第7話 ひみつ
「……なあ、帰る前に、もうひとつだけ行きたい場所があるんだ」
小さな花畑を出て、ゆるやかな坂道を歩いていたとき、不意にシンくんがそんなふうに言った。
空にはまだやわらかな陽が残っていて、遠くの雲が橙色ににじんできていた。
けれど、風にまじる草の匂いが濃くなって、空気の温度も、肌に触れる感触も、ほんの少しだけ変わってきているのがわかる。
昼の光が夕暮れの色に染まりはじめる、その一瞬の境目。
「どこ?」
首を傾げる私に、シンくんはちょっとだけ口元を緩めて、小さく笑う。
「行ってからのお楽しみや」
また、自転車の荷台をぽんぽんと軽く叩いた。
その仕草が二人だけの合図みたいに思えて、きゅんとなって、私は何も言わずに頷いた。
それだけで、ほんとうに十分だった。
スカートの裾を気にしながら、そっと荷台に腰をおろすと、シンくんがちらりと私を振り返る。
いつもより、ほんのすこし真面目な顔。
「……ちゃんとつかまっとけよ。さっきより道、ちょっと悪いから」
しっかりとした口調で、お兄さんみたいな言い方。
私は軽く頷いて、風であおられる麦わら帽子を押さえると、もう片方の手をそっと、でもためらわずに、シンくんのお腹へ回す。
さっきよりも、ずっと自然にできた。
どきどきするというより、なぜだか、それが“ふつう”のように思えた。
やわらかなTシャツ越しに伝わる体温。
ぴんと張った背中の感触。
シンくんは、何も言わなかった。
だけどきっと、気づいていたと思う。
私の手の位置も、背中にそっと伝わる鼓動も。
「じゃあ、行くぞ」
シンくんが、ひとこぎ、ふたこぎとペダルを踏み込ぬと、自転車がゆっくりと、でも力強く進んでいく。
ちゃんと自分の足でペダルを漕いで、どこかへ連れていこうとしている動きが、なんだかとても頼もしく感じられた。
舗装の甘い道に差しかかると、車輪が小さく跳ねて、少しだけ体が揺れる。
そのたびに、私はシンくんに近づいて、しっかりとしがみついた。
夕暮れに染まる風が頬をなでて、帽子のリボンがひらりと揺れる。
どこへ向かっているのかはわからない。
でも、背中越しに伝わるぬくもりが、ちゃんとそこへ導いてくれる気がしていた。
黄色く染まり始めた空。
そんな気配を、肌で感じながら、私たちは小さな冒険の続きを走っている。
道はだんだん細くなっていった。
舗装された道を外れて、タイヤがガタガタと金属音を立てながら草むらを抜けていく。
「梨花、大丈夫か?」
「うん」
ちゃんと私を気にかけてくれているから、揺れは少し激しくなったけれど、背中ごしに感じる匂いやぬくもりのお陰で不思議と怖くなかった。
木々がだんだんと増えて、小さな林の中へと入っていくと、空の光がすこしずつ遠のいていく。
けれど、ササ―、ササ―っと、ゆれる葉のすき間からぽつりぽつりと地面に落ちている木漏れ日が踊っているように見える。
緑のトンネルを進み、さわさわと風が通るたびに、木々の匂いが濃くなっていった。
空気が少しひんやりしてきて、時間が、さっきまでとは違う速さで流れている気がしてくる。
しばらく走ると、自転車がゆるやかに止まった。
「着いたよ」
いつもより低い、シンくんの声。
私はそっと荷台から降りる。
足元の草がふかふかしていて、体が少し傾いたけど、すぐに踏みとどまった。
両手でスカートをそっと整えながら顔を上げる。
目の前には、木々と岩場に囲まれた小さな空間が広がっていた。
地面の一部は日差しが届いていて、ふいにぽっかり空いたような場所。
そこに手作りの板をくっつけただけのベンチが二つぽつんと置かれていた。
枝にくくりつけられた空き缶の風鈴が、風に揺られてカン、カンと音を立てる。
缶の表面には子どもらしい落書きみたいな絵が描かれていて、それがどこか、いとしく見えた。
「ここって……」
思わず、声が漏れた。
「俺の秘密基地」
シンくんが、すこし得意げに鼻をこする。
胸を張るようなその横顔に、夕陽が差していた。
「誰にも言っちゃダメだからな。ここ、ほんとは俺だけの場所やから」
シンくんは自転車を木の陰に止めて、慣れた足取りで膝くらいの高さの草をかき分けていく。
私はそのあとを、足音を忍ばせるようにして、そっとついていった。
「このベンチ、シンくんが作ったの?」
「まあな、ばあちゃんちの裏にあった板で、それっぽくしただけ」
振り返りもせずに、シンくんは肩越しに答える。
「すごい……」
ほんとうはもっとちゃんと感想を言いたいのに、うまく言葉が見つからなくて、私はそのまま、うつむいた。
木の香りと、土の匂いと、遠くからかすかに聞こえる波の音。
さっきまで風を切って走っていたとは思えないほど、そこは静かで――
まるで世界から少しだけ切り離された別世界みたいだった。
「梨花、ちょっと目閉じといて」
シンくんは木の椅子を抱えながら、何気ない口ぶり。
「なんで?」
「いいから、目を開けた時のお楽しみや、絶対いいって言うまで開けたらダメやからな」
また、何か楽しいことを思いついたんだよって顔。
なんだかきゅってなるのが悔しくて、唇を嚙みしめる。
「……わかった」
私は小さく息を吐いて目を閉じる。
ガサッ。
シンくんが椅子を地面に置く音。
タッ、タッっと駆け足する。
そして「よっ」と声がして。
そばを通り過ぎる気配。
「もう少し、待ってな」
優しく澄んだ声。
「うん」
ドサッとまた何かが地面に置かれる。
足音が近づいて来て、お日様の匂いがして。
ふいに私の両手をシンくんの汗ばんだ手がつかんだ。
ビクッとして目を開けそうなって、ギュッと瞼を閉じる。
「まだだからな、ちょっと歩くぞ」
私はシンくんに手を引かれながら、ゆっくりと歩く。
怖さもあるし、ドキドキもしてるけど、それよりもつないだ手の温もりが全身を巡って、安心をもたらしてくれる。
少し進んで、ちょっとだけ横にずれる。
「そのまま座って、後ろに椅子あるから」
「あ、うん」
私はゆっくりと膝を曲げる。
お尻に板が触れて、少しだけホッとする。
「じゃあ、手離すぞ」
「うん」
手のひらから温もりが消え去って、膝の上にそっと添える。
「いいよゆっくり目開けて、梨花、見てみ」
「うん」
ゆっくりと瞼を持ち上げる。
少し開いた瞬間、眩しくて目をつぶり、手をかざしながら、もう一度瞼を開く――
「え?」
目の前が金色に輝いている。
少しずつ、明るさに目が馴染んで、金色に染まっているのが海だということが分かった。
「ここから見える海、なんか広くてさ。空の色が、全部映るんだ」
「すごい……」
自然と胸の目で手を組んでいた。
一面、金色にゆらゆらときらめく中にも光が弾けていて、宝石のように見える。
「梨花に見せたかったん」
「え?」
隣に座っているシンくんの顔は夕陽に焼けている。
並んだ肩が、ほんの少しだけ触れそうで、その距離が、なんだかむずむずする。
でも、嫌じゃない。
むしろ――
嬉しいと思ってしまう自分がいた。
「この場所、夕焼けがきれいなんだ」
そう言いながら、こっちを向いた。
目と目が合って――
ドキドキし始めたけど。
でも、私はちゃんとお礼を言いたかったから、視線を逸らさずに笑って見せる。
「うん、初めて見た。すごくきれいで、シンくん見せてくれて、ありがとう」
金色の輝きに負けないくらい、ほとばしる笑顔のシンくんは、
「ええんよ」
と、鼻をちょんとこすった。
私は、目に焼き付けたくてシンくんの顔も、瞬きが止まない海も。
昼間の青さとはちがう、夕方だけの、あたたかくてやわらかい光。
それが、ゆるやかに波の上をすべっていく。
きらきら、きらきらと、まるで溶けていくように。
風が吹いて、髪がふわっと浮いた。
結んだリボンも、それに合わせてそっと舞う。
シンくんのシャツの裾も、音もなく揺れていた。
「ここ、すごくいい場所だね」
私がそう言うと、シンくんはちょっとだけ照れたように笑った。
口元が、いつもより柔らかくほころんでいる。
「だろ?」
その笑顔に、胸がきゅっとした。
――どうしよう。
また、変な気持ちになってる。
さっきよりも一段と早くなった鼓動が、耳の奥で、どくん、どくんと鳴っている。
静かなこの場所に、その音だけが響いている気がして、なんだか恥ずかしくなる。
シンくんは、膝に肘をついて、あごを乗せたまま、空をぼんやりと見上げていた。
その横顔が、夕陽の光で橙色に染まっていて――
――なんか、ずるいな。
どうしてこんなときに限って、こんなにまぶしい顔をするんだろう。
私は、ほんの少しだけ、まぶしさから目をそらすように、帽子のつばを指先でつまんだ。
夕焼けが山の向こうへ沈みかけていて、まわりの空気がすこしずつ夜の匂いに変わっていくころだった。
「梨花はさ、また島に来る?」
シンくんがぽつりとつぶやいた。
不意に聞かれて、私は一瞬だけ言葉に詰まる。
胸に浮かんだ気持ちは、すぐに声にできないほど大事なものだったから。
「……うん。来たいなって、思ってる」
声は小さかったけど、でもちゃんと届くように。
それは、ほんとうの気持ちだった。
「来年も?」
「……うん」
「じゃあさ、来年の夏も、ここ来ような!」
迷いも、疑いもないシンくんの声が、頭に心にしんと響く。
「夕焼け、また一緒に見ような!」
「……うん、見る」
うまく笑えたか、自分でもわからない。
でも私はそう答えた。
だって、また見たいって思ったから。
視線を落として、足元のスニーカーのつま先をじっと見つめる。
だって、顔を上げたら――
なんか、涙が出そうだったから。
言葉のかわりに、あたたかくて、すこしだけ苦しくて、でもどこか嬉しくて。
私の中に、夏の夕暮れがそのまま入り込んできたみたいだった。
ふたりでそのまま、しばらく黙って夕陽を眺めていた。
海からの風が、頬をなでて、木の枝に結ばれた空き缶の風鈴をそっと鳴らした。
カン、カン――
小さな音が空気をすべるように広がって、そのあとを追うみたいに、さらさらと枝たちがやさしく揺れた。
草のにおいが、ふわりと鼻先をとおる。
まるで、夏が静かに息をしているみたいに。
気がつけば、その吐息の中に――
少しずつ、「今日の終わり」が混ざりはじめていた。
「……帰るか」
「……うん」
立ち上がったとき、ふとシンくんがくるりと振り返った。
なにか言いかけたように見えたけど――
そのまま口を閉じた。
「なんでもない」
そう言って、シンくんはまた、私より少し前を歩いていく。
でも私は、気づいていた。
さっき、ほんの一瞬。
シンくんの右手が、そっと伸びかけていたことを。
触れるか触れないか、そのぎりぎりのところで――
やめた、あの動き。
私は、その背中を追いかけながら、帽子を押さえて歩き出した。
風が少し強くなってきて、スカートの裾がふわりと舞う。
土の匂いも、いっそう濃くなっていた。
林を抜ける少し手前で、シンくんがふと立ち止まる。
その横顔が、夕焼けに照らされて、金色にふちどられている。
「……あのさ」
「うん?」
「今日の梨花――かわいかった」
ぽつりと、それだけ。
帽子のつばを指でいじりながら、目は合わせないまま。
耳までほんのり赤く染まっているのが、夕陽のせいだけじゃないってわかる。
心臓が、どくん、と大きな音を立てた。
さっきまで暑かったはずなのに、背中にすっと冷たいものが通り抜けて、なのに顔だけぽっと熱くなる。
声が出せなくて、ただ、小さく頷いた。
うまく笑えなかったけど、それでも、ちゃんと気持ちは伝わった気がした。
シンくんは、それ以上なにも言わず、またいつものように、少し前を歩きはじめた。
だけど私にはわかる。
さっきより、ほんの少しだけ――
その歩幅がゆるんでいたこと。
私は、口の中で小さくつぶやいた。
「……また来るね」
風が、その声をふわりとさらっていった。
空にまぎれて、どこかへ消えていったようでいて――
でもたしかに、約束した気がした。
ふたりだけの、夕焼け色のひみつ。
ホテルの窓の向こうに、オレンジ色の光がゆっくりと海を染めていた。
夕陽は、山の稜線の上でほんの少し揺れながら、空と海の境界を曖昧にしている。
波の上に落ちた光が、ゆらゆらと
瞳を閉じた私を彼の手がやさしく誘って、まぶたを開けた時の衝撃――
そう、昔とまったく同じじゃない。
海の色も、風の匂いも、少しずつ違っている。
なぜかきゅっとする。
自転車の荷台に乗って、彼の背中ごしに風を切って走ったあの日。
坂を越えて、木々に囲まれた岩場に着いて。
「秘密基地」と彼が呼んだ、あの小さな場所で、並んで見た夕陽。
何も言わずに、ただ並んで見ていた。
でも、それだけで胸がいっぱいだった。
言葉なんて、たぶんいらなかった。
ただ、そこに一緒にいるだけでよかった。
思い出す。
帰り道の途中で、彼がふと立ち止まって、振り返ったこと。
そして、あのとき――
右手が、すこしだけ、伸びかけたこと。
あの手を、もし取っていたら。
……そんなことを、今になって考えてる。
本当は、ずっと来たかった。
だけど……怖かったんだ。
もし、あのときの気持ちが私だけのものだったら?
もし、彼が私のことなんて覚えていなかったら?
それとも、もう別の誰かと並んで、あの夕陽を見ていたら――?
年を重ねていくうちに、考えなくてもいい余計な感情が巣食ってきて。
そんなことを想像するたびに、足がすくんで動けなくなった。
だけど――10年前の私が”あの日”約束したから。
「また会おうね」って、ちゃんと声にして言ったから。
たとえ会えなくても、忘れられていたとしても――
それでも来なきゃいけないと思った。
忘れてたわけじゃなくて、忘れられなかった人がいるってことを、自分で確かめたくて。
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