないし、僕もそれを嫌っていない。

 ユミナの長く艶やかな髪を、僕はあやすように撫でた。

「このまま解放されてもいいな。君のために消費できると証明したい」

「私だってそう。でもすぐは嫌、二人で一緒がいい。わかるでしょう」

 自然な願望を伝えると、返事を寄越してくる。

「新進派に転身することなら、いつでもできる。それまでは、まだ――ええと、野蛮? そう、野蛮な方法に頼る人間でいたい」

 ユミナは密着していた身体を離し、こちらの顔を覗き込んできた。深くて複雑な光彩を宿す瞳と、視線が重なる。しっとりとして潤った眼差しだ。

 僕はそれを、おそらく動物的直感に従って綺麗だと思った。すでに現代では無価値同然の感覚で、むしろ忌まわしい情動だ。人間は旧時代、遺伝子の塩基配列により形成される蛋白質たんぱくしつの外形を、一般の規定値に近接しているか否か恣意的しいてきに判定し、評価していたらしい。それは数値的な絶対を追求するほど画一化され、無個性化、非ユニーク化の道をたどる劣った価値判断だ。細胞加工技術で最早容易に調整可能な形態には、慈しむべき価値がない。

 だが僕は、ユミナを何より尊い女の子だと考えている。

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