第37話 脱出
走っているなかで聞こえるのは、悲鳴とゾンビたちのうめき声である。ゾンビは音に反応しており、悲鳴を上げている人間から襲っている。
地獄のような光景に、私の精神はわずかに高揚していた。人々の悲鳴やゾンビの呻き声が、まるで音楽のようにも聞こえていたのである。
アサヒは、咄嗟に私の手を振りほどこうとした。弓で、人を襲っているゾンビを射抜くためである。だが、そんなことを予想済みである。
「駄目です!」
私は、アサヒの手を引っ張る。
立ち止まっている余裕はないし、ゾンビと人が密集しすぎているのだ。
アサヒがいくら弓の名手であろうとも、これでは障害物が多すぎて狙った場所には当てられない。私のように木剣でゾンビを殴るならばともかく、飛び道具を使うアサヒにとっては状況は最悪であった。
アサヒが弓の狙いを定めている間に、彼がゾンビに噛まれてしまう可能性もあった。そんなことは、私が許さない。
私は、アサヒの手を力強く引く。私に近付く、アサヒの顔色は悪かった。この状況に、責任を感じているようなのだ。
嗚呼、なんて愚かなのだろうか。
「でも、俺が原因だったようなもので……」
アサヒの弓を見て、老人たちは怯えて逃げていった。そして、外に逃げ出してゾンビに噛まれて帰ってきたのである。
キョウコと比べれば、ゾンビになるだけの時間がかなり短い。ゾンビたちは損傷が酷いものが多いので、人間である時に深い傷を負わされたようだ。
「やはり……深く噛まれたかどうかで、ゾンビになる時間が変わるようですね」
キョウコの傷は浅かったので、ゾンビになるまでの時間は長かった。だが、老人たちは抵抗することもできずに深く噛まれた。故に、ゾンビになるまでの時間が短いらしい。
「裕!やっぱり、俺はできる限り残って……」
アサヒは、地獄と化した公民館しか見ていない。この混乱が、自分のせいで起きたのだと思い込んでいる。
アサヒは、責任を感じることはない。
彼は、本当に悪い人間を見誤っている。本当に反省するべきが、平和だった世界を破壊したゾンビ——あるいはこの状況を作ってしまった者たちである。
アサヒは、この世界で生きているだけなのだ。
故に、アサヒが反省するべきことはない。
「あなたは、自分の正義を振りかざすのでしょう!」
私は、アサヒを怒鳴った。
この状況を作ったのはアサヒのせいだとは、私は思っていない。この市民会館は遅かれ早かれ、崩壊していたであろう。
自分たちばかりが搾取されることに気がついた生徒たちは、遅かれ早かれ反乱を起こしていた。守りが薄い市民会館は、それには耐えきれない。
「でも、責任が……」
アサヒは、戸惑っている。
私は、皮肉げに笑った。
「責任が何だというのですか」
重要なことは、生き残ることだ。失敗の責任をとって、この場所で心中することではない。
「この市民会館が終わるのは、歪な体制のせいです。あなたの行動は事の発端になったかもしれないけれども、こんなことで責任なんて取らないでください!」
この先には、どんなことがあるのか分からない。そんな世界のなかで、こんなことで責任を取っていたら命がいくつあっても足りない。
私が、アサヒを失いたくはなかった。
私は自分でも驚くほどに、年の離れた相棒が大切になっていたのだ。この地獄のような世界で生き残ってくれ、と願うほどに。
「いややぁぁ!!」
甲高い声が響き渡る。
その声の方に視線をやれば、ミカゲがゾンビに噛みつかれていた。彼女の悲鳴に集まってくるゾンビたちは、次々とミカゲの肉を噛みちぎる。
血みどろになっていくミカゲの姿に、アサヒは顔を青くする。それでも、ミカゲを助けようと駆け出そうとした。
私は、そんなアサヒの手を引っ張った。
こういうことを恐れて、私はアサヒと手を繋いでいたのである。
「せんせい……せんせいが……」
アサヒは、私の方を見る。
私は、無言で走りだした。
アサヒは私に引っ張られるままに、共に走ってくれた。私の一生懸命さが、アサヒにも伝わったらしい。
ゾンビに襲われないようにするのは、足音を殺して歩く手もある。しかし、一定の空間で大量のゾンビと人が入り交ざっていては、一刻も早く市民会館を出たほうが良いであろう。
私は、進路を妨害するゾンビだけを倒していく。そして、アサヒと共に走るのだ。
「あの教師は、最低な人間です。同情する余地などありません」
ミカゲは教師であるのに、自分のことしか考えていない。生徒のことなど搾取する対象でしかないのだ。
こんな世界になる前から、アザミは生徒を利用していた。その対象は、アサヒだ。
アザミは、生徒からの虐めをアサヒに解決してもらった。だが、アサヒが虐められていた時には、見て見ぬふりをしたのである。
内心で、私はミカゲに対して「ざまぁみろ」と舌を出していた。
アサヒにした様々な行為を反省して、地獄に行けばいいのである。
「でも、俺よりも生きる価値があるはずだ!」
アサヒの言葉に、私は苛立った。アサヒに苛立ったのではない。ゾンビが発生する前のアサヒを取り巻く環境に、苛立ちを感じたのであった。
アサヒの自己肯定感の低さは、間違いなく両親が原因だ。だからこそ、アザミは自分を殺しかけた人間まで許せてしまうのだ。
キョウコという姉がいたから、アサヒはまともに育つことが出来た。けれども、こんな緊急時だから本音が漏れてしまったのだろう。
「キョウコさんは、あなたを命がけで助けた。キョウコさんにとって、あなたは生きがいだったのです。唯一の大切な弟だったのですよ」
私は、大きく息を吸った。
この世界にやってきたことで経験した様々なことが、私の脳裏に蘇った。まるで、走馬灯のようであった。
「そして、私の生きがいでもある」
私の言葉に、アサヒは目を丸くする。
アサヒは、キョウコの代わりにすぎない存在だった。けれども、今となってはアサヒは私の可愛い相棒だ。
アサヒを傷つけた相手は、アサヒの気持ちのことも考えずに復讐したいと思うほどだ。それぐらいに、私はアサヒのころが気に入っている。
「自分のために自分を大事にできないのならば、私のために自分を大事にしなさい」
アサヒは、もう一度だけミカゲのことを見た。
群がるゾンビのせいで、ミカゲの姿は見えなくなっていた。ミカゲは、噛み傷だらけのゾンビとなるであろう。
ミカゲの醜いゾンビ姿を想像して、私の溜飲は下がった。この世界の現状では、なかなかに酷い死に方であったであろう。
「行きましょう」
私は、アサヒの手を引っ張った。
アサヒは、今度は躊躇いもなく走りだす。その速度に、私は安心した。
アサヒは、これからは立ち止まることはないだろう。私の為に、いつまでも走ってくれるはずだ。それが、私はとても嬉しかった。
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