第11話 アサヒ


 教室の端っこに、何かがあった。


 それは、巨大なミノムシのようなものだった。数秒の観察で、それはカーテンで包まれた人であると分かる。


 まるで死体袋のようであったが、白い紐でぐるぐる巻きにされている。わずかに動いているので、中身の人間は生きてはいるのだろう。今の世の中では、死んでいても動くのだが。


「ゾンビだったら、嫌ですね」


 私は、棒の先でカーテンに包まれたものを突いた。金のボタンをしていた少年たちの言うには、この部屋にキョウコの弟を閉じ込めたらしい。


 ならば、このカーテンのミノムシがキョウコの弟ということになる。


 私は、白い紐を解こうとした


 中身がゾンビであったら、即座に対処できるように気を使いながらの作業であった。


「それにしても、不思議な紐ですね」


 紐はロープというわけではないし、布製ですらなさそうだった。つるつるしているし、結び目も固くなっていて解くのが酷く難しい。


 私は手で解くのをあきらめて、ハサミを探した。そのハサミでもって、私は白い紐を断ち切る。


 解くのがあれほど難しかった白い紐は、簡単にハサミで切れてしまった。丈夫だと思ったら、すぐ切れてしまうとは……不思議な紐である。


 この世界の高い技術力は、細部の至るまで浸透しているらしい。これなら、生き残るための物資も私が考えるよりも簡単に手に入るかもしれない。


 そんなことを考えながら、私はモップの柄を握った。カーテンの中から、人型が現れたからである。


 ゾンビであったら、頭を叩き潰す。そのために、私は構えたのである。


「ぷはぁ!」


 カーテンから出てきたのは、少年だった。


 驚くほどキョウコに似ている少年は、彼女の弟に間違いない。一目見ただけで、水以上の血の濃さを感じる顔であった。


 キョウコはうっすらと化粧をしていたが、少年は男が故に化粧をしていないはずだ。しかし、彼のぱっちりとした瞳やきめ細やかな肌を持っていた。赤い唇は、何も塗っていないはずなのに艶やかだ。


 この世界には男も化粧をする文化がある、と言われたら納得してしまうほどの美貌だった。キョウコと服を取り替えたら、私は彼を女性だと勘違いしたであろう。


「あいつら人のことを縛ったくせに、置いていきやがって……」


 文句を言った少年は、私の方を見た。


 姉と似た大きな瞳を見開いて、私を見つめている。私が誰だか分からないし、この場にいる理由も分からないという顔をしていた。


 私は制服を着ていないし、教師でもない。彼と同じ立場であったら、私だって警戒をするだろう。


 ましてや、今は緊急時だ。


 わざわざ自分を助けに来た人間だとは、考えにくいであろう。もっとも、彼がゾンビで溢れている外の世界のことを認識できているのかどうかは分からないが。


「えっと……助けてくれたんだよな。あ……ありがとう」


 キョウコの弟は、たしか名前はアサヒといったはずだ。キョウコ似の美貌の弟は、声はしっかりと低かった。ここまで低い声ならば、アサヒを女と間違えることはないであろう。


「私は、あなたの姉の同僚です」


 私は、簡単な自己紹介をした。


 アサヒがどこまで状況を理解できているかは分からないが、信用してもらえなければ教室から連れ出すことも出来ない。


「お姉さんのキョウコさんに頼まれて、あなたを助けに来ました。あなたは、アサヒ君で間違いはありませんね?」


 キョウコの名前を出した途端に、アサヒの顔が明るくなった。まるで子犬のような笑顔を見せており、その表情でさえもキョウコに似ている。


 私は思わず笑いたくなったが、なんとかこらえた。笑った理由が、姉と似すぎていたからというのは初対面の男子には言いづらい。


「姉さんは無事なのか!」


 その言葉は、答えにくかった。


 今のところキョウコは正気を保っているが、ゾンビに噛まれてしまっている。無事とは言い難い。しかし、アサヒに真実を話して自暴自棄になられても困る。


 アサヒには、キョウコが亡くなった後に私を案内するという役割があるのである。自分の身ぐらいは、守ってもらわなければ。


「まさか、姉さんは……」


 アサヒの顔色が、いっきに悪くなる。


 この瞬間だけ、私の感情がらしくもない方向に揺れた。柄にもなく、アサヒが可哀そうになってしまったのだ。


 キョウコに、何度もアサヒのことを聞いていたせいであろうか。会ったこともないアサヒに、私は親しみを持っていたのである。


 そうでないとしたら、柄にもなく子供を可哀そうだなんて思うはずもなかった。


 人殺しの適正があった私の倫理観は壊れているはずだし、今まではあまり他者に興味関心を持つ方ではなかった。


 だから、私は自分の心に戸惑ってしまった。それでも、その戸惑いは表に出さない。


 アサヒには、善良な大人であると印象付けなければならない。そうでなければ、信用を勝ち取るのは難しいであろう。


「キョウコさんは……無事ですよ」


 私は、嘘をついた。


 キョウコは、無事ではない。足を噛まれて、ゾンビになることが決定している。あるいは、もうなっているかもしれない。


 それでも、私の嘘でアサヒの顔色が明るくなる。


 そのせいもあって、私は自分の嘘に価値があったかもしれないと思ってしまった。これで、アサヒが自暴自棄になる可能性はなくなったからである。


 だか、嘘は嘘だ。


 キョウコとアサヒが再会すれば、私の嘘は簡単に明らかになるだろう。それでも、私はアサヒを失うわけにはいかなかった。


「良かった……」


 アサヒは、安堵していた。


 姉の安否が、よっぽど気になっていたのであろう。


「姉さんは強いから、心配することないと分かってはいたけど。ゾンビだらけになってしまったから、心配をしていたんだ」


 アサヒは、周囲をきょろきょろとして何かを探す。


 いったい何を探しているのかは、私には分からない。刃物のたぐいだろうかとも思ったが、よく考えたら教室に刃物なんてあるはずがない。


 私は学校に通ったことはなかったが、さすがにそれぐらいは分かる。


 しばらく待っていれば、アサヒは顔を輝かせた。「さすがに、これは持って行かなかったみたいだな」と呟きながら、教室の端に追いやられていた紫色の細長い袋を手に持つ。


「それは、なんですか?」


 私の言葉に、アサヒは不敵に笑った。


 細長い袋の中身には、よっぽどの自信があるのであろう。何が入っているのかは、私はまったく分からなかったが。


「姉さん、強いだろ。あの見た目で、学生時代はカラテの大会にも出ていたんだ」


 あの見た目というが、私にはキョウコとアサヒには大した違いがあるようには見えない。


 しいていれば、アサヒの方が身長は高いだろうか。二人の違いは、それぐらいである。


「俺の家族は、武道っていうやつが好きで色々とやっているんだ。姉さんは、空手。俺は、弓道ってな」


 アサヒが手にした袋から出てきたものは、大きな弓と矢であった。細いアサヒが扱えるのかと心配になったが、顔に似合わない蹴り技を持っていたキョウコを思い出す。


 ゾンビには噛まれてしまったが、普通の人間相手ならばキョウコは負けなかったに違いない。


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