第8話 武装天使との訓練①
どうすればルシエルのやる気を削げるだろうか。
そう考えた時に、メタトロンはもはやなりふり構わなくなっている自分に顔をしかめる。
(いや、やる気を削ぐのではなく……あの男の慢心を防がねばならない。少しばかり頭が良いからといって、身の程をわきまえぬようになっては困る。なにしろ新人類のプロトタイプなのだから。謙虚になってもらうために指導をしなければ。つまりプロジェクトのためだ)
その正当化に満足し、すっかり気分が晴れたメタトロンは手元の資料に目を通す。ここにはルシエルの生前の人生データが記録されている。きっと何か弱点が見つかるはずだ。
どうやらルシエルは、自分の勤めている会社でも似たようなプチ改革をしていたようだ。休憩室を使いやすくしたり、マニュアルを改善したり、新しいツールを開発したり――おかげで社員の定着率が高まり、会社の業績も伸びている。
(まるで会社の守護天使だな)
もっとも野心が「0.1」しかないので、役職は主任どまりだったようだ。人生のほとんどの時間をシステム開発や研究に費やしている。そのせいで恋愛経験はなし。これだけ見ると典型的な理系オタクだ。
ところが、実際の印象は違う。コミュニケーション能力が高く、物腰の柔らかな紳士。さぞかし金持ちの家に生まれたのだろうと思ったが、むしろ家は中流のやや下くらい。努力しようと思えばマナー作法や会話力を磨くことは可能だが、なぜあんなに宮廷作法級のエレガントさを身につけようと思ったのか。その動機の方が気になる。
さらに資料をめくっていると、幼少期はいじめられていたという記述を見つける。
(なるほど……昔は理屈っぽくて空気が読めない奴だったのか)
例えば相手が大人だろうと正論を言う、みんなでやっている無駄な作業を一人だけ改善して浮く、些細な矛盾を指摘して場をしらけさせる。いかにも嫌われそうなことを一通りやっている。
それで痛い目に遭って処世術というものを学習したのだろう。あのエレガントさは、自分を守るために身につけた鎧というわけだ。
資料を読み進めると、また意外な記述を見つける。
(趣味でボクシングをやっていた、だと?)
でもライセンスは持っていない。あくまでも趣味だ。もっと紳士らしい格闘技はあっただろうに、なぜボクシングなのだろう。まあ、それはどうでもいいか。
そこでメタトロンは思案する。
なるほど、ボクシング経験があるのか……だが、所詮は素人。
そうだ、武装天使の訓練に参加させるのはどうだろう?
きっとルシエルはある程度、自分の戦闘能力に自信を持っているだろう。素人ボクシングと武装天使の本格的な戦闘術では次元が違う。その現実を思い知らせてやれば、より深く挫折感を味わうはずだ。
――というのは本音で、建前も用意しないといけない。
幸い、メタトロンは巧い理屈を考えておくのは得意だ。それでいつも、自分自身ですら騙しているのだから。
★★★
「武装天使の訓練に参加……ですか」
戸惑ったふりをしながら、私はメタトロンの思惑を考えていた。彼が私の肉体を鍛えたい?
まったく、ありえないな。
「武装天使たちは地獄に派遣され、キャパオーバーで処理しきれない魂の消滅作業を手伝っている。お前にも将来、その仕事を任せるかもしれん」
それに、とメタトロンは付け加える。
「魔法制御に失敗したのは、肉体と精神の連携が不十分だからだ。武装天使たちとの訓練で身体を鍛えれば、魔力制御も向上するかもしれん」
ほう、もっともらしい理屈を考えてきたものだ。メタトロンは私が訓練に耐えられるとは考えていない。見た目は華奢だし、技術者気質だから、いかにも体育会系的な連中とは反りが合わなそうだ。
というより本当に反りが合わない。学生時代の私は運動が嫌いだったが、嫌いなのは効率の悪い体育の授業と、無駄に熱血な先生だと気付いてからは苦手意識がなくなった。
思い返せば、体育の教師にはよくいじめられていたものだ。
まあ、私にも少しくらいは非がある。相手が誰だろうと空気を読まずに正論を言うので、孤立無援だった。
白状しよう――昔の私はクソガキだった。
だが相手を変えることは基本的にできないと悟ったので、自分を変える必要があった――もっと謙虚にならねばと。それでボクシングを始めた。
面白いことに、格闘技を習うとむしろ攻撃性が下がる。自分が倒される可能性を知ると、かえって手を出さなくなるからだ。
おかげで私は「無駄な争いを避ける知恵」を身につけた。私の謙虚さは、拳闘によって作られたわけだ。
さて、武装天使との訓練の件だが……
大歓迎だ。ちょうど肉体も鍛えている最中だった。『
そこで私はメタトロンにこう答えた。
「私などが訓練についていけるかわかりませんが……」
少し間を置いて、私は肩をすくめてみせた。
「何事も挑戦ですからね」
そういうわけで、私は武装天使たちの訓練棟に向かった。
といっても、事務棟と大して変わらない。白い広間には書類の代わりに、光る槍を持った天使たちがあちこちで動き回っている。
まず目に付くのは、1列にずらりと並んだ天使たち。その前を指導役らしき天使が手を後ろに回して、つかつかと歩いている。そしてよく通る声で合図を出す。
「突け!」
「はっ!」
鋭い気合いと共に、槍先が空気を切る音が響く。指導役は注意深く天使たちのフォームを観察し、何かよくない点があると手で間違いを修正している。そして再び構え直し、掛け声とともに同じ動作を繰り返す。
また別の区画では、先端を丸めた練習槍での一対一の対戦が行われている。地上で向かい合う組もあれば、翼を広げて宙に浮かびながら戦う組もある。
空中戦では、天使たちが三次元的に動き回りながら槍を繰り出し、時には急降下して攻撃を仕掛ける。槍と槍がぶつかり合う乾いた音と、翼が風を切る音が訓練棟に響いていた。
さらに別の区画では、投げ槍の練習に励む天使たちがいる。遠方に設置された的を狙い、一定の距離から槍を投擲する。槍が空気を切って飛んでいく音と、的に刺さる鈍い音が断続的に響く。
一方、静かな一角では数人の天使が槍の先端に光魔法を込める練習をしていた。集中した表情で呪文を唱えると、槍先がほのかに光り始める。成功した時は満足げに
そんな訓練風景を見ていると、さすがの私も緊張してくる。彼らは命をかけて地獄の悪魔たちと戦ってきた、歴戦の戦士。
一方、私は平和な日本で暮らし、趣味でボクシングをやってきただけの平凡な男だ。
「お前が新入りか」
すると、教官と思しき天使が声をかけてくる。白地に金の装飾が施された仮面。
そう言えば武装天使たちはみんな仮面を付けていて、顔が見えない。目に穴も空いておらず、顔全体を純白のシンプルな仮面で
おそらく私の上半分を
「はい、よろしくお願いいたします」
そう言って、私は優雅に一礼する。だが、教官は首を横に振った。
「軍隊では敬礼をする。右手を額に当てて背筋を伸ばせ。ここは貴族のサロンではない」
「申し訳ありません」
そう言って私は慌てたように敬礼し直す。
ああ……このやり方には組織運営上の合理性がある。敬礼の本質は「序列の明確化」だ。軍隊のような大きな組織では、誰が指揮権を持っているか瞬時に判断できる必要がある。
もっとも、やりたいかやりたくないかで言えば、やりたくないけれど。
「お前もだ、ケルビー」
「へっ!?」
もちろんケルビーは私の監視役なのでここに付いてきている。突然、教官に声をかけられて彼女は飛び上がった。
「わ、私はただの監視役でしてえ……」
「つべこべ言うな。訓練棟にいる奴はみんな私が鍛えてやる」
「そんなあ」
彼女は泣きながら敬礼している。私の監視役になったばかりに、気の毒なことだ。
「まずは基礎体力を見させてもらう。腕立て伏せ50回、始め!」
「ひいぃ」
私の方はというと、1日に2000回以上はできる。毎日、回数やセット数を段階的に増やしていけば実現可能だ。『プログレッシブ・オーバーロード』――筋トレやスポーツ科学の世界では基本的な考え方である。
でも50回と言われたのでそこまでにしておいた。私がここに来た目的は、自分が地獄でもやっていけるレベルか確かめることと、武装天使たちと交流を深めるためだ。
「ふん、生まれたての『
視線の先を見ると、ケルビーがぐったりとうつ伏せになっている。彼女は3回しか腕立て伏せしてないが、初心者はみんなそんなものだ。むしろ監視役として来たのにいきなり無茶振りされて、きちんとやる真面目さに感心する。
大体、私は根性論には否定的だ。人間には根性も気合いもない。その時の気分や感情に左右される不安定なものに期待するべきではない。やる気の有無に関わらず、どうすれば自然に行動できるようになるか、その仕組みを作ることの方が現実的だし、効果的だと思う。
どうやらこの教官とは馬が合わなそうだが、私は何とか正論を言いたくなるのを堪える。
「日頃から鍛錬はしておりますので」
「貴様の人生データを見たが、前世はボクシングをやっていたそうだな」
「ええ、
「貴様になら模擬戦の相手を務めさせてやってもいい。だが
さっきから、どうしてこの教官は上から目線なのだろう?
軍隊ならこんなものかもしれないが、指導者としては失格だ。本当に優秀な指導者は部下の能力を最大化することが任務だと心得ている。過去の経験を否定して、何の意味があるのだろうか。
「すみません、一つご提案が。模擬戦をするなら……」
怒られるかも知れないな、と思いながらも私は言う。
「槍を使わずに拳で戦わせてください」
「なんだと? 素手での戦いは想定していない。悪魔たちも武器を持っている。時間の無駄だ」
「いえ、拳同士ではなく、相手は槍を持っていてかまいません」
「馬鹿か! リーチの長い方が有利に決まっているだろう。そんなこともわからんとは。知性999というのは
どうでもいいが、「知性999」と口に出すのはやめてほしい。ものすごく頭が悪そうに聞こえる。小学生の考えたステータスみたいだ。
「おっしゃることはごもっともです。ただ、自分の拳がどこまで通用するか見極めたく。これで手も足も出なければ、その時は改めて槍の練習に精を出します」
「なるほど、叩きのめされたいわけだな。いじめられた時にも、それで大人しくなったそうじゃないか」
その発言に、私はとうとう白いマスクの奥で片目をぴくりと
確かに私は舐めたことを言ったかもしれないが、今の実力を測りたいというのは真っ当な動機だ。それなのにプライバシーを無神経に暴露され、挙句の果てに侮辱されるとは。
私は「大人しくなった」のではない。「いじめられて
経験上、こういう
そこで私はにっこりと微笑む。
「ええ、どうやら私はまた
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