第15話



「叡智の光環(エンノイア)」


「……では、始めよう。セツリ君の“理”を覆い隠すところから。」


 アルマは静かに告げた。

 夜気が薄く震え、空気の粒がひとつ、音を立てて消える。

 彼女は斜めがけのサッシュの内に手を入れると、一冊の古びた本を取り出す。皮装の表紙は擦り切れ、中央に刻まれた金文字は読めないほどに摩耗している。それでもその書物は、まるで呼吸をしているようにかすかに脈打っていた。


 アルマがページを開くと、空白が広がる。

 白――いや、“色という概念の無い白”が、ページの内側から漏れ出し、夜の闇を溶かしていく。

 大木の根元に手を添え、彼女は静かに歩を進めた。


「これから私は、叡智の光環を展開する。

 この空間を“理の外”に沈め、神の視界から隔てる。

 ……“彼ら”は理を汚されることを何よりも嫌うからね。」



声は、言葉というより“記録”だった。

 アルマが大木に手を触れるたび、木肌の奥で小さな光の粒が生まれ、

 やがてそれが宙に浮かび上がって、彼女の周囲を漂う。

 その光が触れた空気は重さを失い、

 葉が落ちることをやめ、世界は――動くことをやめた。




 セツリとクララが息を呑む。

 

息をしたつもりだったが、胸は上下しない。

音も風も、

その瞬間、風が止んだ。

 草のざわめきも、遠くの虫の音も、すべてが“概念として存在していない”ように静まり返る。


 アルマの瞳は淡い青を失い、無色の中に黄金の文字が浮かび、

 その光が一語ごとに“現実の糸”をほどいていく。



「……代償がある、と言ったね。」

 アルマは小さく笑った。

「『神の理を覗くとき、神もまた此方を覗いている』――

 つまり、少しばかり精神を持っていかれるだけさ。

 大丈夫、まだ笑える程度だよ。」


 その冗談めいた口調の裏で、空間は少しずつ形を失っていった。

 風景の輪郭が歪み、夜の草原が静止する。

 一枚の葉が枝を離れ、しかし落ちない。

 時間が息を止め、重力が世界を掴み損ねた。


 セツリは無意識に息を吸おうとした。

 だが空気は肺に届かない――それでも苦しくはなかった。

 クララと視線を交わした時、互いの口も、音も、存在の輪郭さえ薄れていく。


 アルマが詠唱を始める。

 だがそれは声ではなかった。

 音を持たぬ言葉が、意味だけを残して空気に沈む。

 黄金の光がアルマの周囲を漂い、やがて頭上に輪を描いた。

 それは“光の環”ではなく、“概念としての輪”――

 神が創った理の象徴そのものだった。


 髪を結う白金の三編みが空にほどけ、

 彼女の頭上に光の環が――廻り続ける…。


 世界は、沈黙の中で再定義されていく。

 ――重力、無効。

 ――因果、待機。

 ――存在、保留。

---


『第一段階――読理(どくり)。

 世界の理を理解する。

 自然法則および魔法構造の解析――クリア。』


 耳で聞くのではない。

 “認識”の内側に声が刻まれる。


『第二段階――黙理(もくり)。

 神の言葉を“読まない”ことによって奇跡を無効化する。

 ……クリア。』


 アルマの周囲を舞う光粒が、一瞬にして闇を喰らう。

 星々の輝きさえ彼女の周囲から消え、夜空に穴が開いたようだった。


『第三段階――覆理(ふくり)。

 触れた者と空間を“理の外側”として保護する。

 存在を世界から隠蔽――クリア。』


 その瞬間、セツリとクララは“世界から切り離された”。

 音も、風も、匂いも、すべてが記憶の中でしか存在しなくなった。

 残るのはただ、アルマが放つ“黄金の理”の流れだけ。


 アルマの頬を、一筋の赤が伝う。

 それは涙ではなく、血だった。

 それでも彼女の表情は静かで、神に祈るように穏やかだった。



---


 クララは叫ぼうとした。

 だが声が出ない。空間が“音という仕組み”を拒絶しているのだ。

 彼女は駆け寄ろうとしたが、セツリが腕を掴んだ。

 それはいつもの優しい手ではなく、必死に支えるような力強さだった。

 その瞳には、痛みと恐怖と――そして、何かを理解した者の覚悟が宿っていた。


『第四段階――偽典(ぎてん)。

 神の理を書き換え、“偽の理”を一時的に生成する。

 ……許可、申請中。』


 沈黙の中で、黄金の文字がひとつ、またひとつと空白のページへ刻まれていく。

 書くのはペンではない。

 ――世界そのものが、アルマの意思に応じて文となっていた。


 ページが震えた。

 そして、世界がひとつ“息を吐いた”。


『第四段階――クリア。

 《理の覆い(アポクリファ)》、発動を許可。

 対象の理を再定義。

 ――新たなる名を、**畜産命紡ぎ**とする。』


 文字が世界に流れ込み、セツリの身体をやわらかく包む。

 優しい風が戻ってきた。

 それは神の加護ではなく、“再構築された現実の息吹”だった。


『その理を告ぐ。

 この者が世話した命は最適な形を保ち、魂は巡り、次代へと渡る。

 怠慢と虐げによりその輪が断たれたとき、生命は応え、滅びをもたらすだろう。

 象徴――草冠の印。

 代償――魂の循環を背負う宿命。』


 そして、最後にアルマの声が優しく響いた。

 それはもう、詠唱ではなく、祈りだった。


『――少年。これで、もう大丈夫だ。』


 葉が一斉に舞い落ちた。

 音を取り戻した世界の中で、アルマの身体がふっと崩れ落ちる。

 セツリとクララは同時に駆け寄る。


 彼女の頬には血の跡が残り、光環は、静かに夜空へと消えていった。

  



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