38 わかり合おう
――馬の背に揺られて、これがアルヴェインと話せる最後の機会だ、と覚悟し、なんなら泣きそうになっていた私だったが。
そう思っていたのに。
思っていたというのに。
なんと違った。
お父さまは私が思う以上に
――無事に屋敷に送り届けられたあと、私は怒られた。
そりゃもうめちゃくちゃ怒られた。
人生でかつてないほど、すごくすごく怒られた。
お父さまに怒られ、お母さまに怒られ、家令に怒られ、執事のバートに怒られ、侍女従僕の皆さんから泣かれた。
ハンナは無事だった。
それは本当に良かった。
まあ、とにかく叱責の嵐があって、私は外出禁止が言い渡された。
あれ? それでいいの? 修道院送りじゃないの?
と、きょとんとしていたらそれが顔に出た。
お父さまは苦虫を嚙み潰したような顔をしていた。
「当家に醜聞は無用だ」
「…………」
「もはや真実の愛などどうでもいい。このままおまえはイヴンアローの若造に嫁がせるしかない」
「…………え」
予想外にも程がある。
いや、駄目でしょう。
お父さまの頭の中では、アルヴェインはこの大騒ぎを知らないことになっているのかもしれないが、実際のところ私を見つけてくれたのはアルヴェインなんだよ。
――そういえばあいつ、私を送り届けてくれたとき、屋敷の手前で従僕に交代してたな……。
なんでだろうと思っていたら、お父さまから依頼があって動いていたわけではなかったからか。
ていうか、だったらどうして私の家出を知っていたんだ?
怪訝に思っていると、後日種明かしがあった。
「僕がお伝えしました」
と白状したのは従僕のアーチーである。
なんでも、私が消えたことがわかって、もしやアルヴェインのところに向かったのでは? という疑惑があったから訪ねてしまったんだとか。マジか……。
私は悶絶した。
まさかこんな展開になるとは思わなかった。
アルヴェインは今頃どう思っているんだろう。
これじゃ、私が何が何でもあいつと結婚したくて家出したみたいじゃん。
お父さまに、「そのご判断はどうかと思う」と何度も進言したが、本気で怒られただけだった。
いやあの、わかるよ、令嬢を修道院に入れたとあれば、あれこれ噂されるもんね。
でもさすがに、これ幸いと私をアルヴェインに押しつけるのはどうかと思います……!
というようなことを言っていると、家令に呆れ返った語調で指摘された。
「今後、お嬢さまに幸いにも別の縁談が舞い込んだとして」
舞い込むこともあるでしょうよ、ドーンベル家の娘だぞ。
そう思って喧嘩腰に家令を睨むと、家令は溜息。
「その方に、此度のことが知れれば、どうなります。縁談は白紙に戻され、人の口に戸は立てられず噂が出回り……」
なるほどね、その点アルヴェインであれば、熱愛(と、お父さまも家令も思い込んでいる)があるから大丈夫だろうと。
――大丈夫なわけあるかい!
アルヴェインからのお手紙はぴたっと止まっている。
今回の縁談を破談にするお手紙がすぐに届くかと思っていたのに。
沈黙が逆に怖すぎる……。
こちらから言い訳のお手紙を書こうかと思ったが、筆が乗らなかった。
何をどうしたためればいいのか、皆目わからなかったのだ。
蝋燭を通じて話す例の魔法も、何をどう話せばいいのか全くわからないので断念。
ジョナサンさんへのお詫びのお手紙にはそれはもう筆が乗った。
が、そっちを書いているうちに、アルヴェインの、あの冷ややかに激昂した眼差しを思い出してしまい、一回吐いた。
改めて、この状況をとくと考えてみる。
このまま何もなければ――なければ――
りんごん、と脳裏で鐘が鳴る。
教会の荘厳な鐘である。
そして祝福の紙吹雪の中で立つ新郎新婦の私とアルヴェインを思い浮かべた瞬間、私はもう一回吐いてしまった。
――あいつと結婚するの……? 本当に……?
そう思うとさああっと血の気が引いた。
いや、無理。
あの目つきだよ。
あの瞬間、私への諸々の正の感情が蒸発した目だったじゃん。
無理。
無理やり結婚したところで、白い結婚になるのは目に見えている。
誰も幸せにならない!
――その場の勢いと思いつきで家出を決行した代償がこれである。
つくづく私の得意技は、自分で自分の首を絞めることらしい。
学習しないにも程がある。
こんな自分が大嫌いだ。
外出禁止が解けるのは、七月の最初の週、王太子殿下のご生誕祝賀の舞踏会の、まさにその日だ。
お父さまのご命令では、そこで私はアルヴェインのパートナーとして出席し、「真実の愛はありました!」と宣言して婚約を固めるように、と。
――もう臆病風に吹かれている場合ではない。
ここしかない。
その夜にアルヴェインに会って、謝って、あいつの望むようにするしかない。
私が今度こそ矢面に立って、修道院送りになってでも、あいつを救ってやるべきなのだ。
◇◇◇
とうとうやってきた王太子殿下のご生誕祝賀の舞踏会の夜。
王宮に向かう馬車の中で、お父さまは口酸っぱく、今夜の私がとるべき行動について言い聞かせてくる。
なんだかこの春先の、私の社交界デビューの夜を思い出す。
あのときはイヴンアロー侯爵の悪口に余念がなかったお父さま。
まさか数箇月後、自分の娘に「あそこの子息を捕まえて結婚しろ」と言い聞かせることになるとは思っていなかったでしょうね……。
春から今に至るまでの、私自身の間抜けな自業自得の連鎖を思い返しているうちに、馬車は王宮に辿り着いた。
明るく灯された照明に目が眩む。
大理石と黄金と水晶で飾り立てられた大広間に進み、私は大きく深呼吸。
今ばかりは、色とりどりに着飾った、他の招待客の貴族たちのことも、薄らぼんやりした影のようにしか見えない。
今夜ばかりは、他から際立つほどに明瞭に見えるのは、アルヴェイン以外にあり得ない。
アルヴェインは様になった正装で、迷わず私に歩み寄ってきてダンスに誘った。
私はあれこれが内心に留めておけないほどに溢れ返り、相当に強張った表情を見せてしまっているというのに、アルヴェインはごく自然な笑顔である。
卒なくお父さまにも挨拶をして、お父さまからの含み増し増しの「娘を頼む」という返答を受け取っている。
斯くして連れ出されたダンススペース。
周囲からの視線を感じるが、もうどうでもいい。
蝋燭の光を弾く大広間の黄金の装飾に、現実感が削ぎ落とされていく。
私が見ているのは、アルヴェインの、何を考えているのかよくわからない白皙の横顔だけ。
私が感じているのは、私の手を取るアルヴェインの大きな掌と、腰に添えられているもう片方の手、そしてすぐそばにある肩と胸の輪郭だけ。
アルヴェインのそばにいられるのは今夜が最後かもしれなくて、「話がしたい」と言い出せば、この時間も終わってしまうわけだけれど、もう腹を括るべきだ。
私は彼とわかり合うべきだ。
二曲目が終わったところで、私は背伸びしてアルヴェインに囁く。
「――話がしたい」
アルヴェインは葡萄色の瞳を瞬かせて、私を見下ろした。
目が合って、彼の瞳には私の、強張った真剣な表情が映り込んでいる。
アルヴェインは数秒のあいだ黙り込み、それから黙ったまま頷くと、私の手を取って、ダンスの輪から私を連れ出した。
連れ出された先は広いバルコニーだ。
大広間からの明かりも足元までしか届かない、欄干のそばまで連れられる。
今の私たちは、社交界の話題を浚っている二人組だ。
なんらかの遠慮が働いたのか、バルコニーをちらちらと眺める人はあれ、足を踏み出してくる人はいない。
完全に二人きり。
欄干に肘を預け、アルヴェインは私を横目で見下ろす。
何かを警戒するような眼差し。
何を警戒しているんだろう――私が結婚を迫ると思っているんだろうか。
「――話って?」
いざとなると私は口籠ってしまう。
どこから話せばいいのかわからない。
だが、のんびりしている時間はない。
息を吸い込んで、緊張で塞がりそうになる喉から前置きを絞り出した。
「……すごく言い難いんだけど、」
アルヴェインが眉を寄せる。
彼が腕を組んだ。
「なに」
冷ややかな声音に怯みつつ、私はもごもごと。
「……お父さまは、このまま私とおまえを結婚させるつもり、らしい」
アルヴェインが溜息を吐いた。
感情の色がわからない溜息。
私の胃がしくしくと痛み始める。
「だろうな。やっぱりわかっていなかったか」
あ、おわかりでした?
一瞬間抜けな顔を晒してしまった。
が、慌てて表情を改める。
「お父さまは、このあいだの――私の脱走について、おまえが知らないと思っているんだ。だからだ」
「ああ、うん」
アルヴェインがまた溜息を吐いて、私に向き直った。
「フィオレアナ。何を言いたいかは大体わかった。――今現在、おまえの将来の道は二つに限定されている。俺と結婚するか、修道院に入るかだ。その話だろう。
おまえがどちらを選んだか、これから拝聴した方がいいのかな」
厳密にいうと、ちょっと違う。
私はアルヴェインから目を逸らした。
「……いや、じゃなくて……」
アルヴェインが怪訝そうに首を傾げる。
「フィオレアナ?」
「おまえの意見どおりにするよ」
私は呟いた。
勇気を持ってアルヴェインに目を戻す。彼は驚いたように目を瞠っていた。
「え?」
「だから、おまえの言う通りにするよ。――いや、さすがに私も今回は馬鹿だったなと思ってるし、後始末をおまえに押しつけるのは……なんというか、あんまりだから、おまえがどっちを指示するかは予想できるけど」
アルヴェインが何か言おうとして、口を噤む。
長い付き合いではあるが、今は彼が何を言おうとしたのかはわからなかった。
勇気が尽きた私は、またアルヴェインから目を逸らす。
楽団が奏でる音楽が、夏の夜気を伝って聞こえてくる。
暖かい風が吹く。
私は息を吸い込んだ。
「ただ、その……言っておきたいことが……言わなきゃいけないことがあって……」
アルヴェインも息を吸い込んだ。
にわかに緊張したようだった。
「――なんだ?」
「その……」
言葉に詰まる。
どうしよう、百年以上生きてきたけど、この状況は初めてだ。
声も言葉も喉に詰まる。
どこかで虫が鳴いている。
夜空は広い。
眩暈がしそう。
私はぎゅっと目を瞑った。
両手を拳に握り締め、なんとか声を押し出す。
「私は……」
ばくばくと心臓が鳴っている。
それを意地で押さえつけ、私は囁いた。
「……今さら遅いと思うけど、――私は、おまえが好きなんだ」
アルヴェインが、ぽかんと口を開けた。
◇◇◇
――概ね、俺の狙いどおりに事は進んでいた。
フィオレアナは無事に見つかり、彼女を屋敷に送り届け、注意してドーンベル伯回りの噂に耳を傾けていたが、令嬢が修道院送りになったという話は聞かない。
勝った。
ドーンベル伯は、令嬢を俺にくれるつもりだ。
勝利を確信しつつ、俺はかなり落ち込んでもいた。
――仕方ないだろう、フィオレアナが親元を脱走するほど、俺との結婚を嫌がっているのだ。
俺が海辺でフィオレアナを発見したときの、あいつの驚倒した顔は、なかなか忘れられそうにない。
あいつが男と一緒にいたことで逆上した俺も悪いが、暫定とはいえ婚約者の俺から逃げ出して他の男の家に上がり込み、「帰りたくない」などと抜かしたらしいあいつに、俺は相当頭にきていた。
正直、相乗りであいつを屋敷に送り届けている間、俺は十回くらい、「このまま誘拐してしまえ」という誘惑と戦っていた。
それっぽい言い訳をつけてあいつをイヴンアロー邸に引っ張り込んでしまえば、既成事実の完成だ。
俺から逃げ出したくせに、なんかこう妙に可愛らしく素直に、俺に抱き着いてきたあいつも悪い。
理性ががりがり削られた道中だったが、間一髪で朝日が昇ってくれた。
俺はなけなしの理性に諭されて、なんとかあいつを屋敷に送り届けてやることが出来たのだ。
――斯くして今夜は、王太子殿下の生誕祝賀の舞踏会。
ここでフィオレアナが俺の予想を超える大暴走をかまさない限り、俺たちの婚約は確定する。
会場に到着するや否や、俺はすぐさまあいつを捜した。
とにかく目の届くところにあいつを確保しておいて、何かやらかそうとしたら止めるしかない。
やり方が汚いのはわかっているが、とにかくフィオレアナのそばにいたかった。
ドーンベル伯は苦虫を噛み潰したような顔ではあったが、「娘を頼む」と俺に言ってくださった。
この人は俺の味方だ。
当のフィオレアナ本人は、俺がダンスに誘っても嫌がらなかった。
これにはかなりほっとした。
こいつが以前から画策していた大喧嘩を、ここでおっ始められたら目も当てられない。
とはいえ、フィオレアナは上の空で、何かを思い詰めている風もあり、俺としてはひやひやした。
「――話がしたい」
そう言われたとき、俺が真っ先に考えたことは、「マジかよ」だった。
大人しくしててくれ、頼むから。
とはいえ応じざるを得ない。
内心でどれだけ腹黒いことを考えていようが、俺はたぶん、正面切ってフィオレアナにお願いされたことは断れない。
惚れた弱みだ。
フィオレアナが悲しそうにしているところを見たくないと思ってしまうのだ。
「――話って?」
バルコニーで二人きりになり、警戒しながら俺は切り出した。
フィオレアナは何やら苦悶の表情。
それが、これから男を振る表情なのかどうかの判断はつきかねた。
「……すごく言い難いんだけど、」
……どうやら振られるっぽい。
「なに」
思わず声音も冷ややかになる。
フィオレアナはもごもごと言い出した。
「……お父さまは、このまま私とおまえを結婚させるつもり、らしい」
溜息が出てしまった。
なんだよ、そっちかよ。
というか、
「だろうな。やっぱりわかっていなかったか」
家出を画策する時点で、自分の将来が限られることには気づいておけよ。
フィオレアナは一瞬、「わかってたの?」みたいな顔をしたあとで、慌てたように言葉を重ねてきた。
「お父さまは、このあいだの――私の脱走について、おまえが知らないと思っているんだ。だからだ」
「ああ、うん」
溜息が止まらない。
まだるっこしい。
振るならさっさと振ってほしい。
俺にだって考えがある。
「フィオレアナ。何を言いたいかは大体わかった。――今現在、おまえの将来の道は二つに限定されている。俺と結婚するか、修道院に入るかだ。その話だろう。
おまえがどちらを選んだか、これから拝聴した方がいいのかな」
「……いや、じゃなくて……」
え?
今夜、俺は初めて驚いた。
「フィオレアナ?」
「おまえの意見どおりにするよ」
空耳かと思った。
「え?」
聞き返すと、フィオレアナは神妙な表情。
「だから、おまえの言う通りにするよ。――いや、さすがに私も今回は馬鹿だったなと思ってるし、後始末をおまえに押しつけるのは……なんというか、あんまりだから、おまえがどっちを指示するかは予想できるけど」
――か……鴨が葱を背負ってきた……?
まさかの大逆転すぎる。
マジか。
フィオレアナ、反省しているとは思ったが、反省余ってここまで振り切ったか。
「じゃあ結婚だ」と言いかけて口を噤む。落ち着け、俺。
もうちょっと雰囲気というものを。
ちょっと気になるのは、こいつがなぜか、俺が修道院行きを命じると思っていそうなところだ。
――なんでだ? まさか俺の告白を忘れた?
混乱して立ち尽くしていると、フィオレアナが息を吸い込んだ。
「ただ、その……言っておきたいことが……言わなきゃいけないことがあって……」
俺も息を吸い込んだ。
にわかに緊張してきた。
言わなきゃいけないこと?
なんだ、不吉すぎる。
もしやあの海辺のあばら家での問答は虚言か。
まさか手を出されていたのか。
だとしたらあの男、今からでも八つ裂きにして殺してくれる。
「――なんだ?」
「その……」
フィオレアナがぎゅっと目を瞑る。
両手を拳に握り締め、如何にも何かの覚悟を決めている風情。
俺は気が気ではない。
なんだ。何を言われるんだ。
「私は……」
フィオレアナが囁く。
「……今さら遅いと思うけど、――私は、おまえが好きなんだ」
…………はい?
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