第8話 大石綾乃

その夜、直行は久しぶりにぐっすり眠った。沙月の顔も、玄光の言葉も、もう頭には浮かばない。ただ、彦兵衛と酌み交わした酒の温かさだけが、胸の奥でじんわりと残っていた。

 ――翌朝。

 重たい体を引きずるように起き上がり、直行はまだ薄暗いうちに教室へ向かった。冷たい朝の空気が肌を刺す。だが、その冷たさが、昨夜の酒気を吹き飛ばしてくれるようでもあった。

 誰もいない教室は、墨と紙の匂いが混ざり合って、静かな落ち着きを漂わせていた。直行はぼんやりとした頭で筆先を洗い、使い古した布で机を拭いた。やがて雑巾を絞る音だけが響き、そのたびに朝の光が少しずつ障子越しに広がっていく。

 しばらくして、戸口ががらりと開き、寝癖頭の清吉がのそりと入ってきた。

「おいおい……お前が一番乗りとはな。どうした、雨でも降るか?」

 大あくびをしながら笑う清吉に、直行は思わず苦笑した。

 しかし、昨日の出来事――北斎の叱責、残された夜、そして己の不甲斐なさ――が脳裏に蘇る。

 酔いも眠気も一瞬で覚め、胸の奥に重たい後悔が沈んだ。

(……しくじったな。まったく、情けねぇ話だ。)

 頭を抱える直行の肩を、清吉は軽く叩きながら笑った。

「たまにはしくじるのも粋ってもんよ。何でもかんでも上手くいっちまったら、気味が悪いし、面白くもねぇだろ?」

 清吉はいつものように歯を見せ、豪快に笑った。

 その無邪気な笑い声が、冷えた空気の中に心地よく響く。直行は腕に顔を埋めたまま、隙間からちらりと清吉の顔を覗いた。いつもなら呆れ半分で苦笑するところだが、今日は不思議と胸に温かいものが灯る。

(……みんな、失敗を恐れてねぇんだな。そうやって笑って、また筆を取るんだ。なんか、かっこいいや。)

 その瞬間、教室の扉が勢いよく開き、葛飾の咳払いが響いた。

「――ほら、さっさと席につけ。」

 重く響く声に、門下生たちは一斉に背筋を伸ばし、筆を構える。

 清吉が「またな」と笑いながら手を振る。その背中が、いつもよりずっと大きく見えた。

 直行はふっと息を吐き、心の中で何かが整っていくのを感じながら、静かに筆を握った。

 その日、彼の筆は驚くほど冴えていた。線には迷いがなく、紙の上を滑るたびに、胸の奥の澱が一つずつほどけていくようだった。

描き終えた絵を見つめる葛飾は、無言で眉をわずかに上げ、ゆっくりと頷いた。言葉はなかったが、その一つの仕草が、直行にとって何よりの褒め言葉だった。

***

 ――それから幾十日が過ぎた頃。

 直行は、巨大な屋敷の門前で立ち尽くしていた。

 黒々とそびえる木戸は、まるで異界への境を示すかのように静まり返っている。両脇には、無表情な門番が二人。鋭い眼差しで直行を射抜く。その視線の重みに、足が自然とすくみ、喉の奥がひどく乾いた。

(……ここで、間違いないのか?)

 今日、彼が訪れたのは筑前国の名門・大石家の屋敷である。

 七万石の譜代大名――格式だけなら誰もが憧れる家柄だが、近頃は藩主の放蕩が噂され、家中の空気は荒れ、内部の秩序も揺らいでいるという。威厳ある門構えは見事でありながら、人の気配が薄い。春の風さえも息を潜めたような静寂の中、どこか張り詰めた冷気が漂っていた。

(筆一本で食うのに精一杯の俺が、こんな場所に踏み込んでいいのか……)

 逡巡するうちに、足取りは沼に沈むように重くなっていく。

だが、迷いの果てに立ち止まるわけにもいかない。門番たちの視線がさらに鋭くなるのを感じ、直行は小さく息を吸い込み、歯を食いしばった。

「――葛飾北斎門下の絵師、池田直行にございます。大石綾乃様より絵の御用命を賜り、参上いたしました。」

 門番は無言で彼を見据える。

 沈黙が長く続き、心臓の鼓動が不規則に高鳴った。頬が引きつり、直行は乾いた笑いを洩らす。

 やがて、一人の門番が短く告げた。

「……お通ししよう。」

 ぎぃ、と軋む音を立てて門が開く。

 直行は胸を撫で下ろし、深呼吸をひとつしてから、ゆっくりと敷居を跨いだ。己の筆が、いま何処へ導かれようとしているのかを確かめるように――。

 通された部屋は、絢爛な装飾に彩られていた。だが、その豪奢さの裏に、言いようのない寂しさが潜んでいる。直行は爪をいじり、足先をもぞもぞと動かしながら、所在なげに視線をさまよわせた。生まれて初めて味わう緊張と不安が、胸の奥でじわじわと渦を巻く。

 そのとき――襖が静かに開く、かすかな音が響いた。

 反射的に顔を上げた直行の瞳に、柔らかな光をまとって現れる女の姿が映る。つややかな黒髪が揺れ、白い肌が淡い陽光を受けて輝いた瞬間、直行の喉がひゅっと鳴り、息が止まった。

「はじめまして、大石綾乃です。」

 直行はこれほどまでに”耽美”という言葉が似合う女を知らなかった。

 艶やかな黒髪はきちんと結い上げられ、控えめな簪とよく合っている。白く滑らかな肌は雪のように透き通り、伏し目がちな瞳と、哀しげな微笑みが直行の胸をつく。沙月は小動物のような愛くるしさを持っているが、目の前の女は「正室」という言葉がしっくりくる、儚げで気高い美しさをまとっていた。

「池田直行と申します。僭越ながら、このたびお目にかかる機会を賜り、恐悦至極に存じます。」

 直行は己の名前をこれほど上擦らせたことはなかった。恥ずかしさから、ただただ額を床につけることで精一杯だった。

「お話は伺っております。貴方が若きながらも、真摯に筆を執る方だと。」

「め、滅相もございませぬ。拙き筆ではございますが、誠心誠意描かせていただきます。」

「それは……随分と頼もしいです。」

 そこから、長い沈黙が続いた。綾乃は涼しげな目で庭の草木を眺めているだけで、直行に目もくれようとはしない。口元には穏やかな笑みを浮かべ、警戒している様子はないものの、直行はどこか馬が合わなさそうに感じた。

(どうせなら玄光さんも連れてくるべきだった。これから、何を話して何を描いていけばいいのやら。そもそも、綾乃様は俺の絵を本当に望んでいるのだろうか。)

 直行は複雑な考えを巡らせると、つい眉間に皺が寄ってしまう。その時、静けさを破るように、綾乃がふっと笑みを零した。

「そんなに難しい顔をなさらなくてもいいのですよ、直行様。」 

 直行ははっとして顔を上げ、照れ臭そうに頭を掻いた。綾乃は微笑みを崩さぬまま視線を床に落とす。

「私も、こんな風に絵師様と向き合うのは初めてです。ですから、お互い様……ですね。」

 直行は思わず目を瞬かせた。大名家の正室が、こんなにも素直な物言いをするとは思わなかったのだ。

「……あの、ひとつお聞きしてもよろしいでしょうか」

「はい?」

「なぜ私に、このような絵のご依頼を? 私はまだ若輩で、はるかに腕の立つ絵師は数多くおられますのに」

 その問いに、綾乃は少しだけ目を細めた。

「私の願いを叶えてくれるのは、格式張った絵師ではなく、心で筆を執る方だと思ったのです。玄光様が、貴方には人の心を動かす絵を描ける才能がある、と仰っていました。」

 直行は「玄光……」と心の中で呟きつつ、背筋を伸ばした。

「私は、もう一度……夫に私を見てほしいのです。そのために、私という女を――春画で見せつけたいのです。」

 その瞳は、淡々としながらもどこか張り詰めていた。

(……なるほど。これは、“勝負”に使う絵ってことか。)

 直行は唾を飲み込んだ。 ただの春画じゃない。誰かを取り戻すための、武器になる絵だ。

(俺に描けるのか……? それも、この美しい奥方を筆の先に映し取るなんて。)

そんな苦悩を見透かしたように、綾乃は言葉を付け加えるように言う。

「貴方が描くというのならば私は何でもいたします。貴方が私の裸を欲するのならば、裸を見せましょう。貴方が肉感を欲するのならば、私は体を許します。」

 直行はポカンと口を開けると、綾乃の言葉を脳内で反芻して耳を赤く染めた。対して、綾乃は恥じらいも、揶揄うような笑みも浮かべず、真剣な眼差しで直行を見つめている。

「何を言っておられるのですか! 綾乃様、お気を確かに!」

 そこへ飛んできたのが、迫力のある形相をした綾乃の女中だった。

「私は真面目に言っております。この身を捧げることで、もう一度あの人の心が戻るのならば、私に迷いはございません。」

  「ですが――」と言いかけた女中の声を、綾乃の鋭い視線が遮った。その一瞬、空気が凍りつく。冷たい光を宿した綾乃の瞳に射抜かれ、女中は息を呑み、慌てて平伏した。そのまま背を丸めて後ずさりし、音も立てずに部屋を後にする。

 静寂が戻ると、綾乃はゆっくりと姿勢を正した。その所作は、怒りを見せぬまま威を保つ者のものだった。直行は、ただ静かに見つめることしかできない。

(この人は、物柔らかに見えて、芯の強い女性だ。)

 そう直行は悟った。

「失礼いたしました。今申し上げた通り、私は本気です。」

 凛とした声が、広間の空気を震わせる。

「綾乃様のお力添え、まことに恐れ入ります。この身に余る光栄――必ずや筆にてお応えいたしまする。」

 直行は深く平伏した。

 その胸には、もはや単なる職務ではない熱が灯っていた。純粋な使命感と、説明のつかない衝動。“この人のために描きたい”――その思いが、胸の奥で静かに燃え上がっていた。

「いつでも屋敷にお越しください。もちろん、この場で筆を取ってくださっても構いません。」

 綾乃はやわらかく微笑んだ。上品なその笑みは、どこか人を試すようでもあり、また包み込むようでもある。直行の鼓動が早まった。その美しさと、懐の深さに、言葉を失いそうになる。

「滅相もございませぬ……」

 そう口では謙遜しながらも、心の奥では――この屋敷で彼女を前に筆を取る自分を、はっきりと想像していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る