第30話 あやふやな試験問題#11-3
アゼルとはお互いに部屋の前で別れた。 「月光カエルの涙」という言葉は、スノハが即興で作った名前だった。あまりにも自然に口にしたので、本当にありそうな響きだった。 月の光を受けたときだけ反応し、普段はまったく感覚がなく、素材として使うにはあまりにも透明すぎる性質。……そんな物質が実在する可能性もある。
スノハは部屋に戻るふりをして、灯りの消えた廊下を壁づたいに探るように歩き、魔法庭園の方へと向かった。
昼間、図書館でふと目にした記録。「希少な薬草は月光に反応を示す」という文の下に、小さな注釈がついていた。
【月光カエル:魔法生物。涙の成分は静かな光に反応する。】
「……本当にあったんだ。」
想像以上に漫画みたいな名前だった。どうりで名前がすらすら出てきたと思った。既に存在する単語だったからこそ、思いつけたのかもしれない。
魔法庭園の奥は思ったよりも暗かった。寮の外壁とつながる狭い通路に続いており、影が長く伸びていたが、月光は意外なほどはっきりと差し込んでいた。
しっとりとした鳴き声が聞こえた。ゲコ、ゲコ。
「……カエルの鳴き声にしては、あまりにも正直すぎる音だな……」
影の隙間に、小さな生き物がうずくまっていた。薄く透き通った皮膚がひらひらと揺れ、目には涙が浮かんでいて、その下に水のような液体がたまっていた。
「涙」だった。それ以外の言葉では表現できないほどにぴったりだった。月光が触れた瞬間、広がるように揺らめき、溜まった涙はゆっくりと葉の下へと流れ落ちた。
「……君だったんだね。」
月光カエル。 これは授業の教材なんかじゃない、本物の魔法生物だった。 学院のどこかから逃げ出してきたのか、それとも最初からここに住んでいたのか。
スノハは大きく息を吸い込んだ──誤って吸い込みすぎてしばらく咳き込んだ──再び呼吸を整えてから、手を伸ばした。
その瞬間──指先にビリッとした感触が走った。
「……っ!」
伸ばした指に何かを感じた瞬間、魔力が弾かれた。本で読んだことがある防御反応だった。魔力で薄く結界を張った防御状態のとき、接触するには魔力の供給が必要になる。
「……じゃあ、あげるよ。」
スノハは手のひらにそっと自分の魔力を流し込んだ。調整なしで扱う方法しか学んでこなかったため、制御できないままの感覚を指先に集中させた。使い方がわからないからといって、今さらためらうわけにはいかない。
魔力が抜けていくと同時に、体がぐらりと揺れた。スノハの心臓が一拍遅れて跳ねた。カエルの目から涙がこぼれた。地面に落ちそうなそれは宝石のようにわずかに浮かび、スノハの手のひらにそっと乗った。 それを胸に抱いて立ち上がった。
「……よし。」
+++
スノハが寮に戻ったのは、既に夜明けを大きく過ぎた頃だった。スリッパには湿った泥がつき、垂れた袖には魔法庭園の壁面の苔がくっついていた。
階段を上がる独特な足音の後ろには、パンくずのように土が道を示していた。
「……」
消灯された寮の廊下の奥にある椅子には、誰かが座っていた。
「……スノハ。」
「うん。」
「……どこに行ってたんですか?」
「ちょっと、用事があって。」
「用事?」
「静かに。」
「……いや、ほんとに一言で済ますんですか?」
「そうだよ。」
「そんなふうに言って倒れたら!? 深夜に死体みたいに発見されたら、その責任誰が──」
「……死んでないよ。」
「それが問題なんですよ!!」
スノハは廊下を歩いて自分の部屋の前に立った。アゼルは乱れた髪をかき上げながら、独り言のように呟いた。
「……本当になんなんですか……なんでこんな命懸けで試験受けてるんですか……」
「命は懸けてないよ。」
「じゃあ今の状態が正常なんですか!?」
「……たぶん違うね。」
「……ああもう勘弁して……」
スノハは部屋に入ろうとして、ふと足を止めた。
「ところで、なんで君、あそこに座ってたの?」
アゼルは答えなかった。ただ、視線を横にそらしただけだった。
「もしかして、待ってた?」
「……いや、それは……その……」
「待ってたんだね。」
「待ってたわけじゃなくて、ただ……ちょっと、気になってて……はぁ……はい。」
「部下認定。」
「部下になったら言うこと聞くんですか……マジで怖い人だ……これが戦友ってやつなんですか……じゃあ僕の心臓と代わってくださいよ……」
スノハはその言葉を半分聞き流しながら、開けたままのドアから部屋に入った。椅子に腰を下ろすと、そっとカバンから小さな瓶を取り出した。
ほのかに光る液体。月の下で手に入れたその「涙」を、そっと机の上に置いた。 その隣に、一枚の文書を添えて置いた。
+++
体が重かった。指先から魔力がすっかり抜けた感覚がビリビリと残っていて、「こんな状態で授業に出られるのか」と思いながらも、口には出さなかった。──あ、そういえば授業全部休講になってたっけ。
朝早く、講義棟の掲示板の前に設置された課題提出箱に瓶と文書を置いた。
「……ほんとに……この人、授業受けるつもりだったんだな……」
奇妙に柔らかな心配混じりの感嘆が、アゼルの口から漏れるのは仕方なかった。
提出を終えたスノハは、そのまま背を向けた。足元が少しふらついたが、歩みは止めなかった。
「……終わった。」
その一言で、自分にも、誰に対しても確信を与えた。
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