Act.10




 メイザースを出てから半日、仲介人から待機の旨を通達されてから迎えた最初の深夜。シンジケートの情報を手土産にFLPE入りを目論んでいたカレン・ニンフェアは、エルドラのアルカディア国境付近に設置された難民キャンプでの足止めを余儀なくされていた。


 通達があって以降の音沙汰は現在に至るまでなしのつぶて。別段密に連絡を取り合うだけの友誼ゆうぎを結んだ間柄でもないが、解放区を目前にしたこの段階で、唐突に態度を硬化させたFLPE側の反応に違和感を覚えないほど、彼女の頭も迂闊ではない。順当に考えてカルテルから何らかの横槍が入ったと考えるべきだ。


 想定内といえば想定内。が、思っていたよりもメイザース側の動きが早いというのが、彼女の率直な感想だった。


 現在彼女が逗留とうりゅうしているシボラ難民キャンプは、現在も散発的に続く国軍とゲリラの衝突で内情不安を抱えるエルドラ政府からの要請で、アルカディアとレムリアを中心とした多国籍軍によって管理運営がなされているが、現状のカレン同様、先行きの分からない情勢に少しずつ希望が蝕まれた人々の表情が、キャンプ全体に暗澹たる雰囲気をもたらしていた


 そんな混沌の乗じるかのように、レムリアの非政府組織を装った偽装IDでキャンプ入りしたカレンであったが、想像していた以上のキャンプ内外の流入の激しさに難色を示していた。

 

「これじゃあ、どこの誰が刺客なのか分かったものじゃないわね……」


 多国籍軍が目を光らせるキャンプ内であれば、表立ったドンパチが発生することはまずないだろうし、出入りのしやすさに関しても基本的には彼女にとってメリットとなり得る要素ではある。


 しかし逆を言えば、追手に対して彼女が積極的に打って出ることも難しいことを意味し、相手が隠密行動に長けた連中であれば、カレンがとったと同様の手口を使ってキャンプに潜入してくる可能性は十分にある。


 刺客の中にPHNのサイコメトラーであるダンテが含まれていた場合、魔力感知のすべを持たない彼女がその接近を察知するのは事実上不可能だ。


 加えて彼女の心身を苛むのは、険しい山岳地帯に囲まれたエルドラから吹き降ろされてくる冷たく乾いた山風だ。敷地のキャパシティを超えた過密状態のキャンプでは、シェルターなどの設備が慢性的に不足しており、仮設暖炉の周囲で雑魚寝する光景も珍しくはない。


 加えて砂と岩によって構成された地面は、夜間になると急激に冷え込み、骨の芯にまで寒さが浸透してくる。

 比較的平均温度の高い夏季であったのがせめてもの救いだが、越冬期になれば未だに凍死者が続出する過酷な環境は、亜熱帯暮らしに慣れ切ったカレンの心身を削るには十分だった。


 だが、それもあと少しの辛抱だ。シンジケートに入ってからこっち、ひたすら組織に貢献してノウェムのそば付きという地位を得た。地にぬかづき、泥を啜りながらもあの魔女に仕え、彼女に対して抱いてきた憎悪と羨望をひた隠しにしながら、鉄仮面の如き冷徹に表情を凍り付かせ、今日この日のために準備してきたのだ。

 

 それを思えば、この程度の、ただ寒いというだけの苦痛など取るに足らない些事。

 思い出せ、何のためにここまで来たのか。

 富と権力。あのどうしようもない暗黒街において、自らの人生を照らすための唯一の光。鬱屈とした人生に確かな意味を勝ち取るためなら、これしきの寒さ、これしきの苦境、超えられなくて何とする?


「私は手に入れる。あの街の全てを。私の全存在を賭けて……どんな手を使っても」


 たとえ何を踏み台にしようと、たとえ誰を滅ぼそうと。目的のために硫黄の雨を求めるのなら、硫酸の雲を起こすまでだ。


 彼女にとって、全てはそのための踏み台に過ぎず、そこには主義や流儀などといった違いなど存在しない。彼女に取り巻くすべてのしがらみは、等しく彼女を阻むだけの、ただ名前が違うだけの『壁』でしかなかった


 吹き荒れる夜風の中、踊らされるように燃える焚火の火をカレンは睨みつける。

「寒い」などと、決して口にするものかと言わんばかりに、その表情には硬い決意が滲み出ており、不安を前面に貼り付けて震えながら眠る難民たちの、まるで饐えたような雰囲気と比しても異彩を放っていた。


 そうだ。力に踊らされ、ただ救いの手を待つだけのような、こんないじけた連中と私は違う。どんな苦境にあろうと、己の人生は己の手で切り開く。それ以外に救済の道などありはしないのだ。


 これは復讐だ。親に捨てられ、世に捨てられ、全てに捨てられた彼女が、彼女自身の運命に対して行う復讐。力なき過去の自分を粉砕するための、自身の全存在を賭けた復讐だ。


 ──穏やかな夜に身を委ねるな。

 消えゆく光に向かって、怒れ、怒れ。


 どこで覚えた詩だったか、胸の内に抱いたその言葉だけを頼りに、カレン・ニンフェアは焚火の火を睨み続けていた。



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