Act.19





 強烈な熱と圧力に押しつぶされるような感覚に襲われ、カレンは複製体から意識を取り戻した。

 鎮痛剤を服用する暇もなく、複製体が体験したフィルタリングなしの死と痛みのフィードバックは、本体であるカレンの脳に強烈かつ鮮烈な負荷をかけていた。


「あああぁぁぁ……クソッ! だから嫌なのよ……薬なしで死ぬのは」


 やむを得ない緊急回避とはいえ、たった一度の臨死体験でさえ頭がどうにかなりそうなショックに襲われる。今回は痛みもほとんど一瞬だったからまだいいが、これがもっと持続的なものであったらと思うと、とてもではないが正気を保てる自信はない。


 とはいえ、ダメージと引き換えに一定の成果は得られた。後続の追手が掛かる前に、夜陰に紛れて次の隠れ家に向かう時間を確保することが出来た。正直ここより安全なアジトはこの街にはないため、共同墓地地下を放棄するのはカレンにとってかなりの損失だった。


 残るアジトは市内に三箇所、市外に一箇所。選択肢は大いに越したことはないが、問題は移動だ。今の襲撃から推測するに、現在のメイザースは無菌室さながらの厳戒態勢だ。蟻一匹通ることもままならない網目の中を、単身で移動するのには相当のリスクが伴う。


 術式発動中の本体が行動できないデメリットは、術式の存在が露見しない限りは無視しても問題ないどころか、彼女の秘密を強固に守る利点になりえるが、逆を言えばひとたびその存在が露見してしまえば、本体の行動制限は重大なリスクに変じてしまう諸刃もろはつるぎなのだ。くわえて事前準備の殆どできない状況下では、気軽に囮としても使えない。敵が術式に対してどこまで把握しているのかは不明だが、どのみちここから先の計画を立てるに当たり、術式ありきで作戦を考えるのは事実上不可能だ。


 いや……そもそもなぜこのタイミングでアジトの位置が露見した? 問題はそこだ。

 仮に北方国境地帯で複製体の可能性にデュールたちが気付いたにしても、そこからピンポイントで本体の居場所を突き止められるとは思えない。仮に、万が一アジトの位置を特定したとしても、最初に襲撃をかけてくるのがカルテルの兵隊というのは一体どういうことだ? カルテルはむしろこの機に乗じてシンジケートを潰す方に舵を切るのが自然だし、なによりそれは本国であるFLPEの方針だ。

 もしやカルテルは、イービス・クレイは、本国の意向を無視して独自に動いているとでも言うのか? だとしたらFLPEは何をしているというのか。


「チッ……温室育ちのジジイ共が。こういうときに連中を止められなくて親分ヅラとは笑わせるわね」


 とにかく、今は判断材料が少なすぎる。リスクは負うが、現状を打開するためにも集められるだけの材料は集めなければならない。そのためにもまずは近場のアジトまで移動だ。


 意を決したカレンは地下通路を脱し、えた異臭を放つ下水道から地上へと上がる──彼女はそこで目の当たりにした地上の光景に、言いようのない不安感を覚えた。


「何……これ」


 遠くの方で火事の煙が上がっていた。いや、火事そのものは別段この街では珍しくない。それこそこの街では異教徒を裁くがごとく、来る日も来る日もどこかしらで誰かが家ごと焼き殺されているのが常だ。

 問題は場所だ、ここから確認できる限り、立ち上っている黒煙の数は三箇所。いずれもあれは、


「あ……ああ……」


 カレンの想像を超えた悪夢ファンタジーが、頭の中でめくるめく。

 状況を整理しようにも、そこには整理するまでもなく明らかな現実が厳然としてそにあった。見晴らしの良い場所まで移動し、改めて火事の現場を確かめてみたところで、それは燃やされているのが彼女のアジトであることを決定づけるだけだった。


 ありえない、あり得ない、有り得ない──!

 

 ひたすら脳裏で繰り返される否定の言葉が、眼の前の現実を拒み続ける。もはやどうすればいいのか分からなかった。この時彼女は、初めてメイザースという街の恐ろしさを実感していた。巨大組織の庇護下にいた日には決して味わうことのなかった圧倒的恐怖。頼るものも何も無い、完全な孤立状態でこの魔境に立つことが何を意味するのか、ショートした思考の中で唯一それだけが明確な理解となって彼女の正気を蝕んでいた。今のカレンは、さながら虎の檻に放り込まれた豚も同然だった。


「そうだ……電話……」


 縋り付くような思いで、カレンはカバンの中から携帯を取り出した。FLPEとコンタクトを取るため、わざわざ独立回線を敷いてまで構築したホットライン。盗聴のリスクを限りなく抑えた虎の子だ。

 彼らに今すぐメイザースを攻撃させよう。もはやカルテルなどどうでもいい、解放戦線の本部隊による直接粛清だ。戦争さえ始まれば、事態はカレン一人の問題ではなくなる。全て有耶無耶にした上で、改めて再起を図ればいい。


「…………」


 しかし、電話口から帰ってきたのは無慈悲で無情な不在信号ビジーシグナルの音だけ。

 カレンは何度もコールし直した。それこそ彼女自体が壊れた機械であるかのように、何度も、何度も。しかし何度繰り返したところで、返ってくるのは沈黙という名の現実だけだった。


「ああ……あああぁ…………ああああああああぁぁぁぁぁっ!!」


 膝から崩れ落ちたカレンは屈辱の中で咽び泣いていた。もはや鉄くずも同然に成り果てた携帯を振りかぶり、思い切り地面に叩きつけようとした。だが出来なかった。それをしてしまったら最後、彼女はこの魔の都から自身を守るための最後のよすがすら打ち砕いてしまうことになる。

 それだけは出来ない、それだけは、何があっても。それほどまでに彼女にもたらされたメイザースの恐怖は絶大なものだった。


「逃げなきゃ……」


 絶望と恐怖に根こそぎにされた理性の中で、ただ一つだけ残されたシンプルな答え。

 それがどこかなのか、どこまでなのか、いつまでなのか。もうそんなことはどうでもよかった。

 ただ、逃げるのだ。どこまでもどこまでも、いつまでもいつまでも、逃げて逃げて逃げ続けるだけだ。


 カレンは歩き始めた。風に吹かれる病葉わくらばのように、はねをもがれた蝶のごとき這々ほうほうの体で、行く宛も行き着く先もない、煉獄の闇の中へ。




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