2025年10月13日 11:35
夢の間(あわひ)に~二人の歌人を通じて~への応援コメント
趣意をきちんと汲み取れているかは自信がありませんが。かな文字の功績、それによって生じた世界の可視化については、大いに頷くところです。あと貫之の歌の二例は、私のような素人にも掴みやすくて大変ありがたい。言葉の世界の上だけでのみ成立する――この考えこそが、というよりこの傲慢こそが、精神的危機の要因であるように思えてなりません。言葉とは本来、肉体(自然)と分離して存在できない、いや存在してはならないもののはずなのです。言葉は人間の被造物でなく、与えられたもの。これは個人的な想像ですが、古の人たちはこのことを十分に意識していたのでは、と思うのです。ところが過ぎた玩具を与えられると、アレコレ試してみたくなるのが、どうしようもない人間の性というもの。次第にルール(肉体感覚から離れた表現をしない)から外れることを覚え、最初のうちは楽しいのだけど、次第に収拾がつかなくなり、どうしようと慌てふためくこととなる……こう譬えるといかにも軽いですが、しかし精神的危機というのは、結局のところこういうことなのではないでしょうか。平安期と芥川の時代がともに、所謂「太平の世」であった(賛否はありましょうが)という点も、強く影響しているのでしょうね。言い方は悪いですが、平和な時代だからこそ、地に足のつかないような表現も許される。しかし一度乱世が訪れると、言葉と肉体(自然)の関係が否応なく思い出されることとなる。平安期の歌人も芥川も、きっとある種長閑な時代を享受することに喜びを感じつつも、「こんなことが長続きするはずがない」という焦燥感をも胸に抱き続けていたのではないかと、想像してみたりします。
作者からの返信
まずはお読み頂いて、そして何時も丁寧なコメントを有難う御座います。いや~、今回はグサッと来ました。”言葉の世界の上だけでのみ成立する――この考えこそが、というよりこの傲慢こそが、精神的危機の要因であるように思えてなりません。”思ってもいなかった方向からの鋭い指摘に、思わずアイタタタ……と声が洩れてしまいました。正しく、本文で語られる平安の世の抱える問題の本質を的確に言い当てると同時に、普段より言葉遊びに終始しがちな自分にもこれは刺さる! 素晴らしい指摘であると、思わず喝采を叫びたくなります。「黒龍とお茶を」という、昔読んだ本を思い出しました。永い時を生き、哲学的な袋小路に迷い込んだ黒龍が、”薔薇”という言葉に纏わる様々な概念の中に迷い込み、途方に暮れる中で、主人公の女の人に、”薔薇は薔薇よ。”と告げられ、思わずハッとなる場面があった様に思います。何分昔の事なので……。実に、この黒龍と同じ心情を今回自分も味わいました。同時に、何れ語って見たかったテーマでもある事から、”やられたぁ” との思いで、もう自分の心はボドボドです……。どうしても”書く”という行為は自分一人の考えに終始しがちであるので、こう云った、思わぬ所からの指摘は実に有り難く、刺激的です。これだから書く事を止められない。改めて自分の原点に直面する事になった嬉しさを感じていると云った所でありましょうか、ハァ~、トンカラキンのオットットィ、てなモンですね~。
2025年10月13日 03:26
古今和歌集と紀貫之、凡河内躬恒の短歌を、深く考えたことはなかったかもしれません。或いは何となく感じていて、言語化出来なかったのか。勉強になりました。ありがとうございます。
読んで頂き有難う御座います。以前から漠然と考えていた事が、ここ最近になって形になりそうな気がしたので、勢いのまま書いてみました。意図を汲んで頂き嬉しく思います。
夢の間(あわひ)に~二人の歌人を通じて~への応援コメント
趣意をきちんと汲み取れているかは自信がありませんが。かな文字の功績、それによって生じた世界の可視化については、大いに頷くところです。あと貫之の歌の二例は、私のような素人にも掴みやすくて大変ありがたい。
言葉の世界の上だけでのみ成立する――この考えこそが、というよりこの傲慢こそが、精神的危機の要因であるように思えてなりません。言葉とは本来、肉体(自然)と分離して存在できない、いや存在してはならないもののはずなのです。言葉は人間の被造物でなく、与えられたもの。これは個人的な想像ですが、古の人たちはこのことを十分に意識していたのでは、と思うのです。ところが過ぎた玩具を与えられると、アレコレ試してみたくなるのが、どうしようもない人間の性というもの。次第にルール(肉体感覚から離れた表現をしない)から外れることを覚え、最初のうちは楽しいのだけど、次第に収拾がつかなくなり、どうしようと慌てふためくこととなる……こう譬えるといかにも軽いですが、しかし精神的危機というのは、結局のところこういうことなのではないでしょうか。
平安期と芥川の時代がともに、所謂「太平の世」であった(賛否はありましょうが)という点も、強く影響しているのでしょうね。言い方は悪いですが、平和な時代だからこそ、地に足のつかないような表現も許される。しかし一度乱世が訪れると、言葉と肉体(自然)の関係が否応なく思い出されることとなる。平安期の歌人も芥川も、きっとある種長閑な時代を享受することに喜びを感じつつも、「こんなことが長続きするはずがない」という焦燥感をも胸に抱き続けていたのではないかと、想像してみたりします。
作者からの返信
まずはお読み頂いて、そして何時も丁寧なコメントを有難う御座います。
いや~、今回はグサッと来ました。
”言葉の世界の上だけでのみ成立する――この考えこそが、というよりこの傲慢こそが、精神的危機の要因であるように思えてなりません。”
思ってもいなかった方向からの鋭い指摘に、思わずアイタタタ……と声が洩れてしまいました。正しく、本文で語られる平安の世の抱える問題の本質を的確に言い当てると同時に、普段より言葉遊びに終始しがちな自分にもこれは刺さる! 素晴らしい指摘であると、思わず喝采を叫びたくなります。
「黒龍とお茶を」という、昔読んだ本を思い出しました。永い時を生き、哲学的な袋小路に迷い込んだ黒龍が、”薔薇”という言葉に纏わる様々な概念の中に迷い込み、途方に暮れる中で、主人公の女の人に、”薔薇は薔薇よ。”と告げられ、思わずハッとなる場面があった様に思います。何分昔の事なので……。
実に、この黒龍と同じ心情を今回自分も味わいました。同時に、何れ語って見たかったテーマでもある事から、”やられたぁ” との思いで、もう自分の心はボドボドです……。どうしても”書く”という行為は自分一人の考えに終始しがちであるので、こう云った、思わぬ所からの指摘は実に有り難く、刺激的です。これだから書く事を止められない。改めて自分の原点に直面する事になった嬉しさを感じていると云った所でありましょうか、ハァ~、トンカラキンのオットットィ、てなモンですね~。