第16話 水町との約束

「綾人、ちょっといい?」


 金曜日の午後、水町に声をかけられた綾人はサーッと血の気が引くのを感じた。そういえば、数日前に水町から話があると言われて会う約束をしていた。そして、たった今それを思い出してしまった。


 顔を見るまですっかり忘れていたということは、約束を保護にした挙句一週間連絡をしていなかったことになる。綾人は半ギレの水町の顔を見ながら、激昂されるに耐える心の準備をすることにした。


「あ、なんかようやく思い出した感じですか、綾人さーん? ずっと連絡待ってた私、可哀想じゃないですかー?」


 水町が珍しくネチネチと責め立ててくることに、ツッコミを入れる勇気も持てない。それほどに申し訳なさを感じた。約束を破ったことも信じられないけれど、その後の対応が不味過ぎる。自分が彼女にこんな酷い扱いをするなんてあり得ないと言う想いに、押しつぶされそうになっていた。


「ごめん! すっかり忘れてた……、ちょっと色々あってさ」


 すると、水町は腕を組み、ふんっと鼻を鳴らして仁王立ちをする。そして、綾人に思い切り噛みついて来た。


「そうだよねー。綾人くんは穂村くんとチューするのに、めーっちゃ忙しいですもんねえ。チュー。すんごい噂になってるんですけど。おかしいなー? 私何にも聞かされてないんだけどなー」


「……え? うそだろ? う、うわさに?」


「そりゃなるでしょ! なってるよ! 二人とも美形なんだから、何もなくても結構みんなに見られてるんだよ。その二人がチューしてたら、そりゃ見るでしょ。私だって何回か見かけたしね」


 綾人は持っていたバッグで壁を作り、水町に顔を見られるのを全力で阻止した。確かに、最近はタカトがどこでも愛情表現をするようになってきて、見られ無いようにする方が難しいような状態が続いている。


「まじか。いやお前は見てないで言ってくれよ……」


 最近はめっきり告白されなくなっていて、周りにタカトとの関係を気づかれてるんだろうなということくらいは、綾人にも薄々わかっていた。そして、それを躍起になって否定して回る必要も無いかなと思い、そのままにしておいた。


 実際に付き合っているわけだし、綾人には残された時間が少ない。だから、関係性を隠すことに労力を割いている余裕が無いのだ。

 ただ、友人にそれを面と向かって言われるのは恥ずかしい。カバン一つでもいいから、水町との間に隔てるものが欲しくて必死だ。


「いつからそんなことになってたのよー? あ、だからご飯はダメだって言ってた? デートだから? それならそうと言ってくれればいいのに。まあ、それなら穂村くんと三人でって、言うだけなんだけど」


「どうしても飯時じゃないと嫌なんだな。お前がそういうこだわり持つのって珍しくない?」


 綾人には、なぜこんなに水町が時間帯を気にしているのかがずっと謎だった。これまで、一度もこんなにしつこく何かを頼まれたことは無かったように思う。彼女はどちらかというとあっさりした人間関係を好んでいて、むしろ綾人からお願いをして何かに付き合ってもらうことのほうが多いくらいなのだ。


「結構遅い時間じゃないと会えない人に会って欲しいの。会うって言うより、覗くんだけど。綾人がその人を見たことがあるかどうかも知りたい」


「お前さあ。それだけで時間取るほど俺も暇じゃないよ。せめてその人は誰なのか、そしてなんでそんなことする必要があるのかを、ちゃんと教えろよ。タカトん時とは事情が違うだろ? わざわざ夜に人を見るために出かける余裕ないぞ」


 水町は顔を上げ、天を仰ぐようにして深呼吸をした。そして、綾人の方へと向き直ると、いつものものとは違った色を目に宿し、落ち着いた声で綾人に言い聞かせるように話し始めた。


「瀬川くん、生き霊がついてるって貴人たかひと様が言って無かった? しかも貴人たかひと様曰く、簡単に辿り着けそうにない相手らしいじゃない。実はさ、もしかしたらこの人じゃ無いかなって、思い当たる人がいて」


 綾人は眉を顰めた。水町はなぜこの話を知っているのだろうか。いや、瀬川事件のことを知っているのはいいとして、生霊に思い当たる人がいるのなら、なぜ貴人たかひと様に直接そのことを言わないんだろう。そう考えて、ふとあることに引っかかった。


——あれ? そもそも水町に貴人たかひと様の話ってしたことがあったか?


 水町は割と勘が鋭い。だからと言って、綾人とタカトの様子を見て何かに気がつくことがあったとしても、さすがにタカトに神が憑いているなどと思う人は、なかなかいないだろう。


 それなのに「貴人たかひと様」と名前まで持ち出してきた。それに、ここ最近の水町の言動や行動にもやや謎があった。綾人が金曜日のボランティアに誘った時も、なんとなくはっきりしない理由で断ってきた。それは、これまでの水町にはあり得ないことだった。


 何か隠し事をしているように感じた綾人は、ほんの少しだけ胸に痛みを感じていた。自分たち二人の間に隠し事が存在する日が来ようとは、少しも考えたことがなかった。


「なあ、お前何か俺に隠してない? それを隠したまま一緒になんか探るのって、ちょっと違う気がするんだけど」


 すると、水町はあからさまに狼狽えた。ただそれが、どうにも演技のように見える。それが何を意図しているのかが綾人には全くわからない。これほど真意の見えない水町は初めてで、まるで初対面の人と話をしているようだった。


「と、とりあえず、今日の夜、駅に集合ね! 今日こそ来なさいよ!」


 と言いながら水町は去っていった。


「怪しい」


 これはちゃんと確かめてみたほうがいいかもしれない。そう思った時、ふと綾人はタカトが言っていたことを思い出した。


——「水町さんは、気がついているかもしれないね」


 タカトもまた、水町に関して何かを知っていて、それを綾人に隠しているのかもしれない。


「え、もしかして俺だけ知らないことがあるのか? それは……ちょっと嫌だな」


 もしそうなのであれば、綾人にとって少ない友人のうちの一人と唯一の恋人に隠し事をされていることになる。しかも、それはおそらくとても大切なことだ。知らせてもらえないことへの寂しさが、胸にチクリと刺さる。


「あー、もう! 悩む時間ないだろ、俺! 直接聞くぞ!」


 綾人は大声で独り言ちると、スマホでタカトの連絡先を表示した。そして、ついさっきまで一緒に活動していたタカトに、メッセージを送る。


『十八時、駅前集合。

 水町と三人で。

 瀬川の件』


 今日はすでに全ての予定は終了している。ボランティアも休みの日だった。水町もタカトと一緒でいいと言っていたから、三人で話していろんなことを早くスッキリと解決したくなった。


『了解ー』


 その返事の速さと軽さに、綾人は固くなっていた心が僅かに柔らかくなるのを感じる。それが自分だけの知っているタカトなのかもしれないという思いが、思わず顔を綻ばせた。


 体の内側で温度がほんの僅かに上がって、それが不思議と気持ちまで軽くしてくれるように感じる。これまで自分の中に小さくなって隠れていた本当の自分が、大きく伸びをして飛び出してきたように、心が軽くなった。


 なんでも簡単に手に入っていた綾人にとって、唯一手に入らないものだった恋人という存在。友人の恋人関係が羨ましくて仕方がなかった。これまでどれだけ言い寄られても、どうしても誰のことも好きになれなかったのに、タカトの花が咲いたような笑顔を見るたびに、もっと近づきたいという思いが募っていく。

 

——十八時には、また会える。


 昼も一緒にいたのに、次の約束をそわそわして待つ。この気持ちが持てるようになったことだけでも、今の人生に意味があるように感じられた。


「はあー、好きってすごいな。でも、ドキドキし続けんのもしんどいな」


 待ち合わせまでの二時間がずっとこの調子だと心臓が壊れてしまいそうだ。すこし落ち着いてから出かけるために、少しゆっくりしておこうと思い、綾人は家路を急いだ。



 綾人の家は、大学の正門から歩いて二十分ほどのところにある。大学進学と同時に自立のために一人暮らしをしようかと考えたこともあったのだが、両親の仕事のサポートをするために家に残ることにした。


 実家通いとはいえ、割と自由な生活を好むこの家での生活は、これといって不満が無い。両親が細かいことを気にしない人たちで、遅くなるなら連絡さえすればいいし、急に泊まることになっても何も咎められ無いからだ。


——それもこれも、空手のおかげだけどな。


 綾人は見た目の影響で、よく女の子扱いをされては色んなところで絡まれた。自分から危ないことはしないようにしているけど、夜道で絡まれたりした時は、二発くらい先手を打ってそのまま逃げるようにしている。


 それは、下手に応戦しようとすると、確実に体格差で負けるのが目に見えているために、自然と身につけていった知恵だった。ルールのある世界では勝てたとしても、道端で喧嘩を売ってくる人間に「階級が違うから戦えないぞ」なんて言っても通じるわけがない。


 いきなり喧嘩を売るなんて非常識な行動をする人間に、常識を求めるなんてそもそも間違っている。そういう用心深い性格だったからか、両親からの信用が厚い。昔から放任主義で、かなり自由にさせてもらっていた。


「ただいま」


 綾人は玄関ドアを開けながら、大きめの声で呼ばわった。そうすると、奥で仕事をしている母にも聞こえるからだ。


「おかえりー!」


 奥の部屋で作業をしている母から、綾人に負けないくらいの大きな声が返ってくる。綾人はそれを確認すると、そのまま階段を上がって自室へと向かった。

 ガチャリとドアを開けるとバッグを投げ出し、陽の差し込むベッドに身を投げ出して倒れ込んだ。


「あー、めっちゃくちゃ気持ちいいー! やっべえー。めっちゃくちゃねむーい……」


 ゴロンと寝転がったと同時に、ウトウトと眠気に襲われた。春先はいくらでも眠れる気がする。自室の布団は日に照らされて、フワフワになっていた。

 母が干していてくれていたのか、ふわりといい香りがする。綾人は、日に当たったファブリックは、太陽の光から人を幸せにする成分も吸収するんだと信じている。その恩恵に預かるため、思いっきり布団の匂いを吸い込んだ。


「ふあー、幸せ。この匂いに包まれて爆睡したい……」


 でも、今眠ってしまうと絶対に待ち合わせに間に合わないだろう。そうなると、今度は水町に怒鳴られるに決まっている。綾人はふかふかの布団の誘惑を必死で断ち切ると、体を起こして胡座をかいた。


「瀬川についてる生き霊かー。そこまで恨むようなことをされた子がいたのかな……。あ、そういえば今日はまだ瀬川の様子を見に行ってないんだった」


 綾人は一人で眠り続けている瀬川のことが心配で、出来るだけ毎日様子を見に行くようにしていた。ただ、綾人の家から駅と瀬川の家は逆方向にあたる。そうなると待ち合わせ前に瀬川の家に行くのは少し面倒だ。


「そういえば、タカトのうちが瀬川のうちと同じ方向だったな」


 瀬川の家は、タカトの家から駅に向かう途中にある。待ち合わせに向かうついでに寄ってきてもらおうと思い立ち、スマホを持ち出してタカトにメッセージを送った。


『待ち合わせの前に、瀬川の様子を見てきてくれないか?』


 すると、間髪を入れずにタカトから着信があった。テキストを打つより話したほうが楽だったのかなと思いつつ、慌てて通話をタップする。


「もしもし……」


『綾人か』


 慌てて応答した電話の向こうで話し始めたのは、タカトではなく貴人たかひとだった。綾人は二人の違いにも慣れ、今は声と話し方だけでもわかるようになっている。


 その自信溢れる雅な声の持ち主が、ふわりと微笑んでいる姿が目に浮かぶ。名前を呼ぶ声が甘くて優しくて、聞いているだけで顔が赤くなってしまいそうだ。


「たっ、貴人たかひと様! どうかしたんですか?」


 貴人たかひとは綾人が慌てる様子にふふっと笑い声を零した。ほんの少し顔がくしゃっとなったのだろうというのが伝わる。とても嬉しそうな声をしていた。


『先に連絡してきたのはお前だぞ』


 彼は楽しそうにくすくすと笑っていた。

 確かに先にメッセージを送ったのは綾人だ。でも、綾人が話をしようとしたのはタカトで、それを直接貴人様に言うのは憚られる。


 それをどう切り出そうかと悩んでいると、ふと疑問が湧いた。貴人たかひとがこの時間に出てくることはとても珍しい。もしかして、タカトに何かあったのだろうかと心配になった。


「あの、タカトはどうかしたんですか?」


 気を遣ったつもりが、返って不躾な切り出し方になってしまった。気がついた時には既に遅く、貴人たかひとはあからさまに機嫌を損ねたようで、分かりやすく声を落とした。


『ああ。今、少し用があってな。俺の都合で体を借りているんだ。少し待て』


 珍しくトゲのある声音で短くそう答えると、すぐに押し黙ってしまった。綾人は慌てたけれど口の挟み方がわからず、スマホを握りしめたまま様子を窺っていた。


 するとすぐに『綾人? 何かあった?』と今度はタカトが答えた。タカトもまた、急に入れ替わりが起きたことで、状況が把握できずに困っていた。


『も、もしもし? あー、綾人もしかして貴人たかひと様のご機嫌損ねた?』


 タカトは自分の体内にある意識を探る。そして貴人たかひとがやや落ち込んでいるような状態にあることを把握した。怒っているというよりは、拗ねている状態に近い。


「うん、そうみたい。でも、貴人たかひと様それについて何も言わないから、謝ることもできなかった……」


 綾人が落ち込み気味にそういうと、タカトが『ああ、ごめん。多分それは俺のせいだから。ちょっと色々あって。気にしないで。俺がそのうち謝っておくから』と答えた。


「え? そう? そうなのか……わかった、ありがとう。頼むよ」


『で、綾人の用件は……瀬川の様子を見てきてってこと? 貴人たかひと様が今教えてくれた』


 貴人たかひとが表に出ていない状態だと、体内で二人の意識は疎通できるらしい。ただし、逆の状態、つまり貴人たかひとが表に出ていると、タカトの意識は眠っている状態になる。


 そのあたりは綾人には計り知れない力の強さというものがあるのだろう。それにしても、一人の体内で二人がやり取りをするなんて、綾人にとってはただただ不思議で仕方が無い。


「あ、うん、そう。駅で水町と待ち合わせしてるから、俺が瀬川んちに行くとちょっとバタバタするからさ……」


 瀬川の話を始めた途端、通話がビデオ通話に切り替わった。その画面に映ったものを見て綾人は驚いてしまった。タカトの手がペンを握っていて、文字を書いている。ただ、それはタカトの字では無かった。筆と墨で書いたような流れる書体の文字が綴られていく。内容からしても、手だけが貴人たかひとの意思で動いているのがわかった。


『誰の生き霊なのかはわかった。ただ、なぜその者が瀬川を攻撃したのかがわからない』


「えっ!? わかったんだ。じゃあ水町とは会わなくてもいいってこと?」


『まあでも、水町さんが何を話そうとしているのかはわからないし、取り敢えず待ち合わせには行こうよ。その前に、瀬川んちには俺が寄ってくるよ』


「サンキュー。あとで貴人たかひと様には謝るから、瀬川のこと頼むよ!」


 そう言いながら綾人は両手を合わせてタカトを拝んだ。

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