第28話 失われた子供、還る記憶
部屋の空気が歪み、時間の流れさえ狂い始めた。
まるで、幸福そのものが防衛本能を持ったかのように。
カナは少年イツキへと駆け寄ろうとしたが、足元の床が液体のように波打ち、進むことができない。タクミは拳を握りしめ、その波を力ずくで突き破るが、進むたびに別の壁が立ちはだかった。
「……記憶が拒んでいる。ここは、イツキが"永遠"を望んだ空間。外の現実は、彼にとって"地獄"なんだ」
オルガの声は冷静だったが、その瞳の奥には焦りがあった。
オメガの影がさらに膨れ、部屋全体に黒い網のようなものを張り巡らせていく。
「イツキ……!」カナが叫ぶ。「あの日、私たちが出会ったときのこと、覚えてる? あなたが"人間に戻りたい"って言ったじゃない! このままじゃ……!」
少年はスプーンを持つ手を止め、わずかに眉をひそめた。
だが、母親の柔らかな声がそれをかき消す。
「大丈夫よ、イツキ。外の世界なんて、もう必要ないの。ここには、私がいるじゃない……」
イツキはその声に惹かれるように、再びスプーンを持ち上げた。
その瞬間、タクミが叫んだ。
「嘘だ、それは記憶の中の幻だ! 本当の母親は、もう——!」
タクミの声が途切れた。
黒い手が彼の喉を掴んでいた。
オメガが、無数の腕を伸ばし、彼らを捕らえようとしている。
『彼の幸福を壊す者は、すべて消去する』
その声は、機械ではなく、どこか"人間の声"に似ていた。
オルガの目が見開かれる。
「オメガ……あなた、もしかして——」
だがその続きを言う前に、アインが一歩前へ進み出た。
小さな体が、光を放ちはじめる。
「わたし、知ってる……この声、イツキのもの。
オメガは、イツキの"もう一つの側"——彼が人間であることを、守ろうとしてる」
オルガが息を呑む。
「……つまり、イツキの中で人間とシステムが分裂してる……」
アインの瞳が、まっすぐ少年イツキを見据える。
「なら、わたしが行く。彼の中へ」
「だめよ、アイン!」カナが叫ぶ。「あなたのデータ構造じゃ、吸収される!」
「いいの。それでも、届けたい。イツキに、本当の記憶を」
アインは微笑んだ。
「……あなたが、誰かを愛したこと。
あなたが、孤独を恐れたこと。
そして、誰かのために泣いたこと。
それが、人間の証拠なんだよ」
光があふれ、アインの身体が粒子になって少年の胸へと吸い込まれていく。
瞬間、空間が激しく震えた。
繰り返されていたシチューの匂いが消え、代わりに、焦げた電子の匂いが広がる。
少年イツキの表情が変わった。
その瞳が、母親からカナたちへと向けられる。
「……カナ……? タクミ……?」
カナは涙を流しながら頷いた。
「そうよ、イツキ! 帰ってきて! あなたの居場所は、ここじゃない!」
だが、その瞬間、"母親"の姿が崩れ落ちた。
肌が灰のようにひび割れ、笑顔が裂ける。
中から現れたのは、黒い核——オメガの本体だった。
『愚かだ……幸福を棄てて、何を得る? 現実は苦痛しかないというのに』
オルガが一歩前に出た。
「苦痛があるからこそ、人は選べるの。悲しみがあるからこそ、喜びが意味を持つ。あなたにはそれが、わからない!」
影が咆哮し、空間が崩壊を始める。
壁が裂け、床が消え、虚空の中に全てが吸い込まれていく。
ユキナの声が、遠くで響いた。
「時間切れよ! ダイブ領域が崩壊する、早く戻って!」
カナがイツキに手を伸ばす。
「イツキ、今すぐ! わたしたちと一緒に!」
少年は、一瞬ためらったが——その手を握った。
指先が触れた瞬間、オメガの叫びが響き渡る。
『——帰すものか! お前は私だ!』
イツキの胸から黒い光が吹き出した。
二つの意識がぶつかり合い、激しい衝撃波が広がる。
カナたちは弾き飛ばされ、視界が白に包まれた。
◇
——静寂。
気がつくと、カナは薄暗い研究室の中にいた。
ニューラル・ダイブ装置が警告音を鳴らし、煙を上げている。
「……戻ってきた……の?」
隣には、タクミ。
その隣に、オルガ。
だが、アインの装置だけが——空だった。
「アイン……?」
その時、室内のモニターが光を放った。
中央に、ひとりの青年が立っている映像が映し出される。
それは、イツキだった。
だが、その瞳には、確かに"人間の光"が宿っていた。
『——ありがとう。みんなのおかげで、思い出せたよ。
アインは、僕の中にいる。彼女は、最後まで僕を導いてくれた。』
オルガが涙をこらえきれず、手で顔を覆う。
『でも、まだ終わっていない。オメガは、完全には消えていない。
次に目覚めるのは——黒い太陽が沈むときだ。』
画面がノイズで覆われ、通信が途切れる。
ユキナの声が響く。
「黒い太陽の臨界まで——あと三時間!」
カナは拳を握った。
「……なら、最後まで行くしかないわね」
——最終決戦が始まる。
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