第3話 好きになれるか、なれないか。

 綾人は、空手でケガをした人やアザが浮かんだ顔などを見慣れている。だから穂村のアザが殴打によって出来たものだという事がすぐに分かった。

 そんなケガを見慣れた彼でも、思わず目を見張ってしまう。穂村の右目は、それほどに酷い状態だった。


 綾人のその反応を見て察したのか、穂村は手で右目を覆い隠した。そして、唇を噛み締めながらバタバタと教室を後にする。教室を出る時、彼のそばで小さな光が一瞬煌めいた。そのすぐ後に、鼻を啜る音が聞こえてくる。


「もしかして……泣かせた?」


 見られたく無いと言っていたものを見てしまった。そのせいで人を悲しませてしまった。それも、今自分が恋に落ちたかもしれない相手の心を抉るような事をして……。その事実が、綾人の胸を刺した。


「ねえ、綾人。あのアザ、どうしたんだろうね。私には人に殴られた痕に見えたんだけど……。先生に報告する?」


 綾人は胸に疼痛を抱えたまま、穂村が出て行ったドアの方を見た。同じ事をしたにも関わらず、彼女は平然としている。穂村に対して失礼な態度をとったにも関わらず、それよりもあのアザのことが気になるようだ。

 あまりに無神経なその振る舞いに、綾人はやや疑問を抱く。彼女はこんなに不躾な事をする人だっただろうか、そう思わずにはいられなかった。


「ねえ、どうする?」


 そのことが気にはなったものの、目の前で繰り返される問いかけにも答えなくてはならない。綾人自身も気になっていた。あれを知った自分達は、一体どうすべきなのだろうか。


 あれは、恐らく殴られた時にできるアザだろう。それは間違いないはずだ。

 だからと言って、大して親しくもない自分たちが、その事に踏み込んでいいのだろうか。それが分からない。少なくとも、本人は触れないでほしいと思っている事に、敢えて首を突っ込んでいく必要はあるだろうか。


「どうなんだろうな……正しいことをしようと思えば、確かに報告するべきなんだろうけど……」


 思春期の男としては、家のことに友人や教師を巻き込みたくは無いんじゃ無いだろうか、と彼は考えていた。


 ただ、それを考慮するにはケガの度合いが酷すぎる。穂村のあざのつき方は尋常では無い。色の違うアザがあるということは、治り具合が異なるということだ。言い切るのは危険かもしれないが、日常的に暴力を受けている可能性が高いだろう。


 そして、それを誰にやられているのかという問題もある。もし親からされているのであれば、家は安全ではないという事になるだろう。このまま放っておいて大丈夫なのだろうかという懸念はあった。


「迷惑かもしれないけど、一応言っておこうよ。ね?」


 水町も同じように考えているのだろう。家が危険だとするなら、あのまま帰らせてはいけないような気がしたていた。


「そうだな。判断がつかないから、先生に相談するって体で話してみるか」


 そうする事で嫌われるかもしれないと思ったりもしたのだが、そもそも今好かれているわけでもない。知り合いですら無いのだ。それなら嫌われたところで痛手は少ない。自分が傷つくだけで済むだろう。そう彼は判断した。


「でも、余計なお世話だって言われるかもしれないよね」


 そう尋ねる水町に、綾人はふっと笑みをこぼした。


「俺が嫌われるくらいであいつが助かるなら、安いもんだろ?」


 それを聞いた水町は、満足そうに頷く。


「うん、綾人ならそう言うと思った。……行こう!」


 水町は綾人の手を引いて走り始めた。綾人もそれに合わせて教室を飛び出す。


——あの笑顔を守りたい。


 そう思った二人は、急いで職員室へと向かった。



「ああ、穂村のアレな。うん、おそらく虐待だ。ただ、確証が持てない。穂村が認めてないから、通報も出来ないんだ。ほら、お前たちくらいの時期って、自分達のためって言われながら大人が勝手に動くと、却って危険な方へ走ったりするだろう? だから学校としては対処しづらいんだ。お前ら何か聞いてないの? 友達同士でそういう話はしないのか?」


 綾人と水町が特進クラスの担任の先生に報告したところ、返ってきた答えはそれだけだった。穂村の両親はどうやらかなり面倒なタイプらしく、学校としては出来れば関わりたく無いというのが本音のようだ。

 水町は先生のその反応を見て憤慨し、食い下がろうとしていた。だが、綾人がそれを止めた。騒ぎが大きくなってしまうと、穂村が困るのは目に見えている。


「わかりました。ちょっと俺たちで話を聞いてみます。ありがとうございました。失礼します」


 綾人がにっこりと微笑んで先生に挨拶をすると、先生は動揺しながら


「お、おう。気をつけて帰れよ」


 と言った。綾人の営業用のような完璧な作り笑いに、どうやら骨抜きにされているらしい。みっともなく伸びた鼻の下に辟易とした綾人は、職員室のドアを閉めると派手に舌打ちをする。それを見ていた水町が、楽しそうな笑い声を上げ始めた。


「あははっ、先生も綾人の微笑みにはタジタジだね」


「……全然嬉しく無いけどな。まあ、ニコニコされて悪い気はしないだろ? わざわざ相手に不快感与えるよりはいいじゃん」


「まあ、確かにね」


「とりあえず、今はなんも出来ないな。帰るか」


「はいよー」


 それから二人は、いつもの調子で歩き始めた。


 水町とは毎日一緒に帰る。二人の仲の良さを見て、周囲はよく「付き合ってるの?」と訊くが、彼らは仲のいい友人だ。隣にいるのが当たり前すぎて、お互いに空気にような存在だと思っている。一番適当な言葉は、恐らく幼馴染だろう


 水町は中学の時に転校してきたので、そのくらいの時期からの友人を幼馴染というのだろうかという疑問はあるが、他に適当な言葉が見当たらないらしい。だから、いつもその関係性を説明する時は、二人揃って幼馴染だと言うようにしているのだ。


「いやー、でも驚いたよね。穂村くんのあの噂って、本当だったんだね。あのアザ。殴られてるよね、確実に」


 水町はぼそっとつぶやいた。


「そうだな」


 その事を思うと、二人とも気が沈んでしまう。穂村に関する噂は、入学当初からあった。それは学校中に知られている。彼が成績や見た目を誉めそやされながらも、なんとなく憂いを帯びているのは、入学当初に学校で目撃されたある事があったからだ。


「入学式に後に、黒王子が親に殴られてたって話、ずっと誰かがデマを流してるんだと思ってた」


 綾人もそう思っていた。しかし、今この目でその噂の証拠を見てしまった。まだ殴っているのが親かどうかは定かでは無いが、もし親に殴られているのであれば、それは虐待という事になるのだろう。自分がされるのはもってのほかだけれど、人がされていると知るだけでも心が沈む。我が子を傷つけてまで親が得ようとするものは、一体なんなのだろうか。


「何か助けになれればいいんだけどな」


 その思いは、ずっと心の底の方に引っかかってしまって、なかなか抜けない棘になっていた。


 しかし、それから三年間、一度も彼と顔を合わせることが無かった。もしかしたら避けられていたのかも知れない。見かけることも無く、何度か彼は転校したのかも知れないとも思った。そして、次第に彼に関する事を忘れるようになっていった。初めて好きになった人の事を忘れていたのだという事実に、彼は驚いてしまった。


「あの穂村だったのか……」


 授業があるからと言って立ち去る穂村の後ろ姿を見ながら、綾人は思っていた。あの目に映る景色は、一体どういうふうに見えているのだろうか。


——今、幸せに暮らせてるのか?


 彼は、小さくなる穂村の背中に、そっとそう問いかけた。



「綾人ー、ごめーん! いるならゴミ出し手伝ってもらってもいい?」


 穂村と再会してから数日が経った。

 綾人はここ数日、仕事が忙しいらしい母から、連日ゴミ出しのヘルプを頼まれている。


 ゴミと言っても家庭のごみではなく、自宅でやっている仕事のごみだ。使った後の梱包資材、不要になった書類、突然やめていった事務員たちの私物……。それを選別してそれぞれ指定の袋の中へと詰めていく。


 アルバイトでも雇えと父からは言われているらしいのだが、綾人はこれを手伝うのをそれほど嫌だと思っていない。友人の少ない彼にとって休日は時間の使い方すらわからない一日だからだ。


 それに、親が稼いだお金が綾人の学費になることを考えると、手伝いたくないとは口が裂けても言えないと思っている。どうせ暇なのだからと、せっせと作業部屋を片付けていた。


「俺は嫌だけどなー。せめてバイト代もらわないと、絶対やりたくねえ。お前って本当に人がいいよな」


 そう言っているのは、当然のように作業場のイスをつなげて寝そべっている瀬川だ。彼は休みのたびに、なぜか桂家へとやって来る。そうして、こんな風に手伝いをする綾人を冷やかして帰るのだ。

 家と学校が近いと、友人が勝手にやって来るらしいことを、綾人はすっかり失念していた。今日もまた、綾人の近くには瀬川がいる。


 慣れた様子でゴミを片付けていく綾人のそばで、優雅に寝転んだまま彼に話しかけ続ける。綾人は仕事の手を緩めることはしないが、かと言って瀬川を邪険にするわけでもない。そのままダラダラと会話を続けるという、ここ最近の休日の過ごし方を、彼も彼なりに楽しんでいた。


「いやー、お前はバイト代もらったとしても、なんだかんだ言って逃げそうだけどな」


 その言葉を聞いて、瀬川は心外だとばかりに反論する。


「ええっ? 俺そんなに酷いやつに見える? さすがにお金もらったら頑張るよ!」


 すると、それに綾人が返した言葉は、いつものように辛辣なものだった。


「酷い奴に見えるに決まってるだろう? 金のことはわかんねーけど、女性関係はそう言い切れるよ。人をその気にさせておいてすぐ逃げるって、もっぱらの噂じゃないか。そう言う話ばっかり聞いてると、約束を守らないヤツだと思われても仕方ないだろ? 身から出た錆だ」


「うっ、それを言われるとどうしようもない……」


 瀬川の答えに、綾人は吹き出した。


 綾人が瀬川を苦手としているのは、女性関係の悪い噂が絶えないからだ。合コンだなんだと酒を飲んでは女性に手を出しているらしい。真面目に付き合ったという話は、これまで一度も聞いたことがない。


 そのため、手が早く軽い男として学内で有名になってしまっているのだが、本人はそのことに対して全く悪びれる様子もない。綾人が瀬川から飲み会に誘われたくない理由は、それが最も大きい。彼は瀬川とは真逆の恋愛観を持っていて、一途に愛し愛される関係性に憧れを抱いているのだ。


 しかし、そんな綾人は、なぜか瀬川よりもより軽い人間として見られがちだ。理由は、見た目に依るところが大きい。実際は、遊ぶどころか恋人関係になった人すらいた事がない。


 肌を合わせる相手は、お互いに好き合った相手だけでいいと思っている。好き合った事がないのだから、つまり誰ともそういう経験をした事もない。それでいいと思っている。

 だから、瀬川のように軽率に関係を持つ人間が、綾人には信じられないのだ。気持ちがない相手とわざわざそういう事をしようと思う意味が、彼には全く理解出来無い。


「だってさあ、なんかこう、好きだって言われるし、俺も好きになりたいとは思うんだけど……。どうしても好きになりきれないんだよ。仕方なくない?」


 少し口を尖らせながらブツブツ言う瀬川の姿を見ながら、好きになれないから仕方がないという気持ちだけは理解出来ると彼は思ってしまった。

 綾人にも、言い寄られることがあっても、その人を好きになれたことが無いという経験なら、数えきれないほどにある。


 ただし、瀬川の行動には全く理解は示せない。好きになれないなら、手を出さなければいいだけの話だ。それなのに、瀬川はすぐに手を出してしまうから、月に何度も揉め事を起こしている。


「あ、お前そういえば来週の金曜の夜は空けておけよ」


 どうやら瀬川は、また綾人を飲み会に誘おうとしているようだ。これほど断られているのに、なぜ彼はこうも綾人に執着するのだろう。

 綾人の方は誘ってくれと言ったことなど一度も無い。それなのにまたかと思い、彼はうんざりした様子を見せた。


「嫌です、空けません、お前の飲み会には行きません。めんどくさい」


 そう即答する綾人にむっとした瀬川は、ずいっと彼に顔を近づけてきた。瀬川は、度々こうして距離を詰めて来る。それにしても、今日は近過ぎる。鼻先が触れそうなほどに寄って来た瀬川を見て、綾人は一瞬狼狽えた。

 たじろぐ綾人の目をじっと覗き込む視線が、まっすぐに心の中を射抜いていく。その目力の強さを、恐ろしいと思ってしまった。


「ねえ、綾人さあ。前から思ってたんだけど、なんで俺の誘いは全部断るの? いっつも即答で断られる俺、可哀想じゃない?」


 綾人は狼狽えているのに、瀬川はむしろ敢えて鼻先を触れさせようとしているようで、さらにぐっと距離を詰めて来る。綾人はあまりの近さに、一瞬で顔が熱くなるのを感じた。彼はこう言う事に慣れていない。あまりの恥ずかしさに、瀬川から必死になって顔を逸らそうとする。そして、その肩をぐっと押すと、なんとか平静を保てる距離を取った。


「……っ近い。離れろよ」


 それでもまだ瀬川は迫って来る。段々と気圧されて、心がざわめき始めた。


「お前、大きな飲み会にはいくんだろう? その時は二次会にもいくらしいじゃん。じゃあ俺とも遊んでよー」


 楽しそうに綾人を揶揄う彼を受け流そうとしたが、手練れの瀬川相手に綾人の器量では対抗し得るわけが無い。どんどん迫る唇が迫って来る。焦った綾人は、思わず身を護ろうとして、瀬川の体を翻した。


「んぎゃっ」


 と言いながらカエルのようにひっくり返った瀬川は、何が起きたのか分かっていない。天井を見上げて目をパチパチと瞬かせていた。


「え? なんか、あれ? いつの間に? すげ、ひっくり返された! 今の何?」


 楽しそうに目を輝かせながらそう言う瀬川に、綾人はうんざりとした様子でため息をつく。そして、瀬川の手が届かないであろうベッドの端に座り直した。


「護身術だよ。喧嘩売られても面倒くさくて相手をしたくない時に、よく使ってたんだ」


 へー、と言いながら瀬川は起き上がる。倒されて軽く目を回しているようだが、呑気に拍手をしていた。


 綾人は見た目のせいで絡まれることが多く、身を守るために空手と護身術を習い始めた。高校に入りたての時など、顔が中性的だからと言って「一回でいいからヤらせろ」と言われ、襲われそうになったことが何度もあった。その度にこの二つを習っていて良かったと安堵した。


 瀬川には、以前流れでそのことを話していた。そのことを思い出したのか、


「ああ、コレが前に言ってたやつね」


 と思い出し、一人で納得している。


「……で、俺は何でひっくり返されたの? なんか危険を感じた?」


 惚けるようにそう言うと、口の端を持ち上げて笑う。綾人はそれを見て、また頬を染めた。


「うっせー。自覚があるならすぐ出ていけよ。俺にはそんなつもりは全く無いからな。それと、飲み会の誘いはもういらない。お前と一緒にいるだけでヤリチン扱いの噂流されんだぞ。飲みになんか行けるかよ。つーか、その前に酒飲むなよ、未成年」


 それを聞いて、瀬川は一瞬だけ口を噤んだ。だが、生来黙っていることが不可能な性質をしているようで、すぐに口を開く。そして、


「心外だな! ……いや、ヤってることは否定しないけど、俺だって誰でもいいわけじゃねーの! ていうか、今の話は飲み会じゃねえよ。お前にボランティアメンバーになって欲しいんだ」


 と叫んだ。瀬川の口から飛び出た意外な言葉に、綾人は目を丸くする。


「ボランティア? お前が?」


 それは、瀬川にはあまりに不似合いな言葉だろう。そう思っている綾人に、瀬川はゴホンと咳払いをすると、得意げな顔をしてその説明を始めた。


「金曜の夜に、留学生に日本語を教えるボランティアをやってる人がいるんだよ。その人に頼まれてさ。桂綾人を誘ってもらえないかって。どこかでお前が英語とドイツ語話せるって聞いたらしいんだよ。どう? 興味ない?」


「留学生に日本語を教えるボランティア……」


 その噂は綾人も耳にしたことがあった。金曜の夜に、どこかの教室で留学生に日本語を教えている人がいるという。そこでボランティアをすると、就職に有利になるという話も併せて噂になっている。


 母国にいながらにして異文化交流をすることが出来るなら、それはとても有難いことだろう。国が違えば、いつものように見た目で判断されることも無いかも知れない。そう考えた綾人は、試してみる価値はありそうだなと判断した。


「そういうことなら手伝ってもいいけど、一度見学してからでもいいか? 合うか合わないかは体験してみないとわからないから」


 瀬川にそう伝えると、「もちろん!」と喜ぶ。まるで大きな犬が尻尾を振りながら喜んでいるように見えた。


「じゃあ、相手にはオッケーって俺から連絡しておくよ」


 そう言って瀬川は帰っていった。

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