第6話 秋風の中で、あなたと
朝の光がカーテンの隙間から差し込んで、テーブルの上のカップをやわらかく照らした。コーヒーの香りが、いつもより少し甘く感じる。
おでこにそっと指を置く。昨日のことを思い出して、思わず頬がゆるんだ。
「お母さん、ちょっと元気になって良かった」
「心配かけたわね」
「……何だか嬉しそう」
「え? まぁ……回復したから」
奈々美にもわかるぐらい私は嬉しそうみたい。
水筒を準備して玄関へ持っていく。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
家の中に静けさが戻る。いつもと同じ朝なのに、景色が一段と明るく見えてきた。
午前中の仕事を無理のないペースで終わらせてから、昼休みに彼にメッセージを送る。
『弦くん、昨日はありがとう。徐々に体調回復中です♪ 弦くんのおかげ。また会ってほしいな』
まるで付き合いたての学生みたいね。
ふっと笑って窓を見ると、彼から返事が来た。
『回復したとのこと、良かったです。凛々子さんが元気になったらまた会いましょう』
たった数行のやり取り。それだけで胸の奥に灯りがともる。画面の向こう側に、私を気づかう誰かがいる――その事実だけで、いつもより心の姿勢がよくなる。
午後の仕事も少しずつこなしていると、奈々美からメッセージが届いた。
『今日委員会あるから少し遅くなるかも。無理してない?』
私を心配してくれた娘。成長したなと思いながら返事を打つ。
『了解。私は大丈夫よ。奈々美も気をつけてね』
母であることと、ひとりの女性であること。どちらかを消さずに、同じ日常に並べて置いていいのだと、ようやく思えるようになっていた。
※※※
月日が流れ、季節は秋になった。
週末、待ち合わせの15分前に家を出る。クローゼットの前で迷って選んだワンピースは、風で裾がやさしく揺れるベージュ。鏡の前で耳元のピアスを軽く押さえ、深呼吸。
銀杏の並木道に風が漂い、 あたたかな金色の景色が見えてくる。角を曲がると、彼が待っていた。白いシャツに薄いネイビーのジャケット。袖口から覗く腕が、陽に透ける。彼は私を見つけて、ほんの少し照れたように笑った。
「弦くんお待たせ」
「行きましょう」
彼と腕を組む。一緒に歩けば落ち葉のカサカサとした音が響いてくる。
「最近、仕事は落ち着きましたか?」
「うん……あの日、助けてもらってから、眠り方が上手になった気がするの」
「それは、良かった」
「背中をポン、の効果もあると思う」
「フフ……俺も時々、思い出します。あの日のこと」
「安心するから……ついあなたに甘えたくなっちゃう」
彼が小さく笑った。並木道の先には、小さな湖のある公園がひろがっている。水面が風に揺れて、ボートに乗る親子が見えた。
「少し座りましょうか」
「うん」
ベンチに腰掛けると、肩先に風が触れた。手の甲が、ふいに彼の指先と当たる。引くのも、握るのも、どちらも惜しくて、そのまま置いておいた。
「こうして凛々子さんと並んでいると、時間がゆっくり流れる」
「うん……心地いいよね」
名前を呼ばれるたびに、紅葉みたいに胸の奥がほんのり色づく。私は彼の横顔を見ながら、穏やかな気持ちになっていた。
「ねえ、あのカフェ、まだあるかな」
「湖畔の角にある店か。行きましょう」
カフェの扉を開けると、珈琲豆と焼きたてのタルトの香りがしてきた。窓際の席に案内され、対面で座る。
「凛々子さん。レモンタルト、半分こしますか?」
「いいね。じゃあ私はカフェオレにする」
運ばれてきたタルトをナイフで2等分にする。彼は私の皿に少しだけ多く乗せた。
「ちょっともう……」
「……つい君のことを甘やかしたくなる」
さっきの言葉を、彼なりに返してきたのだと気づいて、頬が熱くなった。
「高校のとき、レモン味が好きだって言ってましたね」
「覚えてたんだ」
「もちろん。文化祭の帰り、駅前の喫茶店でレモンスカッシュを飲んでました」
「わぁ……細かいところまで」
フォークの先でタルトを割る。レモンの香りがふわりと立って、胸の奥まで明るくなる。
「……ありがとう」
「ん?」
「ずっと覚えていてくれて」
彼は笑って窓の外に視線をやった。通り過ぎる秋の風が木々の葉を揺らしていく。
「この先のこと……ゆっくり決めていけばいいよね」
「そうですね。俺は、今一番幸せです」
「私もそうよ」
彼と目を合わせて笑顔になる。
少しでも2人で一緒に過ごせる日々が、私にとっては一番救われる瞬間だった。
このテーブル、この窓、この光。向かいにいる人の穏やかな声――それだけで、充分だった。
※※※
帰り道、家の近くまで送ってもらった。日が西に傾いて、葉の影が長く伸びている。
「じゃあ、凛々子さん……ここで」
「うん、今日はありがとう」
別れ際、誰も見ていないところで唇を重ねる。
それだけで、胸がいっぱいになる。
家に着いて夕食の準備をしていると、奈々美も帰ってきた。頬が赤くなっている。私と同じようにデートかな……なんて。
「おかえり」
「ただいま、お腹すいたー」
「今日はカレーだよ」
「やった。手、洗ってくる!」
湯気の向こうで、あの湖のきらめきがまだ続いている気がした。
この時間が、ずっと続けばいい――なんて、もう言わない。
続くかどうかじゃなくて、続いている“いま”を、ちゃんと味わいたい。
木漏れ日の午後も、台所の湯気も、娘の「おいしい」の一言も。
私はようやく、“愛されていい自分”を、ほんの少し思い出した。
風が頬をなでるたび、さっき触れ合った彼のぬくもりがやわらかく胸に戻ってくるのだった。
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