スワンプマンの贖罪-メイザース・ディストリクト2-

痕野まつり

プロローグ

Act.1




 ─DAY.3─



 雨季の前の暑い夏の、黄昏に暮れる暗黒街。一人の女がモーテルの門をふらりと出て、思い惑うかのようにのろのろと橋の方へと歩いていた。

 蒸した温室のような熱気が、海風に乗ってジワリと纏わりつき、海鳥の鳴く声さえもが胸の内をささくれ立たせる。当て所ない苛つきと焦燥感が喉から潤いを奪い去り、もはや何度目なのかも分からない電話先の不在信号ビジーシグナルが、無情にも鼓膜を揺らし続けていた。


 寄る辺もよすがも絶え果てて、ひたすらの孤独が西日のように心に照り付ける。もはや取り返しのつかない過ちに苛まれながら、女はただ橋の方へと歩き続けた。その道程はまるで、墓標を背負いながら自らが入る墓穴を目指すかのような、一片の希望もない旅路だ。一歩踏み占めるごとに後悔が押し寄せて、涙が滂沱ぼうだと溢れ出てくる。しかしこの局面で、彼女に真に懺悔ざんげの心があったのなら、あるいは彼女に待ち受けていた結末はもっと違っていたのかもしれない。彼女にとっての最大の瑕疵かしは、そう言った後悔のすべてを、次の拍子には他者への怒りに転嫁してしまう無責任さだった。


「あいつのせいだ……あいつの」


 そう、全部──全部あいつのせいなのだ。あいつが、あの男が、シャムロック・ザイドリッツが、あの時余計な真似をしなければこうはならなかった。


 殺してやる──殺してやる──殺してやる──


「殺してやるッ! 使いっ走りのクソデュールが!」


 湿った空の彼方に、女の魂を切るような叫びがこだますら残さず消えていく。

 しかしそこにただ一人、その言葉を聞き届ける影があった。


「おいおい、そいつはテメエの逆恨みってもんだろ。ええ?」


 女が振り向いたその先。陽炎揺らめく橋の向こうから、真っ黒なコート姿が死神もかくやとにじり寄る。

 コツリ、コツリと──血溜りとうしおの匂いをまとわせながら、男は迷うことなくその銃把じゅうはに手をかける。




◇ 二ヶ月前




 少しだけ時を遡るとしよう。

 セヴェルス・ノックス・エルドリッチによる集団児童拉致事件が起きた皇暦141年四月より一ヶ月前。彼が目指した至高の存在であるホムンクルスの完成形──至るべき指標と称したホムンクルスであるアンが、偶然にもこのメイザースに流れ着いて、街を渦巻く悪魔的なまでのエネルギーに染まりつつあった頃の話だ。


 亜熱帯の海を臨むメイザース港の倉庫街からギャングストリートを抜け、素泊まりするにもやや心もとない雑多なモーテルの並び立つバックパッカー街の只中に、便利屋の事務所は建っていた。


 耐用年数も過ぎて久しく、廃ビルと見紛うようなテナントに看板はなく、人が住んでいることでかろうじて生気を失わずに済んでいるかのような、一瞥いちべつでは何の店か判別はつかない。しかしその実、この街の厄介ごとや運び屋業務、その他もろもろのダーティワークを請け負う、裏社会において知る人ぞ知るエージェント事務所であった。


 その事務所をたった一人で切り盛りするのは、符術と銃火器を引っ提げて、卓越した知略とセンスで黒社会の修羅場を駆け抜ける一匹狼、“魔弾の射手フライシュッツ”の名をほしいままにするシャムロック・ザイドリッツ。


 プロのトラブルバスターとしては間違いなく一流の専門家なのだが、しかし生活人としての器量に関しては今ひとつであり、生活拠点も兼ねた殺伐としたボロテナントには、あちこちから継ぎ接ぎの突貫修理の跡が見て取れる。

 それでもまあ、辛うじて拠点としての体裁は守られていたのだが、果たして現在はと言えば──


「一体こりゃあ……何がどうなってんだ?」


 火を付けたばかりのタバコが口元から滑り落ち、板張りの床を焦がしていることにも気づけないほどの動揺と困惑が、早朝帰りのデュールの頭をしたたか苛む。


 デスクの書類は散り散りに散乱し、来客用のソファがあらぬ角度でひっくり返り、床に転がった灰皿から大量の吸い殻と灰がこぼれ落ち、目につくレイアウトひとつひとつが何らかの被害を被っている事務所の内部は、まるで強盗が押し入ったか竜巻が通り過ぎたかのごとき凄惨を呈していた。仕事で事務所を空けて三日。これが強盗の仕業なら今頃とっくに地の果てまで逃げおおせている頃合いだが、こと今回に限ってそれはない。なぜなら彼の事務所をこうも徹底的に荒らしまくった犯人は、逃げも隠れもせず、どころか遠征帰りでクタクタになっていたデュールに対して情け容赦のない飛び蹴りをお見舞いするような不遜ふそんの手合いだったからだ。


「どこほっつき歩いてやがったんだこのウスラボケ! 飢え死にするところだったろうが!」


 疲れ果てたデュールの脇腹に突き刺さる生足は、荒れ果てた事務所の様子を見て呆気あっけに取られていたデュールを現実に引き戻すには十分な威力。それをもろに食らったデュールは「へぶっ!」と奇妙なうめき声をあげながら事務所入り口を突き抜けて、ビルの廊下まで吹っ飛ばされた挙句、天地逆転してひっくり返った。


「おい」


 もはや死に体のデュールに追い打ちをかけるかのように、真っ白な素足が顔面にめり込む。彼にとって幸いだったのは、押し付けられた足裏がタコ一つない柔らかな少女のそれだったことくらいだが、それを差し引いたとしてもこの仕打ちは理不尽そのものだった。


「マジで……マジで勘弁してくれ。三日走り回った挙句お前なんかともみ合ってたら今度こそ死ぬ」


 まるで神にでも祈るかのように、満身創痍のデュールは降伏の意を示す。しかし彼をざまなじる足の主は、さながら天井におわす何者かのごとき無慈悲さでその祈りを切り捨てる。


「おう死ね、この浅黒猫目野郎。こちとら腹減って死にそうなんだ。テメーの臭い肉でも、食えば少しは腹の足しにはなるだろうよ」

「飯代ならちゃんと置いていったろうが!」

「んなもん初日の昼で使い切ったわ」

「馬鹿かおめえ!」


 顔面に押し付けられた足をどかし、呆れと怒りに両肩を震わせながらデュールは立ち上がって向き直る。

 目下彼の財布と生活圏を圧迫し、嵐もかくやと傍若無人の限りを尽くす無法者。ひと月前の奇妙な縁でこの便利屋の事務所に転がりこんだ謎多き少女、アンの方へと。


 絵に描いたような不機嫌面でありながらも、燦然さんぜんと燃える紅い瞳をたたえるかんばせは天のいたずらを思わせるほどに可憐で、さしものデュールも初見ではたじろぐ程であった。


 しかし、どうやら人一倍周囲の影響を受けやすい彼女にとって、メイザースの魔境ぶりは過激に過ぎたらしい。初めの方こそろくすっぽ口もけなかった彼女だが、そばにいるのがよりにもよってメイザースの治安の悪さに浸かりきったチンピラである。そんな環境でまともな言葉遣いを覚えろというのが無理な話であり、デュールの口の悪さを教科書にボキャブラリを広げたアンの荒みようは、あの運命すら思わせるほどの神秘さをきれいさっぱり消し去ってしまっていた。


「つーか、イービスの旦那も人が悪いぜ。本当によお」


 一際大きなため息とともに、デュールは嘆息する。

 事の始まりは一か月前。誘拐屋と荷物を取り違え、カルテルに処刑されかけたデュールがケジメをつけた後の事だ。取り違えた荷物を無事にカルテルに送り届けたデュールに対し、ボスのイービスがいたずら心を働かせたのがきっかけだった。


「時にシャムロック、あのガキはどうするつもりなんだ?」

「どうするもこうするも、俺の義理じゃねえ。あんたに対する詫びのつもりで一応持ち帰ってはきたが、持て余すようならあんたらでシンジケートに売っちまってもいい」

「東地区を支配するシンジケート、スタシオン・アルク・ドレの魔女にか? そりゃあいくら何でも酷ってもんだろ」


 メイザースを支配する犯罪組織。その最大派閥であるロス・サングレと双璧をなす犯罪シンジケート、スタシオン・アルク・ドレ。街を南北に縦断する運河を挟んだ東側に連なる歓楽街の元締めであり、カルテルとは街の覇権をめぐって今でも睨み合いが続いている。確かにあそこならこの少女も食い扶持に困ることはないだろうが、それを理解した上で、なにやら含みを感じさせるような笑みで嘯くイービスに嫌な予感を覚えながらデュールが抵抗する。


「んなこと言われても知らねえって、あんたらに対する筋は通したんだから、後のことは勝手にしてくれや」

「おいおいおいシャムロックよお、この俺に対して筋を振りかざそうってのかい?」


 意地の悪い笑みを浮かべながら、イービスが核心へと踏み込んでいく。


「荷物を取り違えたのもお前、取り返す過程で連中をあの世に送ったのもお前、戦利品をここに持ち込んだのもお前だ。そして俺たちも必要なだけの筋を通した。違うか?」

「ぐっ……」


 確かに、イービスとしては注文通りの荷物が届けられれば、それ以外の事はノープロブレム。その手段としてデュールが誘拐屋を始末しようと、彼らには何の関わりもないこと。デュールが気を利かせて少女を戦利品として持ち込んだその意気は買うが、受け取るかどうかはまた別の問題なのだ。

 つまり、ここでイービスがノーといえば、デュールの責任で彼女の始末をつける他ない。どの世界でも通じるごくシンプルな理だ。


「まあ別にいいじゃねえの。自堕落じだらくなおめえも、何かしら飼ってりゃ少しはまともになるんじゃねえのか?」

「それこそあんたに言われる義理じゃねえだろ」

「そう言うな。本当に手に余るなら俺がノウェムに渡りをつけてやってもいい。そんじゃ、ご苦労さん」


 イービスはそう言って、そそくさと邸内へと引っ込んでいき、後に残されたのはスクラップ寸前の愛車と、行く当てのない少女と、そしてデュールだけだった。


 そして時が過ぎること一か月。彼に待ち受けていたのはまさにこの、目も当てられない惨状だ。四六時中やかましく騒ぎ立てるアンとの地獄のような同居生活が、デュールをノイローゼ寸前まで追い詰めていたのだ。


「あの傷男スカーフェイスめ……。こうなることが分かって俺に押し付けやがったんだ。そうに違いねえ」


 ぶつぶつと恨み言を吐きながら途方に暮れるデュールの気など知る素振りもなく、消沈したその顔をアンが覗き込んだ。


「なあ、腹減った」

「ピザでも頼め。この時間ならデリバリーもやってる」

「ピーザーはーもーうー飽ーきーたー」


 バタバタと地団太じだんだを踏みながら喚きたてるアンだったが、それに対して殺意も抱けないほどに困憊こんぱいしていたデュールが、いよいよもって最後の手段を講じる。


「わかった、わかった。今日のところはいったん寝させろ。起きたらお前を外に出してやる」

「ん? 外!?  ほんとに?」

「ああ、留守の度に事務所をぶっ壊されてもたまらねえ」

「よっしゃ! なら早く寝ろ。そして早く起きろ。そしてアタシを外に連れていけ!」


 自己中丸出しの三段活用を繰り出しながらアンはデュールを体を引きずり、そのまま彼が寝室として使っている休憩室に放り込んだ。

 やれやれ、一事が万事こんな調子だ。アンがここに転がり込んできてからこっち、煩わしい事この上ない。それでもこれまで彼女を放り出さなかったのは、ひとえにデュールの気まぐれに過ぎないのだが、果たしてその気まぐれがこの先も続くのかどうかは、まったく予断を許さない問題であった。


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