悪魔と過程と結果

@eris_rita

イントロ

「私には悪魔が憑いている」


 ここで言う私というのは、今年で17歳を迎えた高校二年生の阿久原 聖(あくはら ひじり)のことだ。

 聖という名前は、苗字の読みでもある「悪」に対して少しでも、印象が良くなるように両親がつけた名前である。物心ついたときには、悪に対するのであれば善や正という漢字のほうが良かったのでは、とも思ったが、まぁ自分の名前としては気に入っているので、これはこれで悪くはない。

 趣味や好きなものもありきたりな物ばかりで、語るには値しないと思い割愛する。勉強やスポーツも良くもないし、悪くもないといった感じだ。

 さて少し話が脱線したが、そんな特徴の乏しい私を語る際にもっとも重要な部分について語るとしよう。


「私には悪魔が憑いている。」


この言葉を聞いたとき多くの人は、頭に盛大なクエスチョンマークを浮かべるだろう。もし私が当事者でなければ同じような反応をし、一笑に付すだろう。しかし結果として私には悪魔が憑いている事は事実であり、今もなお発生している事象であるのだ。

 現代に生きる人々は悪魔と聞き、どのような連想をするだろうか?おそらく多くの人は良くないものとしてイメージするだろう。私の中にいる悪魔も良いものではないのは確かだが、私はあくまでも自身に憑いているソレを悪魔と呼称しているだけなのだ。

 では、その悪魔とは何をもって悪魔なのか、できる限りわかり易く表現すると、悪魔は私が願いを捧げると願った通りの結果をもたらしてくれるのだ。これを聞いた人は、それのどこが悪魔なんだむしろ天使や神ではないかと言うだろう。それは大きな間違いである。ここで重要なのは、願い通りではなく、願った通りなのである。つまりは、結果として願いは叶う形にはなるが、その過程で起きる事象については全て予測が不可能であるのだ。簡単な例を出すとするなら、「大金持ちになりたい」と願った場合、家族が事故に遭い、保険金が手に入る等必ずしも、願いに対して良い過程が起きるとは限らなく、想像を超える不幸を招くことにもなりうるのだ。まだここまでならば納得はできるが、この悪魔は願いを音声として聞き取ることしかできず、「大金持ち」を「大鐘持ち」に誤変換するような、間違いも起こすのだ。つまり殆どの願いは自身の思ったようには叶わないのだ。私が過去に読んだ本やプレイしたゲームの中には、このように人の願いを逆手に取り、不幸を与え最終的には魂を奪う存在を目にしたことがある。そしてこの悪魔は私には姿を見せず、願った時に聞こえる「分かった」とカウントダウンの「3、2、1」そして(望まない)願いが叶ったときの「クスクス」という笑い声だけが聞こえるのだ。以上の底意地の悪い願いの叶え方と笑い方から、私はソレを悪魔と呼称することにした。


この物語は願いを叶えたい平々凡々な私と

願いを叶えたい底意地の悪い悪魔との日常における戦いの日々なのである。

 

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