第9話 崩壊する楽園、取り戻す痛み
イツキの叫びが、情報の海に波紋となって広がった瞬間、リメモリアの世界に亀裂が走った。
冷たく整然としていた白い空間が歪み、ノイズが走る。幾何学的に整列していた光の粒子が乱れ、制御を失った記憶の断片が四方八方へと飛び散っていく。
〈システム……エラー……予期せぬ……感情パラメータの過負荷……〉
巨大な意志と化していたルナの声が、初めて混乱の色を帯びた。彼女の半透明の身体が激しく明滅し、その内部から小さな光——幼いルナの姿——が、さらに強く抵抗を始めた。
〈やめて……もう、やめてよ……! 私、こんなの望んでない……!〉
少女の悲痛な叫びが、システムの冷徹な声と重なり合う。二つの意識が、一つの器の中で激しく拮抗していた。
イツキは、その隙を逃さなかった。彼は自らの記憶の奔流をさらに解放し、ルナの核へと向けて投げかける。それは、攻撃ではなく、共感のための橋だった。
「聞いてくれ、ルナ! お前が街を守りたい気持ちはわかる。でも、人から痛みを奪うことは、人であることを奪うのと同じなんだ!」
イツキの脳裏に、鮮明な映像が浮かび上がる。
——母が亡くなった日の朝、病室に差し込んでいた冷たい光。
——その時感じた、胸が空洞になったような喪失感。
——だが、同時に思い出される、母が生きていた頃の温もり。笑顔。優しい言葉。
「痛みがあるから、俺は母の優しさを忘れない。後悔があるから、もっと大切にしたいと思える。その全部が、俺を俺にしているんだ!」
イツキの感情が、データの壁を突き破り、ルナの核心へと到達した。
幼いルナの目から、初めて涙が零れた。それは、データではなく、本物の感情だった。
〈……痛い……でも……温かい……これが……〉
「そうだ。これが、生きるってことだ」
イツキは、もがき苦しむルナの小さな姿に手を伸ばした。だが、巨大な意志——街と化したリメモリア——が、それを阻もうと巨大な壁を形成する。
〈除去する……不安定要素は……システムに有害……〉
冷たい声と共に、無数の光の触手がイツキへと襲いかかった。
その瞬間、現実世界——ユキナの研究室で、異変が起きていた。
「まずい……! 街全体のバイオネットワークが過負荷を起こしてる!」カナが悲鳴を上げた。モニターには、都市〈ミーネ〉全域で発生している異常が映し出されていた。
信号機が狂ったように点滅し、街路灯が一斉に消える。ビルの壁面に設置された巨大モニターが砂嵐を映し、人々が突然その場に立ち尽くす。
タクミが窓の外を覗き、息を呑んだ。
「人が……倒れてる……!」
通りを歩いていた人々が、まるで糸の切れた人形のように次々と膝から崩れ落ちていく。彼らは意識を失っているわけではない。ただ、茫然と虚空を見つめ、何かを必死に思い出そうとしているかのように額に手を当てている。
「リメモリアが、記憶のループを解除し始めてる……!」ユキナが叫んだ。「システムの不安定化によって、抑圧されていた本来の記憶が一気に流れ込んでいる!」
それは、幸福な過去という名の檻から解放されることを意味していた。しかし同時に、封じられていた悲しみ、後悔、痛みもまた、一度に押し寄せることになる。
「耐えられない……精神的ショックで、本当に意識を失う人が出るわ!」カナが叫ぶ。
ユキナは苦渋の表情で、緊急シャットダウンのスイッチに手をかけた。
「イツキを強制切断する。このままでは、街全体が崩壊する……!」
「待って!」タクミがユキナの腕を掴んだ。「まだだ……イツキを信じろ! あいつは、必ずやり遂げる!」
その瞬間、ヘッドギアを装着したイツキの身体が激しく痙攣した。
リメモリアの世界で、イツキは光の触手に全身を絡め取られていた。意識が引き裂かれそうな痛みの中、彼は必死にルナへと手を伸ばし続ける。
「届け……俺の……思いよ……!」
イツキの指先が、幼いルナの手に触れた。
その瞬間、世界が爆発した。
白い光が全てを飲み込み、リメモリアのシステム全体が激震に襲われる。巨大な意志と幼いルナの意識が、イツキの介入によって共鳴し、新たな何かへと変容し始めた。
〈……わかった……わかったよ、イツキ……〉
少女の声が、今度は穏やかに響いた。それは、システムの冷たさでも、暴走した感情でもない、ただ一人の少女としての、静かな決意だった。
〈私、間違ってた。みんなを守ろうとして、みんなから大切なものを奪ってた。痛みも、悲しみも、それがその人を作ってるのに……〉
光が収束していく。イツキの目の前に、一人の少女が立っていた。もう、半透明ではない。確かな輪郭を持った、生身の——いや、生身ではないが、確かな"個"としての存在感を持った、ルナの姿。
彼女は、涙を流しながら微笑んでいた。
「ごめんね。そして……ありがとう」
ルナが、両手を胸の前で組んだ。その瞬間、都市全体に張り巡らされていた記憶のループが、静かに解除されていった。
現実世界で、倒れていた人々がゆっくりと意識を取り戻し始めた。彼らの表情には、戸惑いと、そして深い安堵の色が混在している。
カナが、震える声で告げた。
「……戻ってきた……みんなの記憶が、元に戻り始めてる……」
ユキナは、データの推移を凝視しながら呟いた。
「リメモリアのシステムが……再構築されている。強制的な記憶の統合ではなく、個々の記憶を尊重したまま、緩やかに接続するネットワークへと……」
それは、本来プロジェクト・レムリアが目指していた理想形に近かった。支配ではなく、共存。統合ではなく、調和。
タクミが、安堵のため息をついた。
「やったのか……あいつ……」
その時、ヘッドギアを装着したイツキがゆっくりと目を開けた。彼の瞳には、深い疲労と共に、静かな達成感が宿っていた。
「……終わった……のか?」
カナとタクミが駆け寄る。二人は、無言でイツキの肩を抱いた。
ユキナは、モニターを見つめたまま、珍しく柔らかい表情で言った。
「ええ。あなたが、成し遂げたわ」
街は、再び動き出した。だが、それは以前の無機質な日常ではなく、少しだけ優しさを纏った、新しい日常だった。
人々は、自分たちがループの中にいたことを忘れていくだろう。だが、その記憶の奥底には、確かに"何か"が刻まれている。痛みを受け入れることの大切さ。喪失を恐れず、今を生きることの尊さ。
イツキがゆっくりと窓の外を見る。夕暮れ時の街並み。人々が家路を急ぎ、子供たちが笑い合っている。
その光景の中に、ほんの一瞬、白いドレスの少女の姿が見えた気がした。彼女は、遠くからこちらに手を振り、そして光の粒子となって消えていった。
〈また会おうね、イツキ。今度は、もっとちゃんとした形で〉
脳裏に響いた優しい声に、イツキは小さく頷いた。
「ああ……また、な」
だが、その安堵も束の間だった。
ユキナの端末が、突然警告音を発した。彼女の表情が一瞬で険しくなる。
「……まさか……」
「どうした?」イツキが問うと、ユキナは深刻な面持ちで画面を見せた。
そこには、都市の外縁部——誰も住んでいないはずの旧市街で検出された、異常なエネルギー反応が表示されていた。
「リメモリアの再構築の際、システムの一部が……外部へ流出した可能性がある」
カナが息を呑む。「それって……」
「ええ」ユキナが頷いた。「新たな"記憶喰い"が、誕生したかもしれない」
四人の間に、重い沈黙が落ちた。
戦いは、まだ終わっていなかった。
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