閑話1 ミートン編  ピエール=カッサンドラ視点 聖女の逆鱗

聖女の逆鱗 ― ピエール=カッサンドラ視点


 王都に春の鐘が鳴り響いていた。

 大聖堂で卒業式が行われていることを、私は執務室の窓から眺める空の青に重ねて思い浮かべていた。

 ――娘が聖女の称号を受ける日。

 本来ならば、父としてこの上なく誇らしいはずの瞬間である。だが胸に満ちていたのは、祝福ではなく重苦しい絶望感であった。


 すでに王命は下っている。

 レオナルド=ベルサーチ――剣聖の名を背負い、幾度も王国を救った青年は「反逆の嫌疑」により国外追放とされた。

 信じ難い決定だった。だが、王の意志に逆らえる貴族は存在しない。ましてや私のような一伯爵にできることなど皆無であった。

 それどころか、我が家にもすでに王の間者が潜伏していることを、私は知っていた。どこで誰が耳を澄ませているのかわからぬ中で、抵抗の素振りを見せれば、即座に断罪が下る。家ごと潰され、残された者たちが無惨に路頭に迷うだろう。


 ――エリザベートを守りたい。

 父としての想いはただひとつ、それだけであった。だが皮肉にも、王は彼女を「聖女」という肩書ごと奪おうとしている。

 国王はエリザベートを側室に迎え入れるつもりなのだ。王家の血統と聖女の力を結びつけ、国家の守護結界を永続的に掌握するために。

 彼女の結界魔法は、すでに王都を幾度も外敵から救った。それを目の当たりにした王は、恐れと欲に支配されてしまったのだ。


 ……だが、娘にその真実を告げることはできない。

 あまりにも残酷すぎるからではない。言えば命を落とすのは娘自身だ。王命に逆らう意思を示した瞬間、彼女は「反逆者」とされ、すべてを失う。

 私に残された選択肢は――無情な宣告を、冷酷に告げる役を演じることだけであった。


 ◇


 卒業式から戻ったエリザベートが屋敷の応接間に現れたとき、私はすでに腹を括っていた。

 金色の髪を揺らし、蒼穹の瞳を輝かせ、白銀の聖女衣をまとった娘の姿は、まるで神話の女神そのものだった。

 ……だからこそ、胸を締めつける痛みが増した。

 これほどの娘に、なぜこのような苦難ばかりが与えられるのか。


「エリザベート。王命が下った。……レオナルド=ベルサーチは、反逆の嫌疑により国外追放となった」


 言葉を発した瞬間、胸に刃を突き立てられたような痛みが走った。

 エリザベートの瞳が大きく揺れ、世界が止まったように彼女は固まる。

 父として抱きしめ、真実を囁きたい衝動に駆られる。しかしその行為は許されない。ここにも間者の目がある。少しでも逆らえば、我が家は全滅だ。


「……な、にを……?」


 彼女の震える声を聞きながら、私はさらに刃を突き立てる。


「ゆえに、お前とレオナルドの婚約は解消する。伯爵家の娘として、これ以上あのような男に関わることは許されん」


 言い終えた瞬間、ガシャンと花瓶が砕け散った。

 魔力の暴発。エリザベートの心が怒りで満ちている証。

 胸が張り裂けそうだった。私も同じ怒りを抱いている。だが、吐き出せば全員が死ぬ。

 だから私は、あえて冷徹に徹するしかなかった。


「信じる信じないの問題ではない。事実だ。王がそう定められたのだ」


 そのとき、私は確かに娘の心が音を立てて砕けるのを感じた。

 ――そして、私の心もまた同じように。


「聖女となったお前には、新たにふさわしい縁談を用意する。王家からの申し出だ。近く正式に決まる」


 その瞬間、私はもう演技と現実の区別がつかなくなっていた。

 王命に従う冷酷な父を演じる自分と、娘を守りたい父としての自分。二つの声が胸の中でせめぎ合い、血を吐きそうになる。


「……ふざけないで!」


 娘の絶叫が屋敷を震わせた。

 雷光が走り、炎が燃え広がり、氷の刃が宙を裂く。あらゆる属性の魔法が暴走し、広間は一瞬で戦場に変わった。

 逃げ惑う使用人たち。だが私は逃げなかった。逃げられるはずもない。


「――っ! お前……正気か!」


 父としての叫びだった。だが娘は怒りの炎に包まれ、涙ひとつ流さない。


「正気? そうよ、これが正気! レオナルドを裏切るくらいなら、私は聖女なんてやめてやる!」


 その言葉に、私はようやく悟った。

 ――この娘は、王に従うことを絶対に選ばぬ。

 ならば、私が下すべき最後の決断はひとつしかない。


「――勘当だ! エリザベート=カッサンドラ! お前は今日をもって我が娘ではない!」


 心臓を抉られるような痛みを伴って、私は叫んだ。

 この言葉だけが、娘を守る唯一の手段だった。

 「伯爵家の娘」でなければ、王は彼女を家ごと潰す理由を失う。追われるのは彼女個人となり、逃げる余地が生まれる。

 私が父である限り、王は彼女を利用するために徹底的に縛り付けるだろう。だからこそ――父であることを捨てるしかなかった。


「……望むところよ。父上の娘でなくても、私は――レオナルドの婚約者であり続ける」


 その言葉に、胸が張り裂けそうになった。

 だが、涙は見せられない。間者に悟られてはならぬ。

 私は憎しみを込めるように娘を睨み返し、最後の背中を見送った。


 ◇


 やがて、屋敷は半ば崩れ落ち、煙と粉塵に包まれた。

 人々の混乱の中、私はただ一人、崩れた椅子に腰を下ろし、心の中で呟いた。


 ――許せ、エリザベート。

 ――父はお前を守れなかった。

 だがせめて、父を憎んで生き延びろ。王国に背を向け、愛する者を追いかけるのだ。


 それだけが、伯爵ピエール=カッサンドラに残された最後の祈りであった。

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