第27話 黎明の影と誓いの光

 夜明け前の森。

 霧が流れ、焚き火の煙が細く立ちのぼっていた。

 勇者アレンの一行は、北部国境へと続く荒れた道の途中で、慎重に夜営を張っている。


 火の粉が舞う中、アレンは剣を膝に置き、じっと炎を見つめていた。

 その隣では、リリィが魔力の残量を確かめるように杖を握り締めている。

 背後の岩陰には、カミラが静かに弓を構えたまま夜空を見上げ、ガイアが腕を組み、あくびを噛み殺していて、トレヴァーは聖書を読んでいる。

 

 誰もが疲労していた。

 ――だが、眠れなかった。


 エリアスを失ってから、彼らの心には一つの影が張り付いている。

 “聖女狩り”の密令が下ったとき、全員の世界が一度崩れたのだ。

 それでも、止まるわけにはいかない。彼女は、まだ生きている。


 そのときだった。

 カミラがピクリと耳を動かす。



「……来る。二つの足音。人の歩調。」

 彼女の低い声が空気を裂くように響く。

 

 瞬時にアレンが立ち上がり、剣を構えた。

 リリィが小声で詠唱を開始し、微弱な魔力探知を展開する。

 魔力反応――ある。だが敵意はない。


「アレン、どうする?」

「構えは崩すな。確認だけだ。」


 次の瞬間、炎の光が霧を切り裂いた。

 そこに現れたのは、黒のマントを纏う男と、淡い金糸の髪を揺らす女性。


「……ルシアン・ヴァルグレイ……! それに……王女、セリーヌ殿下!?」


 ガイアが目を見開く。

 ルシアンは、いつもの冷ややかな微笑を浮かべていた。

 その横でセリーヌは、疲れの残る顔に、それでも強い決意を宿していた。


「――久しいな。勇者殿。」


 低く響く声。

 燃えるような赤褐色の瞳、夜を切り裂くような存在感。

 ルシアン・ヴァルグレイ。

 その名だけで空気が緊張する。


 彼の隣に立つのは、王女セリーヌ・アルヴァ・リグレイン。

 その気高さは夜明け前の星のようで、しかし瞳の奥に揺れるのは憂い。


 アレンは剣の柄に手をかけたまま、言葉を探す。


「……ヴァルグレイ侯爵。どういう風の吹き回しだ?」


 ルシアンは一歩前に出て、淡く笑った。


「風向きなど、変わるものだ。……ときに“悪風”も必要だろう。」


 リリィが唇を尖らせる。


「また皮肉ですか? あなたの言葉、半分は煙みたいで掴めない。」


「煙は、火を知らせる。掴めぬ方が都合がいい。」


 そう言って彼は焚き火の前に立つ。

 その姿はまるで炎すら支配するようだった。


 セリーヌが一歩前に出て、穏やかに微笑む。


「ご無沙汰しています、アレン殿。皆さまも。……再びお力を借りに来ました。」


 彼女の声は柔らかいが、その表情には覚悟があった。

 それは“王女”としてではなく、“一人の人間”としての決意の色だった。


 リリィが少し表情を緩める。


「王女様が直接ここまで来るなんて……本当に危険ですよ。」


「承知の上です。」

 セリーヌは静かに言った。

「でも、どうしても伝えなければならないことがありました。」



 焚き火を囲み、全員が腰を下ろす。

 ルシアンは外套の内から一つの金属封印を取り出した。

 紙面に記された印章は、王都教会の公式紋章とクレイモア家の紋章。


「――これを見ろ。王都教会の地下で発見した“祈祷封印”だ。

“暗祈”と呼ばれる儀式の核。その起点は、クレイモア家にある。」


 勇者たちは息を呑む。


「教会……が、関与しているだと……?」

アレンの声は震えていた。


 カミラが目を細める。

「つまり……奴らが“聖女エリアス”を使おうとしている、と。」


「そうだ。」

ルシアンの声は氷のように冷たい。


「彼らは“祈り”を信仰ではなく、“兵器”に変えようとしている。

神を操り、世界の秩序を歪めるためにな。」


「そんな……」 

リリィが呟いた。


「じゃあ、エリアスは……」


「囚われ、そして“鍵”として利用されるでしょう。彼女の祈りが、儀式の核です。」


 その瞬間、場の空気が一変した。

 ガイアが拳を握りしめ、歯を食いしばる。


「なんてことだ……教会まで腐ってたのか。」


 セリーヌがゆっくりと視線を上げる。

 その瞳は震えていたが、決意の光が宿っていた。

 焚き火が弾けた。

 その音だけが静寂を破る。


 セリーヌは両手を組み、わずかに震える声で告げる。


「……父上は、動けません。第2王子――弟が、人質に取られているのです。」


「なに……?」

アレンが息を呑む。


「王宮内での動きは封じられています。王も、私も、何もできない。」

セリーヌの瞳に光が宿る。


「けれど、民を見捨てることはできません。だから、ここに来ました。」


 その言葉に、全員が沈黙した。

 炎がパチリと音を立て、冷たい風が吹き抜ける。


 沈黙の中、アレンが拳を握る。


「……この国は腐っている。だが、俺は見捨てない。

“聖女”も、“王”も、“民”も。誰かが信じなきゃ、終わりだ。」


「理想論だ。」

ルシアンが冷ややかに返す。


「信念は剣を鈍らせる。情に溺れた勇者は、国を滅ぼす。」


 リリィが反発するように身を乗り出す。


「それでもアレンは止まらない。だからあたしも一緒にいる。」


「……ふん。」

ルシアンは短く息を吐く。


「理想に殉じる者がいるのは悪くない。

だが、それを“燃やす影”が必要だ。

――火を灯すための、黒い灰がな。」


アレンが目を細める。

「お前が、その“灰”だとでも言いたいのか。」


「他に誰がいる。」

 ルシアンの瞳が、焚き火の橙と同じ色に光った。

 その奥には冷徹さと、わずかな誇りが混じっていた。


 セリーヌが静かに口を開く。

「ルシアン……冷たいのに、不思議とあなたの言葉には温かさがある。」


 彼は目を逸らさずに返す。


「光がある限り、影もまた現れる。

俺はその影でいい。……誰かが光を守るためにな。」


アレンは深く息を吐いた。

「……ありがとう。これで、戦う理由がはっきりした。」


「感謝は要らん。」

ルシアンが冷たく返す。


「俺はただ、秩序を保つために動くだけだ。 貴様らの“理想”とは違う。」


「理想がなければ戦えない。」

アレンの瞳が揺るぎない光を帯びる。

「俺たちは、誰かのために剣を振るう。」


ルシアンは短く笑う。

「綺麗事だ。だが、そういう炎は――嫌いじゃない。」


 焚き火が弾けた。

 セリーヌが一歩、アレンへと近づく。

 その表情には、王女の仮面ではなく、一人の女性としての光が宿っていた。


「勇者アレン。どうか……聖女を、そしてこの国を救ってください。

 私が今できるのは、あなたを信じることだけです。」


リリィが思わず言葉を詰まらせる。

「王女殿下……」


「セリーヌで構いません。

 立場は違っても、志は同じです。」



 空が白み始めた。霧が薄れ、遠くで鳥が鳴く。

 ルシアンは立ち上がり、外套を翻す。


「行くぞ、殿下。これ以上は滞在できん。 王都の目は、北部にも潜んでいる。」


 セリーヌは一瞬だけ躊躇い――

 だが、決意を込めてアレンを見つめた。


「皆さまの無事を、王国の名において祈ります。

……どうか、この戦いを終わらせてください。」


「必ず。」

アレンの声が短く響いた。


「お前たちは北方修道院へ向かえ。“祈りの残滓”がそこにある。」


 ルシアンは背を向け、霧の中へと進む。

 その足音は静かで、迷いがない。


 アレンが呼び止める。


「ルシアン! お前の狙いは何だ!

クレイモア家を潰すためか、それとも――!」


ルシアンは振り返らずに答えた。

「狙い? そんなものは一つだ。」


 短い沈黙のあと、低く呟く。


「――光がある限り、影もまた現れる。俺はその影でいい。」


 わずかに笑い、彼は振り返らずに言った。


「信じるな。俺を“悪役”にしておけ。そちらの方が都合がいい。」


 焚き火の光が彼の背中を照らす。

 冷たい風が吹き抜けた。


 霧の中へ、ルシアンとセリーヌの影が消えていく。


 アレンは拳を握りしめたまま、東の空を見上げる。

 黎明の光が、薄雲の向こうで滲んでいた。


「……行こう。北方修道院へ。」


リリィがぽつりと呟く。

「まったく、もう。あの冷血侯爵、いちいち格好つけて去るんだから。」


「そういう人だ。」

アレンは微かに笑い、火に手をかざす。

「でも――信じてみても、いい気がする。」


カミラが矢をしまい、静かに呟く。

「……影は光を試す。彼の言葉、間違ってはいません。」


ガイアがうなずき、拳を鳴らした。

「なら、俺たちは光を守る方だな!」


トレヴァーが微笑む。

「はい。皆で――取り戻しましょう。

聖女エリアスも、この国の未来も。」


――そして彼らは歩き出した。

 聖女を救うため、王国の真実を暴くために。

 闇と光の狭間を越えて、再び希望の道を進む。


 霧の果てで、ルシアンが一瞬だけ立ち止まる。

 薄明の中、遠くで勇者たちの声が微かに聞こえた。

 彼はそっと笑い、呟く。


「……ああ。影がある限り、光は消えない。」


 その声を最後に、影の男は森の彼方へと消えていった。

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