第8話 繰り返される悪夢

佐伯陽翔。あいつは面白い。


空き教室のドアを閉め、誰もいない廊下を歩きながら、俺はポケットに手を突っ込み、口の端を上げる。


純粋な献身と、傲慢な要求。あの瞳は、俺を改心させたいと言いながらも、その実、誰にも汚されない自分だけの「愛」を俺に捧げ、認めさせたいのだ。


そして何より、あの瞳の奥底に、エリシア・グランディールの影を重ねてしまう。


(純粋な愛? 献身? そんな『幻想』、反吐が出る)


その純粋さこそが、この世で最も危険な劇薬であることを、俺は知っている。


俺の軽薄な振る舞いを「最低」と罵倒するが、その最低さこそが、俺にとっての防壁だ。多くの女たちと浅い関係を築き、愛を平等にばら撒く。深入りしない。執着しない。愛さない。


そうすることで、俺は誰にも弱みを見せることはない。裏切りの刃が届かない、安全な場所に立っている。


そう、まるで千年前の、あの血まみれの断頭台から逃れるかのように。


自宅のマンションの最上階。夜景を見下ろす窓辺でウィスキーをグラスに注ぎ、一息つく。だが、先ほどの佐伯陽翔の体温と、耳元で感じたあの震えが、まだ指先に残っている。


「愛よりも甘美な、支配と快楽という選択肢」


ああ言ったのは、彼をからかうためだけじゃない。純粋さに固執する彼に、愛が幻想であることを教え込むためだ。あわよくば、愛など信じない俺の側に引きずり込み、一緒に安寧を得るためだったのかもしれない。


グラスの氷がカラン、と音を立てる。その音に、意識が遠のき始めた。


「裏切者め、ルシアン・グレイヴ!」


冷たい石の床。身体を貫く凍えるような寒さ。肌に食い込む鎖の重み。


俺は再び、あの夢の中にいた。いつもの光景だ。エリシアが死んだ後の、地獄。


エリシアの死後、俺は生き残った。だが、それは地獄の始まりだった。俺の信じていた側近や、王国の重鎮たちが、次々と俺に牙を剥いた。


彼らは、戦争の敗北とエリシアの死、そして王国の崩壊の全てを、ルシアンの「裏切り」によるものだと仕立て上げた。


牢獄の鉄格子越しに見えるのは、血のように赤い夕日。そして、かつて俺に忠誠を誓ったはずの、宰相達の顔。


「ルシアン様、我々は貴方様の決断を信じていたのに……。エリシア様を、そして国を、貴方様が滅ぼすなどと……」


宰相は涙を流しながらそう言ったが、その瞳の奥には、憎しみでも悲しみでもない、冷酷な勝利の光があった。


(ああ、そうか。全ては、最初から仕組まれていたことだったのか……)


俺は絶望に打ちのめされた。愛するエリシアを失った悲しみよりも、信頼していた者たちに裏切られたという事実に、魂が凍り付く。


そして、夢は必ず、同じクライマックスを迎える。


大勢の民衆が見守る中、俺は処刑台に引きずり出された。民衆の罵声と憎悪の視線が、皮膚を突き刺す。その中には、エリシアの民もいた。彼らは俺を、エリシアを殺した主犯だと信じている。


最後に、俺の首を斬り落とす処刑人が、静かに俺の前に立つ。


処刑人の仮面の下で、その男の口元が、わずかに歪むのを見た。


(その顔は、宰相だったか? それとも、俺の護衛隊長だったか?)


憎悪と後悔に視界が真っ赤に染まる。


「信じた俺が、馬鹿だった」


俺の最後の言葉は、誰にも届かない。ただ、信じ、愛したことへの、激しい後悔の念だけが残った。


閃光。激しい衝撃。そして、血の匂い。


「ハァッ……!」


俺は飛び起きた。呼吸が乱れ、全身が汗で濡れている。見慣れた高級マンションの一室。夢ではない。だが、身体には未だ、首筋に鋭い刃が触れたかのような錯覚が残っていた。


この悪夢が、俺が天城陵として生きる、この現世での呪縛だ。


信じるな。愛するな。深入りするな。


愛は、裏切りを引き寄せる、最悪のトリガーだ。


(だが……佐伯陽翔のあの瞳は)


純粋なまま、俺に刃を向けている。まるで、「お前が失ったものを取り戻せ」と。


俺はグラスに残っていたウィスキーを一気に飲み干した。


「馬鹿め。そんな鎖は、またお前を地獄に引きずり込むだけだ」


そう自分に言い聞かせ、立ち上がり、窓の外の夜景を見つめた。


俺はあの純粋な愛を、もう一度信じる気はない。

彼のその無垢な魂を俺の魂で汚し、その幻想を叩き壊すことに、抗えない快楽を感じている。


(ルシアン・グレイヴの魂の残滓を、現世で打ち砕いてやる。愛なんて陳腐なものを信じるから破滅するのだ。俺は誰も本気で愛さない。)


それは、前世の呪縛から逃れるための、最も歪んだ誓いだった。

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