第6話 依頼、再び

 日が差し込むというのに、直行の気分は晴れなかった。昨夜はほとんど眠れず、頭の中では沙月の「縁談」という声が何度も反響していた。

(相手は男前の若旦那だ。俺なんかと比べものにならないほど、男としての格が違う。)

 直行はネガティブな思考を繰り返すたびに、心が重くなり、胸の奥がじくじくと疼いた。寺へ向かう足取りは、いつもなら弾んでいたはずなのに、今はまるで鉛を引きずるようだ。いや、行こうとすら思えなかった。

 そのまま、直行は絵の稽古が行われる教室へと向かった。教室に着くと、すでに何人かの門下生たちは筆を走らせていた。

 普段なら直行は真っ先に席に着き、筆を持つのだが、この日はどこか気怠げに腰を下ろし、ぼんやりと机に肘をついていた。

 清吉がそんな彼の様子を見て、片眉を上げる。

「おい、どうしたよ。いきなり落ち武者みてぇなツラしやがって」

 他の門下生たちもちらちらと直行を窺っていた。いつもなら、「今日は予定があるからな」と嬉々として絵を描く彼が、今朝は覇気もなく筆を握る気すらなさそうだった。

 直行は気怠げに息を吐き、肩をすくめる。

「……べつに」

「べつに、じゃねぇだろうが」

 清吉は呆れたように直行の背中をぺしんと叩いた。

「何があったか知らねぇが、今日は試験の日だぜ。しっかり気合い入れねぇと、師匠の雷がドッカンと落ちて、あっしらまとめて炭になっちまうぞ!」

 清吉は頭上に鬼の角を作る素振りを見せ、歯茎を剥き出しにした。

 彼らの教室では、月に一度「絵画試験」が行われる。師が課す題目に従い筆を振るい、その出来栄え次第で居残るかどうかが決まる。ちなみに、直行はこれまで一度もできの悪さで叱責されたことはない。それどころか、門下生の中でも特に高い評価を受けていた。

 直行は、清吉の脅しを「へいへい」と気のない様子で聞き流した。あまりにも素っ気ない態度に、清吉もさすがに呆れ、「まったくよう」とぼやきながら席へ戻っていった。

 しばらくすると、北斎が静かに部屋へ入り、何も言わずに和紙と筆を配り始めた。瞬間、教室内の空気が張り詰める。門下生たちは背筋を正し、誰もが真剣な面持ちになった。

「本日の題目はこれだ」

 短く告げると、門下生たちは無言で紙に向き合う。

「始め」

 その合図と同時に、部屋の中には一斉に筆を走らせる音が響いた。

 直行も筆を取るが、今日はどうにも調子が出ない。いつもなら迷わず進む線が、今日は揺れ、形をなさない。焦るように筆を進めるが、納得のいく形にはならなかった。

 試験が終わるころには、彼の和紙には、まるで魂の抜けたような絵が残されていた。

「なんだこれは!」

 突如、室内に葛飾の怒号が響き渡る。門下生たちがびくりと肩をすくめる中、彼らの師は直行の前に立つと、鋭い目で直行の作品を睨んでいた。

「お前、これが本気で描いたものか?」

 直行の作品を手に取ると、厳しい眼差しを向ける。

「お前の筆には、いつも確かな勢いと迷いのなさがあった。だが、これはどうだ?線は生気を失い、まるで借り物のような筆致だ」

 直行は悔しさを滲ませながら、唇を強く噛みしめた。

「……申し訳ございません」

 葛飾は深く息を吐き、静かに言葉を落とす。

「謝罪を求めているのではない」

 その声音はいつになく低く、冷たい。

 「このままでは、絵師として失格だぞ」

 その一言が、刃のように胸に突き刺さった。

「今日はここに残り、月が昇るまで、自らの絵と向き合え」

 ――満月が天に昇る頃、直行はどんよりとした顔で教室を後にした。

(恋にも破れ、挙げ句には絵師失格か……俺は、もう何者でもないじゃないか。)

 月明かりが道を淡く照らす。長家へ続く通りを歩きながら、直行はふと足を止めた。気づけば、無意識のうちに沙月のいる寺の方へ向かっていた。

(ふん……こんな俺を見たら、清吉はなんて言うだろうな。)

 そう自嘲したその時、前方に黒い影が立ちはだかった。

「……お前さん、ずいぶん沈んだ顔をしているな」

 顔を上げると、そこには玄光の姿があった。白い月光が、僧の落ち着いた眼差しを淡く照らし出している。

 直行は小さく苦笑した。あまりにも白々しい光が、己の情けなさを浮き彫りにするようで、思わず視線を落とす。

 しばらくの沈黙ののち、玄光はゆっくりと口を開いた。

「――お前さんに、絵の依頼が来ておる」

「……え?」

 直行は顔を上げ、思わず息を呑んだ。満月の光に照らされた玄光の穏やかな笑みが、やけに神秘的に見える。

「大名家が春画をお望みじゃ。其方、ぜひ描いてはくれまいか?」

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