第23話 看病って、どうやるんだ? #8-4

寮への帰り道は、本来なら静かであるはずだった。——本来なら。


「ちょっとー! 待ってくださいー! うわあああ、そっちに行ったら——!!」


廊下の向こう、魔法科と生物管理室の間から、何か緑色の塊がぽんっと飛び出してきた。

その後ろを、金色の髪をなびかせた誰かが全力疾走で追ってくる。


スノハは立ち止まった。足元を見た瞬間、滑る。

「……粘液。」


アゼルがスライディングするように現れた。

「スノハさん! 何してるんですか!? 逃げないと!!」

「……なんで?」

「カエルですよ!! 逃げたんです!! ありえないくらいデカくて!! ジャンプ力は人間並みで!!」

「……で、あんたは追ってると?」

「捕まえないと!! 俺の実習の成績が!!」

「……よし、作戦立てよう。」

「……え? 作戦? そうじゃなくて今——」

「逃走方向は一定、粘液は濃くて湿った場所に集まる傾向がある。」

「……この状況で本気で分析してます?!」

「私は捕獲作戦を考える。あんたは走れ。」

「なんで俺だけ走るんですか?!」

「私は頭脳担当だから。」

「それ不公平すぎません?!!」


何かがドスンと天井から落ちてきた。

生物管理室の主任が探していた“大型生体魔法実験体”だった。

とてつもなく大きなカエル。

とてつもなく。

アゼルの背丈くらいはある。


「……ペットじゃなかったんですか!?」

「変異してるみたいだな。」

「それもっと危ないやつじゃないですか!!」

「そうだな。だから右に誘導しろ。」


スノハは紙を一枚取り出し、魔法陣を描いた。

《湿気誘導》


「……あっち、水槽の水路につながってます…!」

「そこに入れれば終わりだ。」

「……なんでそれを言ってる俺の方に突っ込んできてるんでしょうね!!」


「ぴょんっ——!」


カエルが跳んだ。

スノハの予想を超える高さ。

正確にアゼルの頭頂を踏みつけて跳ねた。


「……ぐっ。」

「……うん。」


盛大な水しぶきと共に、二人揃って水路に落ちた。

知識も計算も作戦も、水に落ちれば無意味だった。


スノハは濡れた髪をかき上げたが、指の間から髪がはみ出すだけで意味はない。

「……悪い。」

「……何がです。」

「……頭脳担当って言っときながら。」

「……ええ、正直かなり気に入りません。」

「……部下だろ。」

「……その一言じゃ慰めにならない瞬間もあるんです…」

「でも——捕まえたじゃん。」

「……それは……まあ、そうですね。」


水路の中で、アゼルはカエルを抱えて泣いていた。

「本当に重い……これ何なんですか……ここ魔法学校ですよね……?」


スノハは小さく笑い、このカエルにも階級があるかもしれないと思った。

今のこのカエルは、少なくともS級。

(アゼルはB級だから、とんでもない経験値になるかもな)



その夜。

寮の廊下には妙な咳の音が響いていた。


「けほっ……へっくしゅん!」


スノハは部屋の中で静かにページをめくっていた。

めくって、まためくる。

ページの隙間から漏れる咳の音に、本を一度閉じた。


(……さっき水に落ちたせいで風邪か。)


スノハは扉を開けた。

「アゼル。」


ベッドを放って、隣の椅子にマフラーを巻いたままうずくまっていたアゼルが、のそっと顔を上げた。

「……うう……なんですか……?」

「風邪?」

「誰が水路に落ちたんでしたっけ……思い出せないなぁ……」

「私の記憶じゃ、お前が飛んで、カエルに踏まれて、水路に落ちた。」

「……なんでそんな鮮明に覚えてるんですか……」


スノハは黙って水の入ったボトルと薬袋を差し出した。

「マダムがくれた。『高熱に耐える愛の薬茶』だって。」

「……名前からして悪化しそうなんですが?」

「私もそう思う。」

「……なんでくれるんです? 風邪ひいたの俺なのに。」

「だから渡すんだろ。」

「……ほんと怖い口調ですね。」


スノハは一瞬アゼルの額に手を当てた。案の定、熱い。

「……かわいそうだな。」

「その感情あったんですか?!」

「うん。」

「ほんとに?!」

「……うん。」

「……あ、あと一回だけ言ってもらっていいですか…?」

「……かわいそうだな。」

「あ……溶ける……」


静寂の中、咳だけが小さく響く。

「……じゃ、ゆっくり休め。」


スノハが背を向けた時——

「……あの、スノハ。」

「ん?」

「……風邪ひかないの、うらやましいです。」

「だな。免疫系の勝利だ。」

「……どんな訓練したら水路に落ちても平気なんですか…」

「覚えてないけど、そういう訓練は結構やった気がする。」

「……俺にも教えてください。」

「……やだ。」

「……ですよね。」


アゼルが咳をする。

スノハは少し考え、小さな湯たんぽを取り出してアゼルのそばに置いた。

「これもマダムにもらったやつ。」

「……マダムがこんなのくれたんですか……?」

「……おやすみ。」


スノハは静かに背を向け、扉を開けてゆっくり消えた。

その背中を見送りながら、アゼルはマフラーを締め直して呟いた。

「……本気で、倒れてもいい縁だな……」



翌日まで続いた咳は、看病係を捕まえた。


「水でも……持ってこようか?」

スノハが聞くと、アゼルは答える前にくしゃみをした。

「へっくしゅん!……結構です。そのまま寝てます。」


そう言いながらも、布団からはみ出た足先は何度も縮こまった。

スノハは無言で座り、アゼルの額に手を置いた。

「まだ上がってるな。」

「……そうですね。このまま『燃える魔剣士』とか呼ばれそう。」

「それ、お前の熱のせいであって剣のせいじゃない。」

「……やっぱその口調、嫌いじゃないかも……」


布団をもう少し引き寄せて掛け直し、スノハは顔を近づけた。

「……ちょっとだけ、ここで横になってく。」

「え?」

「じゃないと——看病やめて医務室行けって言うだろ。」

「……まあ、それはそうですね。」

「……少しだけ。」


本当に少しのつもりが、その“少し”が夜を飲み込んだ。



気配がなくて顔を向けると、アゼルはベッドにうつ伏せで眠るスノハを見た。

呼吸はゆっくりと、部屋を満たす。

「……ほんと、こういうの反則ですよ……」


囁くように言って、アゼルはそっと立ち上がった。

そして、見慣れた姿勢でスノハを抱き上げた。

何かを運ぶ動作は、普段の訓練でさんざん見てきたから——という言い訳を添えながら。


(……この人、体温も低いのに、なんでこんなに軽いんだ……)


ベッドの片側にそっと下ろし、布団を掛けながら呟く。

「……次は看病当番、交代ですからね。本気で。」


スノハを寝かせたまま、引き出しを開けたり閉めたりして夜を過ごした。

解熱剤を確認し、水を温め、咳が悪化しないよう気をつけながら——

結局、一睡もできなかった。



翌朝。

窓から差し込む陽射しに目を開けたスノハの視界に飛び込んできたのは——


「……お前、なんでそんな状態でいるんだ。」


椅子に座ったまま舟を漕ぐアゼルだった。

額の熱はさらに上がり、頬は熟れたトマトのように真っ赤で、今にも倒れそうだ。


「……風邪……おかわり……」

「……ほんと、何やってんだ。」


スノハは深く息をついた。

「……やっぱ今回は、私がちゃんと看病するしかないな。」

「そっちも患者でしょうが!」

「……だから、一緒に横になる。」

「……え?!」

「……部下だから。」

「……ほんと、それ万能ワードですか?!」

スノハは静かにもう一枚布団を掛けた。

「……うん。そうだ。」


アゼルの熱は38.2度に上がっていた。

それでも、その表情はどこか柔らかく見えた。


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