獅子と龍
第1話 邂逅
『……やと。良いな。信心の証を見せよ。さもなければ……』
その声は確かにそう言っていた。
水の中で聴いている音のようなぼんやりとした輪郭のそれに、綾人は何も答えることが出来ない。何日も続いた悪夢のせいで、彼の頭は何かを判断できるような状態ではなくなっている。
「えっと……、あの」
はっきりとした言葉を返せずにいる彼に、相手の男はふっと笑みを溢した。そんな気がした。実際には、その表情は見えていない。目を焼きそうなほどに明るい黄金色の光が、男の背後を照らしていて、顔は真っ黒にしか見えていないのだ。
ただ、その肩から下へと垂れ下がっているきっちりと編まれた頭髪が、艶やかな青紫色であることだけはなぜか分かる。何故なのかは分からないがそれに触れたいと思い、綾人はすっと手を伸ばす。
すると、その男は瞬間的に強烈な光を放ち、その後すぐ霧のように散って消えてしまった。
——待って、行かないでよ。
そう心の中でつぶやく。なぜか声が出せずにもどかしい思いをしていると、ふっと聞き覚えのある声が聞こえて来た。
『……やと! あやと! あーやーと!』
とくんと胸が鳴る。でもそれは、今聞こえた声に対してのものではない。あの消えていった微笑みがそうさせていた。
それは否応なしに綾人の体温を引き上げるような、特別な何かがあった。笑いかけられるだけでそうなるのであれば、触れたら一体どうなるだろうか。その温かな光の内に入れてもらえると、どうなるのだろうか。
そう思うと矢も盾もたまらず、もう消えてしまったとわかっているのに、そこにあったはずのものを求めて、また光の方へと手を伸ばしていた。
「おい、起きろってば!」
耳をつんざくような大声に、綾人はようやく我に帰る。ふと気がつけば、通い慣れた大学のテラス席にいた。
「……え、瀬川?」
夢の中で現れた人物に触れようと手を伸ばしたはずなのに、綾人のその手に掴まれていたのは、好意を寄せるどころかそういう気持ちを持ってはいけないと思っている男の襟首だった。引き寄せたその顔は、お互いに唇が触れる寸前まで近づいている。夢の中の人物に感じていた想いは、友人瀬川岳斗の顔を見たことで急速に萎んでいき、綾人は彼を突き飛ばした。
桂綾人は、十九歳の男子大学生だ。しかし、そう言っても信じてもらえないことがあるほどに、可愛らしく儚げで、庇護欲をかき立てるような見た目をしている。
長く通っている空手の道場に新しい人が入ってくるたびに言い寄られ、性別を明かすと逆ギレされるという憂き目に遭うくらいには、女性と間違えられてしまうことが多い。
しかし、一見そうであったとしても、実際はそうでは無い。その体に拳を叩き込んだ時に、それを思い知る事になる。
彼は高校生を卒業するまで、練習でも試合でも負け知らずだった。それほどに強い。一度彼と試合で戦った者はすぐに態度を改めるようになるくらい、相手の闘争心を奪うような、圧倒的な強さがある。
瀬川は今、そんな負け知らずの空手家の握力で、思い切り襟首を掴まれているのだった。
「おいおい、離せ離せ離せ! ちょっとひどくない? お前もう三時間くらいここで寝てるからさ、そろそろ起こしてやんないとなって思ってそうしただけだろう? それなのに、いきなり首掴んで振り回すなよ。あーもう、びっくりしたー」
瀬川はそうぼやきながら襟を正すと、きゅっとネクタイを締め直した。普段は真っ黒なTシャツとパンツスタイルの彼が、今日は珍しくビシッとスーツを着ている。
色々と緩い人物として名を馳せている者とは思えないノーブルな出立に、綾人は思わずドキリとした。
「あー、悪い。ちょっと寝ぼけてたんだよ。起こしてくれてサンキュー」
思わず見惚れてしまった照れを隠そうとして、素っ気なくお礼を言うと、瀬川はなぜかそれに嬉しそうな笑顔を見せた。
「うわ、お前がお礼言うとか雨でも降るんじゃないか?」
そう言っておどけながら、両手の平を天へと向ける。そうしながら一段と笑顔の光度をあげた。その顔に黄金色の髪がさらりと落ちてくる。それは陽の光を受けてキラリと輝き、神々しいまでの輝きを放っている。
彼は瞳の色も髪の色に近く、暗い瞳孔がやたらに目立つ印象的な目をしている。人好きでよく声をかけては近づいていくことも手伝って、狩り好きな猛禽類のようなイメージを持たれている。学内どころか他大学の子達にも声をかけ、色んなところに出没しては友人の輪を広げていくのだ。
ただし、誰のところにも長くいつかないことでも有名だ。彼に泣かされたという学生は、男も女も数多いる。
自由な振る舞いに、軽薄な態度と貞操観念。どちらかと言うと、綾人が嫌いな部類の人間にあたるのだ。
「そう言わないと、言うまでしつこく言ってくるんだろう?」
「あ、バレてる。だって綾人構いたくなるんだもん。遅刻しなくてすむんだから、いいだろう? 俺役に立ったでしょ?」
「うん、はいはい。いつもありがとうございます」
こんな風に適当な扱いを受けているにも関わらず、なぜか瀬川は綾人を気に入っていて、入学当初からしつこく彼に付き纏っていた。
そうする内に綾人の方が彼に慣れてしまい、あまり嫌ではなくなっていったのだ。今となっては、周囲からは「桂くんと瀬川くんは本当に仲がいいよね」と言われるほど、一緒にいるのが当然だと思われるようになっていた。
「あ、そうだ。お前昼メシ食ってないだろう? もうあんまり時間ないから、ほら、これ食えよ。俺今から学食でコーヒー買って来るから、お前もついでに買って来てやるよ。ホット? アイス? 甘いの? 苦いの?」
従順な犬のように、ぶんぶんと振り回すしっぽが見えそうな瀬川に対して、綾人は自由気ままな猫のようだ。寝ぼけたままの目をこすりながら、マイペースに逡巡する。眠っていたテラスは陽が高くなっており、体は僅かに汗ばんでいた。今なら冷たくて苦めのものが飲みたいと思い、瀬川にそう答えようとした。
「……苦くて冷たいの、で合ってる?」
綾人が答える前に、瀬川はそう言ってニヤリと笑う。綾人は驚きながらも、
「……分かってるなら訊くなよ。はい、買って来て」
とプリペイドカードを渡した。
瀬川はそれを受け取ると、学食へ向かうために立ち上がった。そして、足早に建物の中へと向かう。綾人はその背中をぼんやりと眺めながら、彼がくれたBLTサンドを頬張ろうと口を開けた。
「ん? なんか甘い香りがするな。シナモン? ……八角か?」
ガブリと噛み付いた瞬間に、ふわりと鼻先に甘い香りを感じた。しかし、それは手の中の食べ物からではなく、どこか他の場所から流れてくるようにも感じる。すんすんと鼻を鳴らしてそれを嗅いでいる内に、何かの記憶が刺激された。この香りを別の何処かでも嗅いだことがあるような気がしたのだ。
——あれ、なんだか懐かしい香りだな。
そう思ったので必死に記憶の中を辿ってみるものの、それがいつどこで嗅いだものなのかはまるで見当がつかない。何かトリガーになるものでもあればと思うものの、それすら思い当たるものがなかった。
「綾人、ミルクいるんだっけ?」
思い出したいのに思い出せないもどかしさに頭を抱えていると、アイスコーヒーを手にした瀬川がこちらへと戻ってくるのが見えた。
「あー、あると嬉しいけど、なくても大丈夫」
そう答えながらその揺れる液面を見ていると、それも彼の記憶を刺激した。そこへ、またあの香りがふわりと漂う。驚いて周囲を見渡していると、突然頭の中に人の声が響いた。
『おいで』
「えっ?」
声は、突然背後から聞こえて来た。しかし、後ろには席に座っている学生が食事をしているものの、誰かが綾人に声をかけたりはしていない。それでも、声ははっきりと後ろから聞こえたはずだ。思わず背中を冷たいものが伝う。
——この中の声じゃない。
聞こえた声は男性の声だった。それも、成人のもので、とても落ち着いた話し方をする人物のようだ。今目の前にいる学生たちの中に、そんな印象の者はいない。
皆楽しげに話していてはしゃいでいるものが多く、あんな風に落ち着いた大人の男性といった色香を感じる話し方をしている者は見当たらなかった。
では、あれは一体どこから聞こえて来たものなのだろうか。それが気になってしまう。彼は何度か被りを振って、周囲を確認した。
「わっ!」
すると、思ったよりも近いところに、背の高い男が一人立っていた。学食で買ったのであろうパンが幾つかと、スープの入ったボウルの載ったトレイを持っている。さっき見渡した時にはいなかったはずだ。いつここに来たのかと訝しんでいると、ふと気になるものが目に入った。
「あ、ごめんなさい。驚かせてしまったみたいですね」
そう言って申し訳なさそうに俯くその男の髪の色を見て、綾人は驚いた。
腰まである長い髪は青紫色で艶があり、肩から下はキツく編み込んである。それは、綾人が夢に見たあの男の髪に似ていた。
「なあ、それ……」
猫のしっぽのようにゆらりと揺れるその髪は、何故か彼を惹きつける。魅入られたそれを手に取ろうとして近づいた。
すると、男は突然近づいて来た綾人に驚いたのか、それを躱そうとした。ぶつかりそうになったところを避けたようにも見える。
しかし、猫じゃらしにじゃれつく猫のように髪を追っていた綾人は、想定以上に体を傾けてしまっていたようで、ぐらりとバランスを崩した。
「わあっ! やべ……っ!」
それでも、彼は倒れたりせずに、筋力に依って体勢を立て直していく事が出来る。
しかし、長髪の男はそれを知らない。
綾人が転んでしまうと思ったようで、トレイを投げ出してまで彼を庇おうとした。
「危ないっ……?」
ただし、彼が庇おうとした人物は既に体勢を立て直しており、倒れはしなかった。
反して男は、普通の男だ。何事も無かったかのようにこちらを見ている綾人を呆然と眺めながら、ただ自分だけが倒れ込んでいく。しかも後頭部から落ちようとしていた。
「……くそっ!」
倒れ込む男を見ていた綾人は、その男の方へと飛びついた。頭を守るために、その下へと回り込む。首を抱き抱えるようにして二人でテラスの芝生の上へ転げ落ちると、吹き飛ばした椅子がその近くの椅子やテーブルを次々と薙ぎ倒してしまい、凄まじい騒音を巻き起こってしまった。
「おい! 何してるんだ!」
——うわ、これはマズイ。
口うるさいことで有名な法学部の教授が、目を釣り上げながらこちらへと向かって来る。早くこの場を去ったほうがいいと思ったのだが、それよりも先に男のケガの状態を確認しなくてはならない。綾人は、長髪の男に声をかけた。
「おい、大丈夫か? ケガは……?」
綾人が声をかけると、男は黙って頷いた。長い前髪が顔を覆っていて、表情は分かりにくい。それでも痛むところはないようだと言うことだけは分かったので、立ち上がるのを手伝おうと、彼に向かって手を差し出した。
「あ、ごめん。大丈夫です。僕でかいから、その分重たいので。ありがとう」
そう言って立ち上がった。
その姿を見て、綾人は言葉を失った。本当に背が高かったからだ。
おそらく百九十センチメートルはあるであろう体はがっしりと筋肉質で、肩下まである髪をやはり尻尾のように靡かせていた。不意にとはいえ、よくこの男に気が付かずにいられたなと驚いてしまうほど、パッと見るだけでも目立つ容姿をしている。
「急に髪を触ろうとしたから驚いたんだろう? 悪かった。それに、断りも入れずに失礼な事をしてごめん」
綾人がそう言って頭を下げると、男は埃をはたき落としながらふっと微笑んだ。
「いえ、僕が驚きすぎただけなので。ごめんなさい」
そう言って笑うその瞳を見て、綾人は息を呑んだ。
——なんて綺麗な色……。
男の目はとても美しい色をしていた。深い色合いに艶めいていて、青とも黒とも言い切れないような不思議な色をしている。それは、仏教でいうところの調伏の黝に似ている。穏やかな水面のような静けさの中に、うっすらと激しい感情の片鱗が見える。
それはまるで深淵に落とされた時に見る湖面の景色のようで、とても不思議な奥行きがあった。髪色同様に、あまり見る事のない珍しさも手伝って、思わず見入ってしまった。
そして、ふと気がつく。彼を下から見上げたことで、初めて見えたものがあった。
男の右目は長い前髪に隠れているのだが、その目を取り囲むようにして、色とりどりのアザがあった。それは、右目を囲んで花が咲いているように、放射線状に大小様々なものが並んでいる。
——あれ、このアザ……。
しかも、綾人はそれに見覚えがあった。ただ、夢の中同様に頭の中に靄がかかっているようで、はっきりとした答えが出せない。どこで見たのか、何故見ることになったのか、この男と自分は会ったことがあるのか……。何も分からなかった。
綾人が男の顔をじっと見たまま固まっているのを見て、相手が「どうかした?」と尋ねてきた。そこで、綾人は考えるのをやめた。思い出すよりも聞いたほうが早いかも知れないと考えたのだ。
「あの、俺、文学部の桂。桂綾人。お前は?」
「俺は穂村貴人。実は俺も文学部なんだよ。学科も同じだよ。桂くん、宗教哲学科でしょ?」
すっと手を出しながら穂村貴人はそう言った。綾人は差し出された大きな手を見て、一瞬戸惑った。この手は握り返すものなのだろうか、彼にはそれが分からない。
生まれつき色素が薄く、金髪に近い茶色の髪のせいで、綾人はどこにいても目立っていた。そのため、相手に一方的に自分のことを知られていたり、付き纏われたりすることが多く、こんな風にしっかり誰かと自己紹介を交わして知り合ったことが、今までほとんど無い。どうすればいいのかが分からず、じっと穂村を見ていると、
「握手嫌いな人?」
と訊ねられた。
それを聞いて慌てて手を差し出し、その手を握り返す。その温もりは、心の中までやわやわとほぐしていくような、不思議な懐かしさを含んでいた。
一瞬、ぶわりと心が温かくなるのを感じた。手を差し出せずにいたことを悪くとって詰られるかと思っていたのに、すごくふんわりとした優しい空気で返してくれた。綾人はそれがとても嬉しかった。鼻の奥につんと小さく痛みが走る。
——ちゃんとした自己紹介、初めてした。
穂村の自分への対応の仕方に、胸が詰まるような気がした。自分の気持ちを押し付けて来る人たちの一方的な話を聞かされてばかりだった綾人に、初めて自分を見てくれる人が現れたような気がした。
——あれ、でもこんな風に思ったことが前にもあったような気がする……。
またそう感じた。記憶の隅に引っかかっているものがあるのに、それがなんなのかを全然思い出せない。今日そう感じたのは何度目だろうか。記憶力が低下するような年齢でもないはずなのに、あまりにそういうことが起き過ぎている。そう思うと、頭を抱えるしか無かった。
その時、風が吹いた。
巻き上がる突風の中で、穂村の長い髪が踊る。右目を隠している前髪もぐちゃぐちゃに揺れていて、彼は思わず目を細めた。
「あ! お前……」
その時、記憶の扉が開いた。綾人は、この光景を以前見たことがあった。
それは、高校に入ってすぐの事だった。
その頃、彼は「麗しの黒王子」と呼ばれていた。
その男の顔には大きなあざがあり、虐待されているのではないかという噂があったのだ。
そして、その横顔を眺めた本当の出会いの日のことを、綾人は少しずつ思い出していく。
彼らが初めて顔を合わせた日。
それは、三年前の春、桜が舞い散るよく晴れた日のことだった。
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