27 薔薇を見て平気だなんて言わないで
「あ――アルヴェイン……」
どきどきする胸を押さえる私。
びっくりした……。
アルヴェインは気怠そうに壁から離れて、私に歩み寄ってきた。
別に悪いことはしていないのだが、なんとなく落ち着かず、きょろきょろ周囲を窺ってしまう私。
アルヴェインはそんな私の前に立った。
観念して、私はアルヴェインの顔を見上げる。
直に会うのは――それこそ野外演奏会ぶりか。
豪雨の中での指先越しのキスを思い出して、空気を読まない私の心臓が急に気合を入れて打ち始めた。
落ち着け私。
「ええっと……どうした?」
思わず素の口調で尋ねてしまう。
周囲からちらちらと視線を感じるが、声が聞こえるほど近くには誰もいない。
アルヴェインは溜息を吐く。様になった正装だ。
「日頃から俺と仲の悪い令息たちがバルコニーに行ったなと思っていたら、おまえがのこのこそちらに向かった。気にしない方が無理だろう」
日頃から仲悪かったんかい。
「えっ、仲が悪いの、珍しいな。おまえ、誰とでも仲良くするのに」
「いや、大学で揉めたことがあって……。
それはいいんだよ。で、おまえもすぐに引き返して来るだろうと思ったら、なぜか殴り込みに行くし」
だってアルヴェインを悪く言われたんだもん。
「おまえのことだから大事には至らないだろうと思っても、気にはなるだろう。
――庇ってくれてありがとう」
ふっ、と微笑まれて、私は凍りつく。
きっ――聞かれてたのか……。
ふらっとよろけそうになりつつ、私はなんとか立ち直った。
アルヴェインは面白そうというかなんというか、なんとも言えない優しげな目で私を見て、唐突に私の手からグラスを取り上げた。
給仕を手招きしてそのグラスを手渡し、今度は私の手を取る。
私の心臓が突如、びくっと跳ねた。
「そういえば、踊ったことはなかったな」
そうだっけ。どうだっけ。
頭の中が妙にふわふわしていてわからない。
「俺の名誉を守ってくれてありがとう、フィオレアナ嬢。お礼に一曲」
軽く膝を折ってダンスに誘われ、私はこくんと頷いた。
ダンススペースに連れ出され、くるくる回る私のドレスの裾が翻る。
こうしてそばに寄ってみると、ああ確かに、アルヴェインからは上品な薔薇の香りがする。
なんでだよ。
なんでおまえは薔薇の香りが平気なんだよ。
私は、薔薇の香りなんて嫌いだ。
――ああ、薔薇の季節がきてしまったのだ。
ダンスの最中、アルヴェインが話し掛けてくれたのに、私がぼんやりしたり訊き返したりで会話が成立しなかった。
アルヴェインは心配そうな表情になって、一曲目が終わると同時に私をダンスの輪の中から連れ出した。
給仕を呼びつけて水を貰ってくれながら、眉を寄せた憂い顔。
「大丈夫か? さっきは何を飲んでいた? 酔ったかな」
水を飲み、壁際のソファに座った私は首を振る。
「大丈夫。酔ってるわけじゃない。大丈夫、ぼんやりしてただけ。
久しぶりの夜会だから」
「無理していないか」
「してないよ」
アルヴェインも私のそばに腰掛けた。
しばらくそうしていると、アルヴェインに気づいた人が声を掛けてくる。
曰く、大学の先輩、父の遠縁、母の遠縁、先日の夜会で知り合った人――、などなど結構たくさん。
「――おまえ、知り合い多いな」
他人が近づいてくると、私は素早く猫を被るのだが、人が離れたタイミングでそう囁いてしまった。
アルヴェインは首を傾げる。
「そうか?」
いつの時代も、こいつは人付き合いが上手い。きらきらしている。
羨ましい限り。
こういう夜会も、そういえばこいつは結構好きなんだった。
私はそっと促した。
「私についていなくていいんだぞ。他の人とも喋って来い。踊って来い」
アルヴェインは眉を寄せる。
「邪魔か」
「それはないけど」
「ではそばにいる」
「…………」
落ち着かないな。
あれ、おかしいな。
こいつは私が唯一素を見せられる、落ち着く相手のはずなのにな。
水をぐいぐい飲み切ってしまって、私は立ち上がろうとした。
途端、それに気づいたアルヴェインに素早く手を取られ、ぎょっとしてしまう。
「どうした?」
「いや……風に当たろうかと」
「わかった、一緒に行く」
えぇ……。
困り切った私はしかし、そのとき天啓のように、本来の私のエスコート、従兄のダニエルを発見した。
あっちはあっちで、「そういえば今日はフィオレアナの面倒を見ないといけないんだった」と思い出して、私を捜していたらしい。
遠目に視線が合って、ぱああっと揃って顔を輝かせてしまう。
私の表情の変化に目敏く気づき、アルヴェインが訝しげにした。
「……どうした?」
「連れがいたんだ。もう大丈夫」
こっちこっち、とダニエルを手招く。
ダニエルも、大慌てで人波を縫ってこちらに近づいて来る。
アルヴェインはアルヴェインで、私が手招きした方角を、不機嫌そうに凝視している。
「連れ? どいつ?」
「えーっと、今こっちに向かってる――」
私が説明を終える前に、ダニエルが声の聞こえる範囲に来た。
ごめんごめんと手振りで示しながら駆け寄ってくる。
私を見失ったことに気づいて、実はけっこう慌てていたと見える。
クラバットがちょっと歪んでいるので、手を伸ばして直してやる。
途端、隣のアルヴェインから怨念じみた波動を感じ、私はびびった。
ダニエルはもっとびびった顔をした。
見上げた先で、アルヴェインはにっこり笑顔。
だが、わかる――私にはわかる。
これはこいつが本気で怒る一歩手前の表情。
私は大慌てで言った。
「アルヴェインさま、こちらはダニエル・パライヴァどの。モールド男爵のご令息です」
ダニエルが大きく目を見開く。
アルヴェイン、と聞いて、ようやく目の前のアルヴェインがイヴンアロー侯爵のご子息だと気づいた様子。
大学が被ってたって言ってただろ! 早く気づけよ!
慌てて手を差し出し、ダニエルが卒のなさを突貫工事で整備する。
「ああ、申し遅れました。ダニエル・パライヴァです。連れを見失って困っていたところでして」
アルヴェインも笑顔で握手に応じた。
こっちは本当に卒がない。
思わずダニエルに、ほらな、紳士ってこういうものなんだよ、という目を向けてしまう。
「お会いするのは初めてかな? 俺はアルヴェイン・ルベラス。父はイヴンアロー侯爵です。婚約者が夜風に当たりたいとのことなので同行するところで――。きみがフィオレアナを連れて来てくれたのかな?」
私は思考停止した。
ダニエルが突貫工事で整えた卒のなさを両手の間から取りこぼしながら、こっちを見た。
アルヴェインの目前であるということを忘れ切ったらしい彼が、「こ・ん・や・く・しゃ?」と、唇の形で私に訊いてきた。
私は顔を覆った。
私の仕草を見て、ダニエルも、「これはやばい」と気づいたらしい。
大慌てでアルヴェインに視線を戻し、さすがに彼が不愉快そうに眉を寄せているのを目撃し、にわかに焦った顔をした。
「あっ、いえ、あの――今日は伯父上が、あ、つまりドーンベル伯が、いらっしゃれなかったので。それで従妹を――僕が」
アルヴェインは愛想よく。
「そうだったのか。失礼、フィオレアナ嬢がお一人でいらしたので疑問に思っていたところだ」
言外に、「おまえはどうして連れを放流してるんだ」と責められて、ダニエルが赤くなる。
アルヴェインはそのまま私の方を見た。
「フィオレアナ嬢、よろしければ彼と、帰路の相談をしておいてはいかがか」
「帰路の相談」
「無論、貴女を父上のもとまで送り届ける栄誉を、俺に下さるというならば有難いが――」
「あああっ、僕が送るので!」
「父がびっくりしてしまいます!」
私とダニエル、必死。
ダニエルが一人で帰ったりしたら、モールド男爵は彼を許さないだろう。
大慌てで、「では二時間後、馬車で!」と打ち合わせ終えると同時に、アルヴェインが私の手を取って歩き始めた。
「では、フィオレアナ嬢はしばらくお借りする」
「あっ、ハイ」
黙って見送るダニエル。
その顔面いっぱいに、「どういうこと?」と書いてあった。
「ダニエルがびっくりしてたじゃないか!」
なし崩し的に二人でバルコニーに出て、私は愚痴の口調でアルヴェインに言った。
さっきは無礼な五人衆がいた広いバルコニーだが、今は無人。
欄干まで歩み寄り、肘を欄干に預けて項垂れ、はあ、と息を吐く。
アルヴェインは全く反省した様子も見せず、私の横顔をじっと見ている。
「具合は?」
私は顔を上げた。
「大丈夫だって、ありがとう」
「あいつは誰だ?」
「だから、ダニエル。私の従兄。大学はおまえと一緒だったと言っていたぞ」
「どうして、あの頼りない奴をおまえにつけるなんてことをしたんだ?」
「だから、今日はお父さまは他の予定があるから……」
アルヴェインは溜息を吐いた。
それから、私と同じく欄干に肘を置いて、葡萄色の瞳を細めた横目で私を見る。
「……俺が誘えば良かったかな」
「は?」
「誘ったら、おまえは来たか?」
そりゃあ……。
アルヴェインから誘われて、私が応じるのはいい。
だってその後で、「色んなところにご一緒しましたが、やはり真実の愛はありませんでした」って言えるから。
だから――
「――まあ、来たんじゃない」
呟くように応じると、アルヴェインは唐突に、心底嬉しそうににっこり笑った。
「――――!」
私は大慌てでその顔から視線を逸らした。
危ない、何かが危ない。
心臓が落ち着かない。
そうしてバルコニーから見下ろすと、ちょうど真下に当たる中庭に、見事な薔薇の茂みが整えられているのが見えた。
しかも、色は赤。
嫌なものを見た。
慌てて視線を上げて夜空を見る。
街の明かりがあって、星はぽつぽつとしか見えない。
ぼんやりと星から星へ視線を移しながら、私はぼそっと言った。
「……おまえ、最近変だな」
「やっと気づいたか」
アルヴェインが呆れたようにそう応じた。
私は一瞬それを聞き流し――
「…………!」
すぐに、むせ返るような驚きに目を見開いた。
え、どういうこと。
警戒心がせり上がってきて、私は目を細めてアルヴェインを見遣った。
何かもの言いたげに私を見ている。
私は両手の指をぎゅっと握り合わせて、微笑んでみせた。
「よく寝てよく食べろよ」
アルヴェインは低い声で笑った。こいつの笑い声は風景画に似ている。
「体調は問題ないよ」
欄干に向いていた身体を私の方に向けて、優雅に片肘を欄干に突き、アルヴェインは楽しそうに微笑んだ。こいつの笑顔は音楽に似ている。
「おまえは面白いな。長い付き合いではあるが、まだ俺の知らない面があったんだな」
「――――」
不意を打たれて、私は無言で瞬きした。
――そして次の瞬間、どっと冷や汗。
いや、有り得ない。有り得ない。
また思わせぶりなことを言って、いいようにからかわれているだけだ……。
私が凍りついているのを面白そうに見て、アルヴェインはにやっと笑う。
「そういえば、もう大手を振って一緒に出掛けられると思うが、行きたいところはあるか?」
「いや……」
私は呟く。
どうしよう、視界が暗くなってきそう。
息が足りない。空気が足りない。
「なんだ、つれないな。
――ああそういえば、薔薇の鑑賞会の話をしたこともあったな」
アルヴェインも、眼下に見える薔薇に気づいていたらしい。
彼が首を傾げた。
「一緒に行くか?」
なんでだよ。
なんでおまえは私と薔薇を見て平気なんだよ。
私は息を吸い込む。
眩暈がしそう。
「いや……。薔薇は好きじゃない」
アルヴェインは目を見開いた。
「そうだったか」
「おまえは好きなの?」
尋ねた。
殆ど自傷行為だった。
アルヴェインは首を傾げる。
少し考える風を見せる。
夜風が黒い髪を靡かせている。
「さあ……」
背後から聞こえる、楽団が奏でる管弦楽。夜会のざわめき。
それら全てが遠い。
私にはアルヴェインだけが見えている。
ややあって、アルヴェインは肩を竦めた。
いつもどおりの笑顔で。
「好きも嫌いもないな。考えたこともなかった」
「――――」
私の息が止まる。
――あの子が泣いている。
赤い薔薇に囲まれて。白い髪のあの子。淡い紫色の瞳をしたあの子が。
そして、やがて顔を上げたときの、あの子の笑顔――
本当に、こいつは忘れているんだ。
私は、唐突に欄干が火傷しそうな熱を持ったかのように、ぱっと離れた。
「帰る」
アルヴェインが目を丸くした。そりゃあそうだろう。
「どうした、急に?」
私はもうアルヴェインの顔を見られない。
「なんでもない。帰る」
「おまえの従兄との約束の時間はまだだろう。気分が悪いのか?
なら、俺が送っていこうか――それともおまえの従兄を捜してこようか?」
「いい。馬車で待っているから。ありがとう」
アルヴェインが眉を寄せた。
それから、おずおずとした口調で尋ねてくる。
「……俺が、何かしたか?」
「違うよ」
「フィオレアナ、どうした? こっちを見てくれ。何かしたなら謝罪させてくれ。俺は何をした?」
「違うってば。大丈夫」
追い縋ってきそうな勢いのアルヴェインに、何をどう言えばいいのかわからなくて、端的に告げた。
「――悪い、一人にしてくれ」
「…………」
アルヴェインが足を止めた。
心配そうにしながらも、そう言われては拒否できないという顔をしている。
私は一人で大広間に戻り、大広間を抜けて、車止めで待つダニエルの馬車まで戻った。
アーチーは御者さんとすっかり打ち解けて、何やらコイン投げをして楽しそうに遊んでいたが、私が戻って来てすっかり驚いたようだった。
「お嬢さま、何かありました?」と頻りに訊いてくるので、私は面倒になって、「久しぶりの夜会で人酔いした」とだけ言って、馬車の中で休ませてもらった。
ダニエルの付き人がダニエルを呼びに走ったらしく、間もなくしてダニエルも戻ってきて、「ちょっと早いですけど、帰りましょうか」と言ってくれた。
恐らくダニエルは、帰路で私とアルヴェインのことについて私を質問攻めにするのを、それはそれは楽しみにしていただろう。
だが、私の気分が悪かろうと気を遣ってくれたのか、実際の帰路では、私の体調を思い遣る以外は、彼は一言も喋らなかった。
基本的にはいい子なのである。
ドーンベル邸に戻ったときも、私は「人酔いしました」と気分悪そうに言って、身形を解くや私室で一人にしてもらった。
――今、私は寝台の上でぱっちりと目を開け、恐ろしい可能性に震えている。
最近、アルヴェインは確かに変だった。
マリーゴールドにかこつけて壮絶な科白を吐いたり、やたらと私に会いたがったり、次々手紙を送ってきたり、雨の中でキスしてきたり。
からかわれているんだろうと思っていた。
というか、そうでなければならなかった。
もし仮に、そうでないとすれば――アルヴェインが私に、恋愛的な興味を持っているのであれば。
そんな恐ろしいことはない。
断固としてなかったことにしなくてはならない。
――だって、そうでしょ。
『長い付き合いではあるが、まだ俺の知らない面があったんだな』
そう、今は、まだ。
今はまだ、あいつの知らない私もいる。
だからこそ、あいつは私に興味を持ったのかもしれない。
長い付き合いにも関わらず、見えていなかった一面があったとなれば、好奇心旺盛なあいつのこと、そりゃあ探求心も刺激されるでしょうさ。
でも、困るのだ。
だって、知り尽くされたら?
知り尽くされたら、どうなる。
あいつの興味を引ける部分がなくなったら、どうなる。
そうなったとき、あいつに知り尽くされて飽きられて捨てられて、その上でなお私は、私が呪ってしまったばかりに、今後全ての人生で、あいつと出会っていかなければならない。
――そんなの耐えられない。
――それが、あいつを呪ってしまったゆえに下る罰なのだとしても、その罰だけは受けられない。
だからなかったことにしなければならない。
気づかないことにしなければならない。
そうやって、アルヴェインの熱が飛び去るのを待たなければならない。
臆病すぎる?
なんとでも、謗らば謗れ。
だって私はあいつに忘れられている。
薔薇の花を見てなんとも思わないあいつが、私を覚えてなどいるものか。
所詮私はそんなものなのだ。
きらきらしていて眩しいあいつに、本当なら目を向けてもらえるはずがないのだ。
それに――それに、あいつには過去に恋人がいる。妻がいる。
けれども今になって、アルヴェインが彼女たちのことを思い出しているか?
わからない、少なくとも私はそれを感じたことがない。
けれどもあいつは薄情ではないから、もしかしたら、何度も何度も心の中で彼女たちとの思い出を再訪しているのかもしれない――
――そんなの最悪だ。
いつかあいつの心の中の棚に飾られて、埃を被りっぱなしになる自分――そんなの、想像しただけで胸が悪くなる。
アルヴェインの、過去の恋愛とラベルを貼られたコレクションの一つに加わるのなんて、絶対にごめんだ。
私はあいつのコレクションの一つにはなりたくない。
私はコレクションされたくない。
私は捨てられた女として生きていきたくもない。
ああ、アルヴェイン、頼むから気の迷いだと早く気づいて。
あるいはこれは私の勘違いだと言ってくれ。
最近は上手くやってきたはずだ。
どうかこの関係を壊さないで。
どうか、どうか。
――薔薇の花なんて全て枯れてしまえ。
薔薇の季節なんて終わってしまえ。早く。早く。
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