ダンジョンの歩き方 ― 歩くだけで強くなる冒険者 ―
桃神かぐら
第1話 歩くしか能のない冒険者
冒険者の街〈リムド〉は、朝からざわついていた。
石畳を叩く蹄の音、屋台の鍋が鳴る音、ギルド前に掲げられた依頼板の鈴の音。
それら全部が混ざり合って、街じゅうが“生きている”と告げている。
そんな喧騒の隅っこで、レオは擦り切れたマントの裾を整え、呼吸をひとつ整えた。
腰には何も差していない。剣も槍も、杖すらない。
荷物袋の中身といえば、水袋と乾燥肉、安い包帯、それから磨きのかかった靴だけだった。
――歩くしかできないなら、歩きで勝つしかない。
そう考えられるようになるまで、少し時間がかかった。
冒険者学校で最下位だった。スパーではいつも吹き飛ばされ、魔法の座学では居眠り王、実技試験は※印(要補習)だらけ。
最後の最後、希望者が挑戦する“適性スキル鑑定”で出た結果は《ウォークエクスペリエンス》――歩くだけで経験値を得る、という、聞いたこともない地味で間の抜けたスキル。
バカにする笑い声、肩を叩いてくれるふりをして遠ざかる視線、そして「うちは戦力にならないから」の一言で、パーティから追い出された。
街の酒場〈青い門〉の裏口で、洗い場の皿を戻しながら、レオは何度も靴底を見た。
ひび割れた革、磨いても消えない傷。
それでも、足だけは裏切らなかった。歩けば空腹はやわらぎ、歩けば眠れる。
歩くことだけは、彼の手元に残った最後の技だった。
ギルドの掲示板に貼られた小依頼の紙を一枚もぎって、受付嬢に差し出す。
「苔の洞窟(モスケイブ)」第一層の素材採集。報酬は銀貨数枚。誰も手を伸ばさない低額依頼だ。
「またモスケイブ? 危なくないの?」
受付嬢の眉がわずかに寄る。
「危なくない方が、俺には向いてる」
レオは笑って見せる。「苔なら、踏んでも怒らないから」
冗談に笑いは戻ってこなかったが、それでいい。
誰かの笑いに合わせて歩幅を変えるような真似は、今日でやめる。
街門を抜けると、風が匂いを変えた。
森へ向かう獣道は、昨夜の雨でしっとり濡れている。
葉の裏を渡る雫の音。土の呼吸の音。遠く、川の音。音、音、音。
すべてが一拍遅れて胸に落ちてくる。
靴紐を締め直し、レオは一歩目を踏み出した。
【STRIDE SYSTEM 起動】
モード:歩行演算(探索)
経験蓄積:開始
呼吸同調率:63%
重心安定:初期(可)
────────────────────
歩行イベント:一歩目
歩行経験値 +3
筋膜調整 +0.2%
酸素循環効率 +0.3%
────────────────────
視界の端に、薄い金色の文字が浮いては消えた。
最初に見たときは幻覚かと思ったが、これは《ウォークエクスペリエンス》の“内側”なんだろう。
数日前、酒場の裏口で皿を落とし、拾おうと中腰になった瞬間――ふと、体の芯に通る線を掴んだ。
立ち上がるより前に、足裏が地面の“返し”を掴む感覚。そこから先は早かった。
あの日から、歩くたびに、この金の文字は形を持ちはじめ、いまはもう、はっきりと“読める”。
モスケイブの入口は、森の緩やかな斜面を抜けた先、苔むした岩壁のひび割れの奥に口を開けていた。
日の光は薄く、青白い地衣が淡く輝いている。
ひんやりした湿気が鼻腔を通り、肺に落ちる。
レオは一度目を閉じ、両の肩を脱力し、首の後ろの力を抜いた。
「行こう」
洞窟に足を入れた瞬間、空気が変わる。
外界の風は止み、内部の気流が足首を撫でていく。
冷たい。だが、悪くない。
【環境認識】
温度:12℃
湿度:高
床:滑り(苔)
危険因子:中
────────────────────
【歩行同期:洞窟モード】
足裏摩擦係数:調整
転倒リスク:低下(-14%)
歩行経験値 +6
────────────────────
慎重に、しかし過剰に慎むことなく、レオは歩く。
長距離を歩くときは、姿勢の“無駄”を消すことが何より重要だ。
背筋の角度、骨盤の傾き、膝の抜き方、足指の開き。
頭のなかで、金文字がわずかに震え、それぞれの部位に“OK”を出していく。
苔の光が深くなったところで、耳が警告の震えを拾った。
低い、地の奥に潜むような唸り。
体毛が逆立つわけではない。代わりに、洞窟の空気圧が、微かに増す。
レオは歩幅を半分に狭め、滑る床を“撫でる”ようにして一歩前に落とした。
【警戒】
前方40m:大型生体反応
推定:岩熊(ロックベア)
危険度:A-(単独戦闘は非推奨)
────────────────────
【提案】
退避ルート:右側面の狭隘通路(成功率 71%)
対峙ルート:正面手前の窪地で重心戦(成功率 18%)
────────────────────
退くべきだ。
頭の片隅がそう言った。
だが、足は止まらない。むしろ、ひとりでに最適な位置へ滑っていく。
心拍は正しく、呼吸は深く、視界の端は広い。
“ここで逃げれば、また同じ一歩を踏むだけだ”――そんな声が、背骨の内側で響く。
「……正面で」
声に出せば、逃げ道が消える。
レオは立ち止まらず、歩幅をさらに狭め、一度重心を落としてから、そっと前足に体重を預けた。
金の文字が、淡く輪を描いて広がる。
立歩(グラドゥス)。
《立歩》起動:
重心制御:+14.1%
姿勢安定:+12.8%
衝撃分散:+9.5%
────────────────────
歩行経験値 +12
筋出力最適化 +0.6%
────────────────────
その瞬間、来た。
岩熊は、洞窟の闇から“押し出されて”来たように見えた。
圧縮された質量の塊が、音を伴って噴き出す。
石を敷き詰めた背中、鉱山の斜面みたいな肩、灯りを吸い込む瞳孔。
足音が遅れてくる。遅いのではない。重さが、音の方を押し返している。
レオは逃げない。
足裏を地に縫い付けるようにして、もう一歩、踏む。
反歩(コントラ)。
世界がささくれ立つ前、衝突の一瞬前、わずかに膝を緩め、腰の骨を“回す”。
熊の拳は確かに届いたのだろう。
でも、届いたその力は、地面に流れ込み、地面が返し、返った力が熊の肘から肩へ、背骨へ――逆流した。
ドン、と空気が鳴って、岩熊の肩口の石皮が割れる。
ひびの筋を金色の線が走った。
《反歩》成功:
敵衝撃吸収→反発出力:142%
敵姿勢崩壊:中
スタガー発生:0.6秒
────────────────────
歩行経験値 +68
敏捷 +0.3%
反応速度 +0.4%
────────────────────
レオは呼吸を一つ挟まず、足を前に送る。
“押す”のではない。“置く”。
置いた足裏の下で、地が低く唸る。
衝歩(インプルス)。
苔が持ち上がる。
波紋のように、金の円陣が重なり、洞窟の壁に反射して螺旋を描く。
空気の層が圧縮され、音が遅れる。
次に来たのは、音ではなく――震えだった。
岩熊の胸甲に、蜘蛛の巣のような亀裂が走る。
その割れ目から、白い粉塵が噴き、光が散った。
《衝歩》発動:
衝撃波半径:7.9m
圧力ピーク:2.1G
対象耐久:-31%
ノックバック距離:2.3m
────────────────────
歩行経験値 +132
スキル熟練 +0.8%
────────────────────
岩熊が咆哮する。
遅れて、洞窟全体が吠えた。
微細な石粒が雨のように降り、苔が青白く脈打つ。
レオは一歩、後ろへ“引く”。
逃げるためではない。間合いを作るための、正確な一歩。
熊の爪が空気を裂き、石壁を抉る。
破片が頬を掠め、温い血が一筋、首筋を伝う。
痛みは薄い。
体は、痛みより世界の線に集中している。
熊が二歩、重い歩幅で詰めてくる。
三歩目の前に、レオは“置く”。
重歩(グラヴィス)。
足裏に感じるのは、湿った苔の滑りでも、冷たい石の硬さでもない。
もっと深い、地中の遅い波。
その波をつかみ、体重という言葉を“重さ”に翻訳して、地面に渡す。
地面が受け取り、返す。
――沈む。
洞窟の床が、ほんの少し、沈む。
圧が波になり、岩熊の足首をからめとる。
次の踏み込みの角度が狂い、体重が片側に偏る。
それだけで、巨体は鈍く傾いだ。
《重歩》成立:
重力波:垂直ベクトル
局所圧縮:+18%
敵移動阻害:強(1.4秒)
ノックダウン判定:成功
────────────────────
歩行経験値 +210
耐久 +0.4%
筋出力 +0.3%
────────────────────
レオは滑り込むように側面へ回り、熊の肩甲の隙間に、肘を置くようにぶつけた。
拳ではない。肘だ。短い距離で、体幹を通した“置き”の打撃。
硬いものに硬いものをぶつけるのではなく、波の頂を波の谷に合わせる。
――軽い音。
それで十分だった。
肩甲の石皮が崩れ、熊の前足が抜け、体が半身だけ石の裂け目に落ち込む。
返歩(リバース)。
背骨をわずかに回し、腰を返しながら、足を半歩だけ前にすべらせる。
動きは小さい。だが、力の向きは完全に反転する。
岩熊の首が露出した。
呼吸が乱れるより前に、レオは吸い、吐く。
虚歩(パッス)。
足音が消え、影が薄くなった。
熊の瞳孔が、レオを見失う。
視線が空を切った瞬間に、踏む。
衝歩(インプルス)――二度目。
今度は、洞窟の壁に反響した波が、逆から重なる。
干渉縞が、熊のうなじに“集中”した。
刹那、体表の石板が内側から破砕音を上げ、粉となって噴いた。
巨体の重みが床を打つ音が、少し遅れて届く。
《戦闘歩行ログ》更新
戦闘歩数:173
呼吸同調:91%
重心安定:+11.9%
────────────────────
対象:岩熊(ロックベア)
致命傷:頸部衝撃集中(内破)
戦闘状態:沈黙
────────────────────
歩行経験値 +1,840
スキルポイント +2
新規進化判定:《反歩》→《反射歩(ミラー)》候補
────────────────────
ふくらはぎの筋肉が軽く震える。
痛みではない。立っているのがうれしくて、震えている。
指先に血が滲んでいるのを見て、遅れて、ひとつ息を吐いた。
洞窟は、また静かになった。
霧のような粉塵が漂い、苔の光が血の粒を虹色に照らす。
金の文字が、薄い野帳のように頁をめくっていく。
そのどれもが、あまりに静かで、あまりに明瞭だった。
《戦闘歩行統合ログ》
対象:ロックベア
戦闘歩数:243
呼吸同期率:96.8%
平均反応遅延:-0.12秒
平均重心偏差:±0.7°
────────────────────
【成長結果】
歩行経験値 +2,640
Lv 1 → 2
筋力 +0.5%
耐久 +0.8%
敏捷 +0.4%
精神 +0.6%
スキルポイント +3
────────────────────
【新技覚醒】
《重歩(グラヴィス)》:常時解放
《虚歩(パッス)》:安定化
────────────────────
【コメント】
“敵の質量配分と床反発の相関を取得済”
次遭遇時:自動回避補正 +8%
────────────────────
「……歩くだけで、世界が騒ぐ」
誰に言うでもなく、レオは呟いた。
足の裏に感じるのは、血のぬめりでも、石の冷たさでもない。
“歩いた距離”そのものが、温度を持って伝わってくる。
奇妙なことに、その温度は心地よかった。
熊の亡骸に祈る。
命が解けて土に戻るあいだ、立ったまま、呼吸をひとつずつ数える。
数えていると、ふいに、声が落ちてきた。
『――歩け。お前の理(ことわり)は、まだ地に沈んでいる』
低く、古い、土の声。
頭ではなく、脛の骨で聞いたような感覚。
幻聴かもしれない。けれど、否定する理由もなかった。
自分の足が、答えていた。
「……ああ、歩くよ」
レオは荷袋を背負い直し、熊の落とした鉱片をいくつか拾い上げる。
報酬の足しにはなる。
けれど、それよりもずっと大きな“何か”が、いま背中にある。
それは目に見えず、重くもない。だが、確実に、そこにある。
通路の奥は暗く、狭く、湿り気が増していた。
苔の光は細くなるが、消えはしない。
それは夜の川のように、細く、たしかに流れている。
レオは踏み出す。
足裏が地を押し、地が足裏を押し返す。
当たり前すぎて誰も見ないやりとりが、いま、はっきりと“力”に変わっている。
【LEVEL UP】
歩行Lv 2 → 3
呼吸同調率:+1.4%
歩行効率:+3.1%
新規解放条件:達成(距離しきい値)
────────────────────
【新規技候補】
《流脚(フルーメン)》:発現確率 86%
(推奨:水域/湿滑環境での実地試験)
────────────────────
「水の上でも、歩けるようになるのか」
湧いた独り言は、洞窟に吸われて、少し遅れて戻ってきた。
思えば、ずいぶんと欲張りになった。
昨日までの自分なら、銀貨数枚を握って俯く帰り道しか描けなかった。
いまは違う。
銀貨の数は同じでも、足取りは軽い。
世界が、わずかに自分に寄っている。
それも、走って掴んだのではない。歩いて、合わせたのだ。
分岐路で立ち止まり、鼻で空気を撫でる。
右は乾いた石、左は水の匂い。
金の文字が、左に曖昧な光点を残した。
レオは左へ進む。
ほどなく、地面がゆるやかに下り、苔の輝きが増した。
壁の隙間から、透明な水が細く流れ出て、小さな水鏡を作っている。
水鏡の表面に、足元の金の文字が反転して映り、ゆっくりと揺れた。
未来の自分の技名が、ぼやけたルーンで滲んでいる気がした。
「――試すか」
靴の先で水面を撫で、そのすぐ前で一歩を“置く”。
水の緊張がわずかに変わり、静かな“橋”がかかる。
練習技:流脚(フルーメン)――準備。
呼吸、落ち着いている。
足指の開き、良好。
膝の抜き、良し。
腰は沈めず、落とさず、ただ“通す”。
水面に、細い、見えない道が生まれる。
そこへ、そっと、二歩目を置く。
《予備演算》開始:
流体応答:良好
表面張力:局所増幅(+6.2%)
前足荷重:最適
────────────────────
【発現条件】ほぼ満たす
《流脚(フルーメン)》覚醒率:92%
────────────────────
足首まで水に沈むかと思ったが、沈まない。
沈む代わりに、水が“受けて”くれる。
受けられた力は、波紋になって広がり、軽い音で岩肌に返った。
「……いける」
小さく笑って、レオは水鏡の向こう側に渡る。
そこで、足跡は消えた。
消えるのが正しい。水に跡をつける歩きは、荒い歩きだ。
歩きは、痕跡ではない。流れそのものだ。
通路が細くなり、頭上の岩が低く降りてくる。
その下をくぐるたび、体は小さな“無駄”を見つけて捨てる。
肩の位置、腕の振り、視線の高さ。
全部が歩行語で書き換えられていく。
やがて、遠くから、水の落ちる音が明瞭に届いた。
第二の広間だ。
岩棚の上から落ちる細い滝が、霧をつくっている。
霧の粒が苔に光を与え、広間全体を青く照らす。
そして、そこに――影。
さっきの熊よりは小さい。が、数がいる。
三体。牙の長い獣型。体毛は湿って、瞳は赤い。
《モスウルフ》。
俊敏さと群れの連携で知られる、厄介な相手だ。
「三体。走らず、歩きで抜ける」
声に出して、脳の中の地図に言い聞かせる。
広間の端、岩棚の影、滝の裏――逃げ道はいくつもある。
だが、いま必要なのは逃走ではない。
歩行を“戦術”に昇華する場だ。
ウルフたちが低く唸り、半円を描くように散開する。
一体が左へ回り、もう一体が正面で注意を引き、最後の一体が右から回り込む――典型だ。
典型ほど、歩行は強い。
静歩(サイレム)。
受歩(デフレクト)。
足音が霧に溶け、姿勢が霧の密度に合わせて“薄く”なる。
左の個体が飛び込んでくる直前、レオは半歩だけ前に出る。
受けるのではなく、その噛みつきの“到達点”をずらす。
空を噛んだ顎が勢いを失う手前――腰を返して、軽く肩を当てる。
反歩(コントラ)。
顎の角度が狂い、体が横に流れる。
正面の個体の動きが一瞬止まる。
止まったところに、“置く”。
螺歩(スパイラ)。
撃歩(インパクト)。
螺旋の一歩で肘を送り、胸骨の間に、波の頂点だけを乗せる。
骨が鳴り、体が沈む。
右の個体の突進が遅れる。
そこへ――
流脚(フルーメン)。覚醒。
水を蹴らない。水に“歩み”を預ける。
足の甲で作った薄い流れが、蹴りの軌跡を“運ぶ”。
右の個体の側頭部に、その“運ばれた”刃先だけが触れた。
耳の後ろで軽い破裂音。
獣は転がり、滝の霧が弾ける。
《戦闘歩行ログ:小型群》
対象:モスウルフ ×3
戦闘歩数:94
《静歩》成功:気配遮蔽 78%
《反歩》成功:2回
《流脚》初成功(覚醒)
────────────────────
【獲得】
歩行経験値 +1,120
スキルポイント +2
敏捷 +0.6%
集中 +0.5%
────────────────────
【備考】
群れ連携パターン取得(3/5)
次遭遇時:初動分断アドバイス生成
────────────────────
「……悪くない」
息は上がっていない。
肺の奥で火が燃える感覚はあるが、それは苦しさではなく、燃焼だ。
体の端から端まで、一本の線で結べるような。
“歩く”という線だ。
レオは滝の前まで歩き、両掌を水で洗った。
冷たい。手の血はすぐ止まる。
ふと、濡れた掌に金の文字が張り付いて、滲んだ。
水の表面に浮かんだその“文”は、読めるようで、読めない。
「言葉じゃない。歩きの形、か」
自分で呟いて、頷く。
言葉にしようとすると逃げていく。
歩いていれば、勝手に近づいてくる。
そのものは、たぶん“文”であり“術”であり、そして“存在”だ。
広間の先、緩やかに登る通路がある。
上へ向かおうとした足が、ふと止まった。
違う。上ではない。横だ。
霧の中の風の筋が、微妙に右へ流れている。
そこに、細い裂け目。
通れる幅。背を丸めずに。
レオは迷わず、細道に入った。
通路は最初だけ狭く、次第に広がって、小さな横穴に出た。
天井が低い。だが、空気が澄んでいる。
石壁には、金色の粒を含んだ縞石が走り、光を柔らかく返す。
その真ん中に――ある。
古い石の柱。
柱の面に、見覚えのある“形”が刻まれていた。
自分の歩行ログに浮かぶ金文字と似ている。だが、もっと粗い。
古代の手で、荒く刻まれた“歩行語”。
誰かが、ここで、歩いたのだ。
たとえば、千年前。
たとえば、自分の前世。
そんな考えがよぎって、笑って、首を振る。
それが真か偽かは関係ない。
重要なのは、歩きは語になるという事実だ。
「……ありがとう」
柱に掌を当てる。
冷たさが指先から肘、肩、胸骨、背骨へと抜けていく。
骨の中に、微かな震えが走った。
《共鳴》検出:
歩行語:古層(断片)
翻訳不能
効果:歩行安定 +2.0%(持続:不定)
────────────────────
【特記事項】
“道の記憶”を取得
マップ機能:局所開示
────────────────────
「道が……勝手に開く」
視界の端で、薄い線が広がった。
この横穴から、さらに斜め下に抜ける短い通路。
そこを抜ければ、出入口に近い分岐路に戻れる。
循環する道。
歩いた者にだけ見える、やわらかな循環。
戻ろう。今日は、ここまでで十分だ。
熊を倒し、群れをさばき、歩きで先を掴んだ。
欲を出して深追いするより、いまは、足を“残す”。
来た道ではなく、“道の記憶”が示す短道を使う。
歩くほど、余計な体の緊張が落ちていく。
肩が軽い。首が軽い。腰が軽い。
足は軽くない。重い。
だが、その重さが心地よい。
重さは、世界が自分にかけてくれる重力という「見えない手」だ。
その手を、拒まない。
やがて、入口の青い光が見えた。
森の風が、肺を撫でる。
鳥の声が戻ってくる。
【探索終了】
総歩行距離:6.3km
戦闘:2
安全帰還:達成
────────────────────
【成果】
岩熊の鉱片 ×3
モスウルフの牙 ×4
苔束 ×12
────────────────────
【成長】
歩行Lv 3 → 4
歩行経験総計:4,812
ステータス合計補正:+3.4%
新技恒常化:《流脚(フルーメン)》
────────────────────
「……本当に、歩くだけで強くなる」
口に出してみると、ばかみたいに聞こえる。
けれど、ばかみたいでいい。
賢いふりをして動けなくなるより、ばかみたいに動いて、世界の方から賢くなってもらう。
帰り道、森の小道で、行きに追い抜いていった冒険者の一団とすれ違った。
鎖帷子に立派な剣、磨かれた盾。
先頭の男が、レオの素手と薄汚れたマントを見て、鼻で笑う。
「おい、ガキ。森の中を散歩か? 昼寝場所なら洞窟の中に――」
彼の言葉は、続かなかった。
レオは立ち止まらない。
ただ、“歩いた”。
足裏から滲む金色の薄い文字が、石畳を撫で、風を撫で、男の言葉の先に触れた。
罵りは柔らかく折れ、空気の中に解けた。
「……なんだ、今の」
誰かが呟くのが聞こえて、レオは笑わなかった。
笑いは、次に取っておく。
笑いたいのは、成果を数えたあとだ。
ギルドに戻ると、受付嬢が目を丸くした。
鉱片と牙と苔束を並べる。
銀貨の受け渡しは機械的だが、その指先はわずかに震えていた。
「すごいね。……本当に、ひとりで?」
「ひとりで。歩いて、少しずつ」
彼女は何か言いかけて、やめた。
代わりに、小さく頷く。
それで十分だ。
陽が傾き、ギルド前の影が長くなっていく。
レオは銀貨を袋にしまい、靴紐をまた結び直した。
日が変われば、また歩く。
歩いた分だけ世界が変わるなら、いくらでも歩ける。
酒場〈青い門〉の裏口に、夕方のパンの匂いが流れてくる。
皿を洗う音、笑い声、誰かの歌。
全部が、今日だけは、少し違って聞こえた。
音が遠のくのではなく、音に追いついているのだ。
歩きが、世界の速度と合ってきている。
空を見上げる。
雲の切れ間から、透明な星がひとつ覗いた。
その光が、ほんの一瞬、金色に見えた。
【夜間モード】
回復歩行:推奨
睡眠前歩数:300歩
効果:疲労代謝 +7%/記憶固定 +12%
────────────────────
【特別通知】
“道の記憶”更新
明日:水域訓練(流脚)を推奨
────────────────────
「了解。……明日も、歩く」
独り言は、もはや独り言ではなかった。
誰も返事はしない。
それでも、返事は届いた。
足裏に、背中に、胸骨に。
歩き続けるかぎり、返事は必ず来る。
レオは、歩いた。
歩くことしか能がない。
それが、いつのまにか最強の能になっていることに、まだ気づかないまま――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます